59話 新生の月夜
「――この世界の創造主であるクラールは、それはそれは老いて弱っているわ。貴方も肌で感じているでしょう? 魔獣が異常に増殖し、地震や噴火や異常気象が頻発して、はては日照時間まで日々短くなっていることを」
そう囁いて、サシャを覗き込むアイスブルーの瞳はどこまでも深い。
サシャはその奥底に、おそらくは百歳を超えるであろうこの少女がこれまで見てきたこの世界の美しいもの全てが、走馬灯のように浮かんでは儚く消えているのが見えるような気がした。
そしてそんな夜の姫君の口から零れる、悲しげなため息ひとつ。
「……もう、この世界は壊れかけているの。奈落はその始まり。アレに世界の全てを呑み込まれれば、それでこの世界は消えて終わり。父さんがどうにかしようとずっと奔走してたけど、その父さんも十年前くらいかしら、本格的に敵と戦うと言って姿を消してしまったわ」
「す、姿を消したって……どこに? 敵っていったい何――」
「さあ? 元々無口な人だったし、聞いても頑として教えてくれなかったわ。きっと今の私では行くことが出来ない場所か、途轍もなく危険なところね。父さんは自分がいない間、お前にこの世界を頼むと言って……。フーゴおじさんは、父さんはもう帰ってこれないかもしれないから覚悟はしておけって」
「じゃ、じゃあ、ダーシャ……姉さんは、それからずっと?」
「ふふふ、それから、というよりその前からずっと、だけどね。けれど父さんも私の行けないどこかで、未だに戦い続けてくれているから」
え、と目を見開いたサシャに、ダーシャはにっこりと微笑んだ。
「ええ、それは確かなことよ。だって奈落がこれだけ出てきているというのに、まだこの世界は残ってるじゃない。本当なら奈落ひとつでこのハルバーチュ大陸ひとつぐらい、簡単に消えてしまうのよ?」
「う、うそ……」
「残念ながら本当のことね。それが、ここまでこの大陸だけで七つも――いえ、今回のを入れれば八つも出現したというのに、どれも本来の脅威からしてみればほんの赤子のような被害しか出ていない。どこで何をどうしているのか分からないけど、父さんが抑えてくれているのだわ」
「そんなこと個人が出来る――」
「だから私も、頑張るの。こっち側で少しでも奈落を抑えれば、それがきっと父さんの助けになるじゃない。少しでもこの世界を守れるじゃない」
「…………」
「この間まではヴァンパイアネイルだけで戦わなきゃいけないと思っていたけれど、幸いにも【ゾーン】が先兵の瘴気の守りを削ぐということが分かったし、今日の戦いでその検証もできたわ。見てなさい。やってやるわよ、私は」
「…………ねえ、それ」
途中から黙り込んでしまっていたサシャが、蚊の鳴くような声でダーシャの熱弁を止めた。
まぶしかったのだ。ダーシャと父の間にある確かな絆が、信頼が、まぶしくて尊くて羨ましくて、いてもたってもいられなくなってきてしまったのだ。
「……ねえ、それ、手伝うよ。……違う。一緒にやらせて、仲間に入れて。お願い」
一度言葉にしてしまった想いは、その言葉を重ねるほどに強く、確固としたものになっていく。
「父さんがどんな人か知らないけど、きっと立派な尊敬できる人だと思うから。この世界が大好きで守りたいのは、僕だって同じだから。僕だって姉さんや父さんと、本当の意味で同じ家族になりたいから! だから、だからっ!」
言葉が泉のように込み上げてきて、勝手にサシャの口から溢れ出ていく。最後は叫び声に近くなって、何を言っているのか自分でも分からなくなったサシャの顔を、ふわりと何かが包み込んだ。
「……もう、お馬鹿さんねえ」
ダーシャだった。
彼女がいつの間にか立ち上がって、サシャの顔をその嫋やかな両腕でそっと抱き締めたのだ。
「貴方は貴方というだけで、何もしなくても初めから家族なのよ? でも、そうやって言ってくれてお姉ちゃんは本当に嬉しいわ。厳しい戦いになるとは思うけれど、うふふ、一緒にがんばりましょうね」
「…………」
「あらあらもう、大きくなっても子供みたい。お姉ちゃんね、ずっと貴方に会いたかったの。会ってこうしてぎゅって抱き締めて、もう大丈夫だよ、一人じゃないよ一緒に帰ろう、って言ってあげたくて。それとはちょっと違った形になったけど、願いが叶うってこんなに素敵なことなのね」
「ダーシャ、姉さん……」
「うんうん、貴方はもう独りじゃないわ。ずっと一緒よ」
どのくらいそうしていただろうか。
いつしか窓から月明りが煌々と差し込み、窓際に据え付けられたベッドにくっきりと窓枠の十字の影を落としている。
「……ねえ、ダーシャ姉さん」
「何?」
「あのさ、さっきクラールが老いて弱っているって言ったじゃない?」
「そうね」
「もし、だけどさ。……もしクラールが死んじゃったら、そうなったらこの世界は消えちゃうの?」
ふと我に返ってダーシャの温かい抱擁から恥ずかしそうに逃げ出したサシャが、頭に浮かんでいた疑問を口に出して尋ねた。
奈落が実は、もっととんでもなく危険なものだということは分かった。
その奈落と戦って、少しでもこの世界を守るのはいいとして。
