43話 疾走

 夕暮れ迫るザヴジェル独立領。

 その南端に近い人っ子一人いない寂れた街道を、背後にもうもうと砂塵を引き連れて更に南へと猛進する人影がふたつ。


 ひとつは逞しい馬体に、しなやかな女流騎士の上半身を乗せたケンタウロス。もうひとつは肩掛け鞄を風になびかせ、黒の珍しい神父服を着た小柄な少年。その少年はなんと、全力で疾駆するケンタウロスに負けじと人外じみた脚力で並走している。


「ねえシルヴィエ! ひとつ疑問に思っていることがあるんだけど!」

「何だ! 言ってみろ!」


 どんな早馬をも上回る速度で疾走しつつ、会話をする余裕がある二人はもちろんサシャとシルヴィエだ。迷宮都市ファルタで前線への支援物資他を受け取った後、日が暮れる前にと領境の戦場めがけてひた走っているのだ。


「あのさあ! シルヴィエの背中に乗せてくれるんじゃなかったっけ!」

「何を馬鹿なことを! 私がお前を乗せて走るよりこの方が早いだろう!」

「えええ、話が違うよ!? だってラドヴァンさんとそう約束してたじゃん! いつ乗せてくれるのか、これまでずっと楽しみに待ってたんだけど!」


 サシャが言うのは、出発前に<密緑の迷宮>の管理小屋で持たれた話し合いのことだ。


 あの場でシルヴィエは、ユニオンが慣習に目を瞑ってカーヴィの特級従魔登録をしてくれるのであれば、自分もケンタウロスの誇りを枉げて時間短縮に協力する――確かにそう約束していたのだ。


「知らん! 私がラドヴァンと約束したのは、最も早く領境に着く、それを第一の優先事項とすることだけだ!」

「ええええ、そう言われてみればそんな風な口ぶりだったけどさあ!」

「実際この方が速いのだ! お前を乗せたらバテてどこかで休憩が必要になる! この形がどんな早馬よりも迅速なのは間違いない! それにあの場でお前の走力を語ったところで向こうは信じなかっただろうが!」


 確かにそれはシルヴィエの言うとおりである。

 けれどもあの時ちらりと見せたドヤ顔はまさか、最初からこうするつもりだったということなのだろうか。となれば普段どおりの移動しかしていないのに、ユニオンから特級従魔の認可をせしめたシルヴィエの交渉術はなかなかのものだ。


 なかなかのもの、なんだけどなあ――サシャは釈然としないものを感じつつも、せめてもの抵抗とばかりに攻め口を変えた。


「じゃあケンタウロスの誇りがどうのって言ってたのは! あれは嘘だったの!?」

「私は誇り高きケンタウロス、背には誰も乗せない! けれどもこうして全力で走っているのに軽々とお前に並走される、それが私の誇りを傷つけないはずがなかろう!」

「えええ何そのヘリクツ! それに嘘つき! 背には誰も乗せないって、そもそもこないだリリアナさんとタチャーナちゃんを乗せてたじゃんか!」

「あれは別だ! 可愛いは何ごとにも勝る時があるからな! 場合によってはオットーのところのユリエも乗せてもいいが、サシャ、お前は駄目だ!」


 高速で街道を疾走しながらとんでもない駄目出しをされたサシャは危うく転びそうになり、けれどもシルヴィエの気持ちも分からなくもない、そんな思いも浮かんだ。


 自らの嗜好のために種族の誇りすら埒外にするとは、さすがは同志シルヴィエである。澄ました顔でぶれないところもまた、彼女が評価に値する同志である証左かもしれない――とりあえずサシャはそう自分を納得させ、走り続ける。それにまあ、正直なところサシャは普通の馬にすら乗ったことがないのだ。


 シルヴィエの背中に乗せてもらったにしろ、この高速で激走する状況ではどこにどう掴まればいいかも分からない。もし何かのはずみで変なところに掴まったりしてしまった場合…………サシャはあまりの恐ろしさにそれ以上考えることを止めた。


 目的地の領境は、ファルタの街から半日の距離にあるという。


 ならばもう半分は過ぎている頃合いであり、とにかく日が落ちる前に駆け込まないといけないのだ。空は既にオレンジ色に染まっており、つまらないことでシルヴィエと言い合っている時間はないといえばない。


