46話 防壁上の乱戦(前)

「な、何アレ……ちょっとやばくない?」


 ヘルベルトを始めとした騎士団の重鎮たちがずらりと並んだ、臨戦態勢の領壁の上。

 サシャが思わず声を上げた、瘴気たなびく荒野の地平線に浮かんでいたもの――



 ――それは、両腕が禍々しい鎌となった、巨大な空飛ぶ蟻のような化け物だった。



 その数五十を優に超えるそれは、差し渡し十メートルはあるだろうドラゴンのような皮翼をゆったりと羽ばたかせ、地鳴りと共に押し寄せてくる死蟲の大群の上を悠然と飛んできている。


 昨日の戦いで守備兵たちがかろうじてこの領壁を死蟲の大群から守りきったのは、言わずと知れた、相手が登ってこれない領壁の上から迎え撃っていたからである。その絶対的な地の利が、あの新たな空飛ぶ蟲の出現で脆くも崩れ去ったのは自明のこと。


「――サシャ、これを染められるか? 無理を承知で頼む」


 呆然と固まっていたサシャの眼前にシルヴィエが、ぐい、と突き出したのは、彼女が片時も手放さない愛槍だった。


「い、いいのシルヴィエ? お父さんに貰った大切なものなんじゃ」

「そんなことを言っている場合ではなくなった。壊れてもいい、アレがここに来るまでにどうにか出来るだろうか?」

「や、やってみる」


 サシャは大きく息を吸い込むと、シルヴィエの手からその愛槍をしっかりと受け取った。


 シルヴィエの判断は至極真っ当なこと、それはサシャにも分かる。

 あの空飛ぶ蟲がやはり初めは剣も魔法も効かないとしたら、全てを空から叩き落とすのはサシャ一人の役割となってくる。


 それが強引にでもこの槍を染めることで、シルヴィエも加勢できるようになるとすれば。どうせ奴らが襲ってくるまでは何も出来ない、そうであるならば今するべきことは。


「……よし、加減している暇も余裕もないから、初めから全力全開でいくよ」


 両手でシルヴィエの愛槍を領壁の石床の上に真っ直ぐに立て、サシャは指が白くなるほどに強くそれを握り締めた。ゆっくりと胸一杯に息を吸い込んで目を瞑り、そして。


「――――ッ!」


 声にならない声が周囲から一斉に零れた。

 慌ただしくバリスタを配置していた兵たちが、新種の蟲の出現に物は試しと飛び出してきた魔法使いたちが、突如として闇夜の月光のごとく膨れ上がった静謐な青光に息を飲んだのだ。




 ……行っけえええええ!




 宣言どおり、手加減など一切なしの癒しを注ぎ込むサシャ。


 昨日ラビリンスコアが力を譲ってくれた体内の青の泉を引っくり返す勢いで、そしてどうやらその際に少しだけパワーアップしていたらしき癒しの出力、その限界を更に押し上げる勢いで、文字どおり全力の癒しをシルヴィエの愛槍に叩きつけていく。


「……!」

「…………! …………ッ!」


 なにやら周囲が騒然としはじめているが、そちらに意識を向ける余裕はサシャにはない。こうして全力で染めようとやってみて初めて、なんとなくだが感覚が掴めたような気がするのだ。


 それはひと筋の光すら届かぬ深い深い水の中で、周りの凍えるような冷たさに負けぬよう、自らの光というか熱というかを分け与える作業のようなもの。


 ちょっとやそっと分け与えたぐらいではすぐに霧散してしまうけれど、大量に分け与えてやれば自立したもうひとつの光源となる。……まるでラビリンスでその存在を感じた、静かな青光を放つ転移スフィアのように。


 もしかしたら、あの転移スフィアもこうやってコアが作ったのかも――そんな雑念がサシャの脳裏をよぎるが、今はそれどころではない状況だ。


 シルヴィエの槍を自立させるまでにどこまで青の力を注げばいいか、それすら今のところ見当もつかないし、今の勢いを少しでも弱めれば霧散していく量の方が多くなり、全てが無駄になることも分かる。限りある青の力を無駄にしないためには、このまま突っ走るのが最上なのだ。