けれどもそうして頑張っている間に、世界の方が勝手に消えてしまったら元も子もないと思うのだ。
「あら、それは大丈夫よ。だって……そうね、貴方が分かりやすいようにヴルタ――ラビリンスを例に取って説明しましょうか。ええと、歴史上これまでに幾つものラビリンスからコアが持ち出されて、そのヴルタは死んでしまった訳だけど」
ダーシャは何の感慨も見せずにそう言い切り、冷めちゃったわね、とお茶のカップを手に椅子に戻った。
「うん、その辺はこっちに来てみんなに教えてもらった。一番最近だと、さっきいたオルガが攻略したんだよね。たしか十何年か前のことって言ってたと思うけど」
「あのダークエルフの魔法使いね。彼女は彼女で魔法の嫌な気配がしないから気になってるんだけど、それはまあ置いておいて。……で、その”攻略”されて死んだヴルタが作った亜空間はどうなったかしら? 開放されたラビリンスとして、ひとつの例外もなくそのまま残っているんじゃなくって?」
「あ、確かに! じゃあクラールが死んでも、この世界は残るってことだ!」
「うふふ、正解。ヴラヌスが創る亜空間は、いわばマイマイ――蝸牛虫――の殻のようなものらしいわね。中身がどうなっても、一度創られたら殻はそのまま
「おおお」
「ま、お陰でその次元の別の存在に目を付けられやすいらしいんだけれどね。その辺りは雲の上すぎて、正直私にもよく分からないわ。父さんの専門分野ね」
再び出てきた憧れの父親の話に、サシャは密かに息を飲んで続きを待った。
「――父さんはね、本当はもう五百年ぐらいじっくり力をつけて、それでこの世界をクラールから譲り受けようとしていたの」
そして出てきたトンデモ情報。
サシャは思わず肺の中の空気を全て、驚愕の言葉と共に一気に全部吐き出した。
「えええ!? そそそそれ、言葉を替えれば次の天空神になるってことじゃない! ととと父さんて実はとんでもない人!?」
「ふふふ、父さんこそ真の英雄よ。けれども、そうなる前に邪魔が入ったの。ええと、クラールのことを天空神と喩えるなら、それと同格の他の神々によって、と喩えれば分かりやすいかしら。私たちからすればそんな訳の分からない存在に、この世界は目を付けられちゃったのよ」
「……天空神と並ぶ他の神々っていうと、色んな魔法で魔法使いに力を提供している、新世代の神々のような?」
「そうそう、まさにその次元の存在ね」
まさかと思って尋ねれば、まさかの正解である。
なんだか父親はとんでもない存在のようだが、その相手もまたとんでもなかった。サシャは自分が本当にこの人たちの家族になれるのか今更になって慄きつつ、無意識に首をすくませた。
「父さん曰く、いくらクラールが老いたからといって、ここまで急速に世界が壊れていくのはおかしいんだって。クラールと同等もしくはそれ以上の次元にある外部の存在が、老いたクラールに侵入して食い物にしようとしているらしいわ」
「何それ……。じゃあ……もしかして、奈落も?」
「半分正解。奈落は奈落なんだけど、この世界に出現した奈落は意図的に作られたものらしいわよ。クラールの守りは本来固いはずなんだけど、大昔にも狙われたことがあったらしいし、今もどうにかしてこの弱った世界に足がかりを作られちゃったのね。で、その足がかりを使って世界をどんどん壊しつつ、そうして足がかりを更に拡大しつつ、奈落で一気に守りの綻びを大きくして、どこかで直接この世界に乗り込んでくる」
サシャが生唾を飲み込む、ごくり、という音が、妙に大きく部屋に響いた。
規模が大きすぎて今ひとつ想像しきれないものの、いくつも奈落が出現してきている今、この世界がかなり危険な瀬戸際にあるというのがひしひしと伝わってきたからだ。確かに世界が壊れつつあるとは肌で感じていたが、そんな大変なことになっているとは思ってもいなかった。
「まあその辺りの別次元のことは、父さんに頼るしかないとして。私たちは私たちで出来ることをやれば良いのよ」
「できる、こと?」
「そう、さっきも言ってたじゃない。この世界に現れた奈落と戦うのよ」
確かに外部の高次存在に侵入されてはいる。
それらと直接戦う術はないが、逆に言えば、それらが一気に勝負をつけようとして送り込んでくる奈落。その奈落の被害を最小限に抑えてしまえば、そんな外部存在に直接乗り込まれることを阻止できる――そうダーシャは言うのだ。
「そっか、そうなるのか」
「そうなのよ。そして、私は【ゾーン】という奈落と戦う強力な武器を手に入れたところ。更にそこに今回の戦いで貴方という何よりの味方と、幾人もの神剣使いが集まったわ。私たちの戦いはこれからが本番よ!」
「おおお!」
この世界の水際で直接的な侵略を防ぎ、守ること。
それがサシャたちの役割だ。そうして守りきりさえすれば、後のことはその後のこの世界の維持を含め、頼れる
もちろんいつかは成長して、そんな父を手伝えるようになれればそれが理想だ。
サシャが憧れ、遠目に眺めていた理想の家族像が、現実のものとしてそこに見えている。
――やってやるぞ!