 サシャは今も現地で必死に戦っているであろうバルトロメイたちの姿を思い浮かべ、会話をやめて走ることに集中することにした。



 ◇



「ねえシルヴィエ! ちょっと相談があるんだけど!」

「何だ! 言ってみろ!」


 しばらく黙々と走り続けた後、サシャは再びシルヴィエに声をかけた。

 目的地に着いた後のことを色々と考えていて、不安材料がひとつあることに気づいたのだ。


「あのさあ! これまで誰にも言ってなかったことがあるんだけど!」

「何だ! 私はもう今さらお前が何を言いだしても何をやりだしても驚かないぞ!」

「おおふ……」


 サシャはシルヴィエの予想外の返しにまた転びそうになったが、人外の反射神経でかろうじて体勢を立て直し、それまでどおり並走を続けた。


 確かに考えてみれば、シルヴィエはサシャの人生史上、かつてないほどにサシャの色々な特異点を見聞きしている人物だ。神の癒しから始まって、カーヴィがなぜか懐いたことを含むラビリンスでのあれこれ。そもそもこうして人の枠から少しだけはみ出した走力をまるまる見せているのだって、これまで誰かにここまではっきりと披露したことはない。


「……あのさあ!」


 気持ちを立て直したサシャが、再びシルヴィエに声をかける。

 サシャが気づいた不安材料――それはずばり、自分の体の中にある青い泉のことである。


 目的地である領境の戦場に着いたら、そのまま死蟲との戦いになると思われる。自分の神の癒しが死蟲を弱体化させられるかは分からないが、そうでなくても怪我人を大量に癒すこととなる。はたして青い泉は足りるのか。


 幸いなことに今は<密緑の迷宮>のコアが青の力を大量に流し込んでくれたお陰で、自分でも驚くほどの量が泉でたゆたっている。けれどもそれを使ってしまえば、そこからは最も嫌で最も人に知られたくない手段、魔獣からの吸血で補充しなければならないのだ。


 それは、大丈夫なのか。


 夜中にこっそり抜け出し、人知れず補充することも出来なくはなさそうだが、おそらく割り当てられる寝床は不眠不休の死蟲と戦っている防衛陣地の只中である。誰にも気づかれず、密かに出入りできるものなのだろうか。


 そんな不安が、サシャをいてもたってもいられない気持ちへと駆り立てるのだ。


 もし誰かに見つかったら絶対に理由を聞かれるだろうし、かといって補充なしで泉が空になったら文字どおりの役立たずになる。せめて誰かに打ち明け、カーヴィのことがそうだったように、味方を作る努力をした方が良いのかもしれない――そんな気がしてきてしまう。


 そうなると、打ち明ける相手として真っ先に浮かぶのかシルヴィエだ。そしてタイミングとしては今。余人を交えず二人きりで走っているこの状況、絶好のチャンスといえばチャンスなのだ。


 改めて見れば黙々と走り続けるシルヴィエの凛とした美貌にはうっすらと汗が浮かび、濡れたアッシュブロンドの髪がひと房、その首すじに貼りついたままで放置されている。もうかなりこの速度で走り続けているのだ。さすがに疲れてもきているだろう。


 サシャは思い切って覚悟を決め、手短に伝えてしまうことにした。


「……あのさあ! 物心ついた時から孤児だったし、そもそも捨て子だったみたいだからちゃんとは知らないんだけどさあ! 僕ってたぶん何かの混血なんだよね!」

「だからどうした、珍しくもない! そんなことを言えば私はケンタウロスとアラクネの混血だ! 種族なんて何であろうと関係ないだろう! サシャはサシャ、お前という個人なのだぞ!」

「わあ、シルヴィエ……」


 思わず二の句を失ってしまったサシャ。

 全部を聞いたその後に言われたら嬉しい台詞を、この微妙なタイミングで先回りで言われてしまったからだ。


 義理堅いシルヴィエのことではあるし、全てを聞いた後から「やっぱりさっきのナシ!」と言い出すことはないと思われるが、どことなく出鼻を挫かれてしまった感がある。そしてこの一瞬の間が、サシャから先ほどの決意をするりと抜き取ってしまってもいる。


「――どうしたサシャ、それだけか! 正直だいぶ息が上がってきた! お喋りはこの辺りで終わりにしてくれると助かる!」

「………………ごめん」


 結局サシャはそれ以上は言い出せず、シルヴィエを気遣ってややペースを落として走るに留めた。


 延々と続く寂れた街道の右に広がる林の向こうには、真っ赤に染まった太陽が急速に地平線へと近づいている。


 ――日没まであとわずか。


 それはサシャたちがこうして自由に疾走できるタイムリミットであると同時に、朝から死蟲と激闘を続けている領境の戦士たちの、気力の限界をも意味しているのではなかろうか。