 けれどもそうやって奮闘するサシャに、どうしても気になることがもうひとつある。

 周囲の暗く冷たい水の中を、もっと暗く冷たい塊りが何千何万と、急速に接近してきているのだ。


 それは方角で言えば、死蟲の大群が押し寄せてきている方角。


 もしかすると、否、もしかしなくても何千何万あるそのひとつひとつが死蟲。

 癒しに極端に弱いそれらを、この暗闇の中ではこうして感知できてしまうのかもしれない。


 大地を席巻するように近づいてくる無数の暗点と、その上を飛んでいる五十を超える少し大きい暗点。それらはそろそろ、兵たちがサシャの周囲に緊急展開しつつあるバリスタの射程に入る頃合いで――




「者共、放てえ! 以後自由射撃! 各員、飛行型の翼を狙って撃ちまくれ!」 




 ――そんな号令が、集中を乱しつつあるサシャの耳に飛び込んできた。


 死蟲にバリスタが効かないのは分かっている。剣などの物理攻撃と同様、体表の瘴気に触れた途端に弾かれてしまうのだ。


 だが、新しく出現した飛行型の蟲、その薄く柔かそうな皮翼ならもしかして。


 そんな一縷の望みに賭け、新手の蟲を確認するなりヘルベルトらが即座に境壁上に展開させていたバリスタ群。ついにその射程にまで暗黒の先兵が押し寄せてきたのだ。


 サシャの手の中にあるシルヴィエの槍は未だ自立にまで至っていない。至ってはいないが、あともう少しのところにまでは来ていて――


「駄目ですッ! あの翼も攻撃を弾いていますッ!」

「いやまだ分からぬ! あれだけ薄いのだ、同じ場所に二度三度と当たればもしかして!」

「報告! 魔法も死蟲と同様、やはり何ら傷つける事なくすり抜けていきます!」

「ヘルベルト殿に伝令! ファルタからの増援部隊が後部陣地に到着! ザヴジェル本家のヴィオラ姫ほか魔剣使い数名が、先行してこちらに急行しています!」

「飛行型、バリスタをものともせずに突っ込んできます! 司令官殿は一旦退避を! 大盾隊、前へ!」


 もはや戦況は一秒の猶予も許さない。

 サシャは最後のあがきとばかりに、ありったけの青の力をシルヴィエの槍に叩きつけ、そして。



「シルヴィエお待たせ! 完全じゃないけどそれが今の限界!」



 決然と顔を上げ、青く輝く槍をシルヴィエに放り投げたサシャの視界に飛び込んできたもの――



「こいつは大漁っ! 狩り放題だねっ!」



 ――それは、眼前にまで迫った禍々しい飛行蟲の一群と、地表を埋め尽くす死蟲の大群だった。


 今こそ本当の出番。

 サシャは刹那の判断で、まさに空中から襲いかかられようとしているバリスタの前へと駆け出した。


 混乱する境壁の上が邪魔だと言わんばかりに胸壁の上へと飛び上がり、人々の視線の正面、その狭い足場を風のように疾走していくサシャ。眩いばかりの青光をまとったままの両手で、走りながらも背中の双剣をなめらかに引き抜いて――


「やああああっ!」


 宙に描かれる青き二本の閃光。

 飛行蟲が甲高い断末魔を上げながらそのままバリスタに突っ込み、盾を構えていた数人の兵士ごと境壁上を転がっていく。


「次っ!」


 湧き起る怒声と共に滅多斬りに屠られていく飛行蟲を振り返りもせず、サシャは胸壁上を次の飛行蟲へとひた走る。群れから先行してきているのは未だ数匹、幸いにして分散してはいないので移動は最小限で済む。


「――っと、逃がさないよ!」


 胸壁上を疾走するサシャを咄嗟に高度を上げて回避しようとした、その飛行蟲の腹を跳躍一番、かろうじて青く輝く右剣の切っ先で切り裂く。


 そしてそこからの落下の軌道上にいた別の一匹に斬りつけつつもその背中を踏み台にして再跳躍、その先に滑空してきていた四匹目の巨大な皮翼を真ん中で斬り飛ばす。


「うひゃあ!」


 そこからどうにか兵士たちを避けて領壁上に着地したサシャが鋭く顔を上げれば、五匹目の飛行蟲の大鎌が襲いかかってくる瞬間だった。怖気立つ瘴気をまとわせたその大鎌を紙一重で回避し、高速で飛び去っていくその後ろ腹に青の一閃をくれてやる。