サシャは燃え上がる炎のような意気込みを胸に、翼を持つ姉と一緒に握りこぶしを振り上げた。この姉はどこかの美人ケンタウロスと違ってノリがいい。サシャは嬉しくなって、右肘を胸の高さに上げて拳で左胸を叩いてみせた。昨日覚えたばかりのザヴジェル式の敬礼を、なんだか無性にやってみたくなったのである。
「――あら?」
寸分違わずに同じ敬礼を返してくれようとしたダーシャが、拳で左胸を叩いたところで動作を止めた。その透きとおったアイスブルーの視線は、いやに明るい月明りが差し込んでいる窓に向けられている。
「……
そう呟いて窓辺に歩み寄り、まあ!と嘆声を漏らしてサシャを手招きする彼女。
サシャは招かれるままにそんなダーシャの隣に並んで立ち、指差されるままに月を見上げ――
「な、何あれ……?」
部屋の窓から姉弟が仲良く並んで見上げる夜空に、見たこともない五つの小振りの月が輝いている。
それは実に美しく、荘厳で、自然と畏怖の念が湧き起こる神聖な光景で。
見覚えのあるいつもの月を中心に、五つが円を描くように等間隔で厳かに浮かんでいる。そしてそれら全ての月の光が合わさって、周囲の夜空が静謐な黄金色で波打っているのだ。
「ふふふ、その反応ってことは貴方も見えるようになったのね。あれは五つの影月。私たちヴァンチュラが成熟を迎えると見えるようになる、
「つ、月が全部で六個も……」
「そうね。でも、ここまで明るいのはきっと――」
ダーシャはそこで感極まったように黄金色の夜空を見上げ、いつしか目尻に浮かんでいた涙をそっと手の甲で拭った。
「…………父さん。父さんが、私たちの再会を喜んでる。自分の厳しい戦いの最中にも、ずっと見守ってくれていたのだわ」
ダーシャのその言葉を肯定するかのように、夜空の静謐な黄金色がひときわ大きく波打った。そして、その神聖なる
「あ……」
サシャが、思わず声を漏らした。
頭の中に、遠く父の声が聞こえた気がしたのだ。
何と言っていたかまでは分からないが、厳しくもやさしい、慈しむような深い声だった。
「父さん、なんだね……」
サシャの視界が急速にぼやけ、後から後から涙が込み上げてくる。
自分は捨てられたのではなかった。家族はちゃんと、ここにいた。自分を心配して、探して、待っていてくれたのだ。
残念ながら、母はもうこの世にいないらしいのだけれど。
それでも、姉がいて、父がいて。
これ以上のものは必要ではないくらいに、言葉にならない感動が涙と一緒に溢れ出てくる。胸から湧きでる温かな幸福感が手足の隅々まで満たし、それでも余った分が心地の良い涙となって頬を伝っていく。
「…………もうひとりじゃ、ないんだね」
サシャはそのまま、窓際にダーシャと並んで
自分の種族のことや、家族のこと。
そこにクラールのことや、奈落のことなんかの正直あまり知りたくはなかった裏情報はあったけれども。
彼の本当の意味での居場所は、この月明りの下にあったのだ。
この荘厳な月明りと共に、ここでしっかりと彼を待っていてくれたのだ。
ならば、これまでの分もそれを取り戻して。
これからはこの居場所を守るために、精一杯戦って、精一杯生きていこう――サシャの心に、そんな静かな決意がしっかりと根付いていく。
そして。
遂に役者が揃ったこの
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