 魔獣と同様、夜は奈落の先兵の活動が活発になると聞く。


 数に限りがあるポーションの備蓄を横目に、孤軍奮闘する守備兵たちが絶望的な思いで夜間戦闘へと引きずり込まれるかどうか。それはサシャたちの到着にかかっているといっても過言ではない。



 ◇



「物見櫓より伝令、また群れで登ってくるぞ!」

「くっそ! 次から次へと、しつこいんだよっ!」

「槍兵、石突を揃えて突き落とせ! 殺せると思うな、落とせばいいのだ――三、二、一、今っ!」 


 ザヴジェル独立領の南端、数年前までキリアーノ家が治めていた旧キリアーノ領との領境。森を横切り丘を越えて築かれた長大な領壁の旧キリアーノ領側には、今や無数の死蟲が地を埋め尽くしていた。


 禍々しさ漂う、体長三メートルにも及ぶ緋色の巨大ムカデ――おぞましき闇の先兵、死蟲をひと言で表すとそれだ。剣も魔法も効かないその奈落の先兵が、数年前より治政放棄されている旧キリアーノ領側の荒れ地から、まるで地滑りのように押し寄せてきているのだ。


「うわあああっ、落としきれない! 乗り越えてくるぞっ!」

「ポーション! ポーションを使えッ!」

「ですが隊長、我が隊への割り当てはもう残りが――」

「いいから使え! 死にたいのかッ!」


 死蟲が押し寄せてきている激戦区は幅およそ二千メートル。

 たまたま死蟲と遭遇した民間ベースの調査隊ももちろん戦線に組み入れ、予備兵など皆無の総力戦が朝からずっと続いている。


 奈落すなわち生の終焉。異形の化け物たちが引き連れる漆黒の霧に飲まれたが最後、その土地は暗黒に喰われて消える。死にたくなければ南方へは近づくな――


 そうとまで言われた死の先兵が、ついにここザヴジェルに押し寄せてきたのだ。この領境で何とか食い止めようと、ザヴジェルの戦士たちは文字どおり命がけの戦いを繰り広げている。


 彼らにとって唯一の救いは、剣も魔法も効かないと言われていたその死の先兵を、ポーションで弱体化させられると判明したこと。

 魔法使いたちが数年にわたって作り上げた長大な境壁に陣取り、ギリギリのタイミングにだけポーションを使って、かろうじてここまで死蟲の猛攻を食い止めてきているのだ。


「いいか! 先ほどファルタから連絡があったそうだ! 本物の神の癒しを使える神父が見つかって、ありがたいことに既にこちらに向かっているらしい! そうすれば本部にある緊急用ポーションが我々のところにも回ってくる! それまで何としてでも耐えるんだ!」

「りょ、了解しまし――ぎゃあああ」


 けれども朝から戦い続けている彼らはもう、気力だけで動いているようなものだ。


 相手はポーション無しでは殺そうにも殺せず、領壁の上から突き落とすだけしかできない化け物。何度落としても無数の足を蠢かして這い上がってくる。更には後から後から無限に数が増えていくのだ。


 ちょっとした足元のふらつきが連携の乱れを生み、その僅かな隙を、剣も魔法も効かない巨大なムカデが文字どおりこじ開け乗り込んできて――


「があああ、脚が、俺の脚がああああ!」

「この化け物がッ! これでも喰らえッ!」

「者共、頭だ! ポーションは頭にかかった! 頭なら剣も槍も通じるぞ!」

「うおおおお!」


 当初からぎりぎりの綱渡りだった攻防が、今では領壁上のあちらこちらで白兵戦にもちこまれている。そして隣で死蟲が暴れ出すと、一瞬の動揺からか連鎖するように周囲でも戦列が乱れ始めていく。


 さらに。

 ただでさえ早い日没が、今日はまた一段と早く戦場に訪れている。


 大気は忍び寄る薄闇に浸食され、群がりくる死蟲の大群はさらに勢いを増し始めている。そしてそれら大群の彼方に目をやれば、明らかに不自然な漆黒の靄がたなびき始めてもいる。