「多分これで五匹――だけどっ!」


 空飛ぶ蟲は五十以上、まだその一割もやっつけてはいない。

 襲撃してきた先陣は対処できたものの、素早く戦況を確認すれば後続が次々に境壁上に襲いかかってきている。


 そして壁の下には早くも死蟲の大群が押し寄せ、妨害の手が弱まった境壁をわらわらとよじ登ってきている状況なのだ。


 だが、天を突くような戦場の大喊声の中、混戦の向こうで青光煌めく槍を縦横無尽に操っている騎馬武者がいる。サシャ同様に飛行蟲を近寄る端から無力化していく、英雄ケンタウロスの娘シルヴィエだ。


 そして守備兵たちも無策ではない。

 ここが勝負どころだとポーションを雨あられと投げつける者もいれば、巨大な盾タワーシールドだけを構えて最前線に立つ勇敢な猛者たちもいる。


「こっちだ、かかってこい化け物!」

「うらああああ! ここで抑えきってみせる!」


 今日になって急遽新編成された盾のみの彼らは、簡易的に大盾隊と呼ばれる志願兵たちだ。


 サシャの攻撃やポーションが当たるまでは剣も効かない、魔法に至っては死骸になってもすり抜けていってしまう相手、それならば。


 どうせ効かない攻撃は全て捨て、全力を以て盾を保持して、攻撃できるようになるまで前面で死蟲を封じる――彼らはそんな役割を持つ勇敢な精鋭たちなのだ。


 そしてこの予想以上の乱戦の中、彼ら大盾隊が目覚ましく活躍している。

 上空から飛び込んできた飛行蟲を巨大な盾タワーシールドで取り囲み、大剣の如き大鎌の攻撃も見事にいなし続けている。


 その中核を為しているのがハンター系重戦士クラン、<連撃の戦矛>だ。熊人族のバルトロメイ筆頭とした彼らは、普段からこうした巨大魔獣相手の耐え忍ぶ戦いを得意としている。そしてその真価を、この土俵際でこれでもかと発揮しつづけているのだ。


 けれどもそんな彼らも、次から次へと飛来してくる飛行蟲相手には絶対的に数が足りていない。あちらこちらで盾ごと吹き飛ばされ、苦悶の怒声が――




「させるかっての!」




 サシャが戦況を俯瞰していたのも一瞬のこと。

 後ろ腹を切り裂いた飛行蟲が金切声をあげて領壁上に墜落した時には、青光をまとった双剣は近隣で暴威を振るう最寄りの飛行蟲へとふりかざされていた。


「おお! 助かる神父殿!」

「バルトロメイさんも気をつけて! それと後はお願い!」


 目にも止まらぬ雷のような一撃を体躯のどこかに与え、相手がつんざくような金切声を上げればサシャの仕事は終了だ。とどめは雄叫びを上げる周囲の兵士たちに任せ、次なる飛行蟲へと駆け抜けていく。


 一匹、さらに一匹。


 そうしてサシャが次から次へと蟲を無力化してはいくが、さらに少し距離を置いた場所でシルヴィエも同様に奮闘してはいるが、いかんせん上空から襲ってくる飛行蟲の数は多い。


 その上さらに、昨日まで相手をしていたムカデ型の死蟲と違い、今日出現した飛行型には大鎌の腕があるのだ。投げつけられるポーションを俊敏にその腕で払い、腕だけを犠牲にして暴れ続ける――それも乱戦に拍車をかけている要因かもしれない。



 そして、ついに。



「駄目だ抑えきれない! 死蟲が登ってくるぞッ!」

「気をつけろ、挟み撃ちにされ――うぎゃあああ」


 上空から襲来する飛行蟲に未だ大混乱に陥っている領壁に、ついに死蟲までが胸壁を乗り越えてなだれ込んできた。


 その範囲、二百メートル――



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