 その漆黒が完全に実体化をすれば、そこから死蟲どころではない本物の奈落の化け物群が湧き出てくるのだ。この戦況を俯瞰する者がいればこう審判を下すかもしれない――



 もう限界だ、と。



 けれども精強で名高いザヴジェル騎士団はそこで諦めず、躊躇わずに切り札を切っていく。


「本部より通達! 最後のブラディポーションを緊急配備します! これを使ってください!」

「助かった! すまんが怪我人は後だ! まずは領壁上の死蟲を排除するッ!」

「神父が来たのか!? レオを、レオを癒してもらってくれ!」

「すみません、神父殿が到着したとの報は未だありません! この緊急配備はあくまで戦線維持の為の非常措置――」




 その時。




 伝令兵の顔すら分からぬ薄闇の中、鮮烈な青光が領壁の西端上から迸った。

 続いて湧き起こる戦士たちの歓声。そして、立て続けに響き渡る複数の死蟲の断末魔。


 何事かと振り返る戦士たちの中、間を開けずに別の伝令兵が走ってきた。


「し、神父殿が到着! 即座に参戦され、神の癒しで死蟲を片端から弱体化中! ポーションの死蟲への使用は一時見合わせ、緊急を要する負傷者がいればそちらに使うようにとのこと!」


 薄暮の領壁を照らし上げる青光の方角から駆けてくるその伝令兵は、大声でそんなことを叫びながら走り寄ってくる。


「神父が参戦だと!? どういうことだ、神父などよぼよぼの老人ではないのか!?」

「ああノセク隊長、神父殿は年若き少年です! 双剣を煌めかせ、戦神の如き身のこなしで死蟲を立て続けに打ち倒し!」

「何だとッ!」

「もうじきこちらにも救援に来ます! どうかそれまで戦線の維持を!」


 伝令兵はそう叫び、未だ報せが伝わっていない東側へと駆け去って行く。

 信じられない思いで隊長が振り返ったその先には、戦士たちの大歓声と共に接近してくる青い光源がある。


「あれは――」


 そこに垣間見えたのは、全身に神々しいまでの天空神クラールの青い聖光をまとった神父服の少年。確かに凄まじいばかりの身のこなしで次々と死蟲を打ち倒しながら、領壁上をこちらに向かって物凄い勢いで疾走してきている。


 少年の武器は双剣。

 死蟲を斬り伏せるところまではいかないが、怒りに上半身を立ち上げる禍々しい巨大ムカデの懐にするりと潜り込んでは、鮮やかな一撃を残して駆け抜けていく。


 同時に耳を覆いたくなるような、化け物の金切り声が周囲に響き渡る。

 ムカデの化け物がそれで崩れ落ち、領壁の上で激しくのたうちまわりはじめていくのだ。


 神父が足を止めてとどめをさす必要はない。

 それで充分なのだ。後は周りにいる戦士たちがもがく巨大ムカデを喊声を上げて取り囲み、これまでの怒りを込めて滅多打ちで屠っている。


 そう。


 あの聖光をまとった若き神父の一撃が与えられさえすれば、死蟲は殺せるようになる。ポーションの残数に怯えることなく、全てを脅かす禍々しき死の先兵を止められるのだ。



「ああ、クラールよ――」



 隊長は、そこに神の存在をはっきりと感じた。


 弱りはて、長い眠りについているという主神クラール。

 そのクラールが自分達を、ザヴジェルを、いやこの世界に住まう人間全てを闇の先兵から護るために、ついにこの場に降臨したのだ、と。


 より正確に言えば、風のように疾走してくるその若い神父に、天空神そのものの大いなる全能感を感じたのである。



「――クラールは我らと共にあり! 我らは見捨てられてなどいない! 者共、もうひと踏ん張りだ!」



 天にも届かんばかりの歓声が周囲の戦士たちから沸き起こる。全員に主神の絶対的加護が降りたかのような、力漲る生の咆哮だ。


「クラールに感謝を! ここは絶対に守りきるぞ!」

「うおおおお! 一歩たりともザヴジェルに奈落を入り込ませるな!」

「こんの蟲けらが! これはレオの分だっ!」


 限界かと思われた戦況は一気に盛り返し、それからまもなく、ザヴジェルの戦士たちは悪名高い奈落の先兵の侵攻を食い止めることに成功する。


 禍々しき死蟲の大群は潮が引くように退却を始め、実に十時間にもわたる死闘を繰り広げた勇敢なる戦士たちに、束の間の休息が与えられたのである。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る