28話 癒しの値段(後)

 ――おおお落ち着いてシルヴィエ?


 唐突に愛槍を床に突き立てたシルヴィエに、サシャが心の中で慄いている。

 ここは自分が前に出て、と場を収めようとも思ったが、そこから始まったのは怒りを露わにしたシルヴィエの独壇場だった。


「おいアルビン、自分が何を言っているのか、何に口出ししようとしているのか本当に分かっているのか?」


 槍の石突を床に突き立てたまま、底冷えのする低い声で場を支配するシルヴィエ。


「お前がこの兄弟に肩入れして力になってやりたいと考えているのは分かった。だが、もし本当にユニオンがこの兄弟の功績を認めて後援しているというのなら、<豊穣の大地>とやらに交渉して治療の援助をさせて、引退勧告を取り消させるのが本来の筋ではないのか?」

「な……。俺だって今聞いたばかりの話だ。それに、そんなの大ごとすぎるじゃねえか」


 シルヴィエの筋の通った反論に、アルビンの勢いがゆっくりと止まった。最後は口ごもるようになったその言葉尻を、シルヴィエが捉えて更に追い詰める。


「は、大ごとすぎるとは笑わせる。ならばユニオンがこっそりポーション購入の補助金を出すとか、お前が自腹で援助するとか、他に方法はいくらでもあるだろう。それらをひとつもやらずにおいて、たまたま居合わせただけのサシャに、知りもしないクランやディガーのために泥をかぶれ――お前はそう言っているのだが? これにどこか間違っているところはあるか?」

「…………」

「サシャだって同じユニオンの登録者だ。なぜユニオン職員から頭ごなしにぼったくりと非難され、相場以下の金額で奉仕を強要されなければならない? サシャにそう言えるぐらいだ。当然ポーションの販売元にも、そこの兄弟のために同じ理屈で値下げを要請できるんだろうな?」


 アルビンが「うっ」と小さく呻いて一歩後ずさった。

 ポーションの販売元は、ザヴジェル独立領を治める領主一族だというのが公然の秘密である。一介のユニオン職員のアルビンがそんなことを言い出せるはずもない。


「アルビン、お前が口にしたことはつまりこういうことだ。――クランにも、ユニオンにも、領主一族にも言えないし自分で援助するつもりもないけれども、サシャが代わりにどうにかしろと。ユニオンに入ったばかりでどのクランにも未所属、そんなソロの新人ならユニオン職員の言うことは聞けるよな、と脅してみた訳だ」

「そそ、そんなことまでは言ってねえって。ただ、ポーションと違って神の癒しなら材料費はかかってねえだろう? 金貨一枚とか高すぎるだろうが」

「ほう、サシャの癒しの価値は金貨一枚には足りないと? それはユニオン職員としての公式な発言か? ひとつ教えておいてやろう。サシャは今、癒しを目撃した<連撃の戦矛>と<幻灯狐>から猛烈な勧誘を受けている。現段階で提示されている報酬は年に金貨数十枚、おそらくまだまだ跳ね上がるだろうな」

「な……<連撃の戦矛>と<幻灯狐>だと? どっちも雲の上の大御所じゃねえか。それがズブの新人に、いきなり金貨数十枚の契約を……?」


 アルビンの声が小さく震え出した。

 ひょっとしたら自分はとんでもない新人を相手にしていたのではないかと、そんな理解がゆっくりと頭に染み込んできたのだ。そう言われてみれば、ファルタの副支部長がじきじきにユニオン登録をしたとか言っていたような――


「いいかアルビン、よく聞け。確かに神の癒しに材料費は何もない。安売りしようとすればいくらでも安売りできるのかもしれない。サシャには神殿という後ろ盾になる組織もないから尚更だな。だがな、それで一度安売りしたという評判が立ってみろ。これまで上級ポーションを使っていた人間が、全てサシャのところに押しかけてくるのだぞ?」


 シルヴィエが、ぽん、とサシャの頭に手を置いた。

 その言葉はアルビンに向かって言っているようで、実は自分に向けられているのではないだろうか――強いて無言で話を聞いていたサシャは、何の脈絡もなくそう感じた。


 思わず見上げようとしたサシャの頭をシルヴィエは視線を向けずに優しく撫で、そのまま言葉を続けていく。


「そうだな、資金繰りの厳しい中小の傭兵クランやハンタークランは皆、ここぞとばかりに飛びつくだろうな。同じ治癒効果なら安いに越したことはないし、権力で脅せば更なる値引きが出来るといった噂があれば尚更だ。そうなるとどうなる?」


 その答えは容易に想像できる。

 だがシルヴィエはあえて誰にも口を挟ませず、ひと呼吸だけ置いた後に自ら回答を口にした。


「サシャのところには昼夜を問わずそんな者たちが押しかけ、更にはこれまで上級ポーションが買えずに諦めていた者たちも押しかけ、あの手この手で癒しと強引な値引きを迫ってくるだろうな。そして、望まずともそんな安売りをするサシャを、商売敵となるポーションの販売元――領主一族はどう見ると思う? 少なくとも良い感情を抱くことはないだろうな」


 シルヴィエが言うのは充分にありそうな、けれども絶対に避けたい未来図だ。どう転んでもサシャが望む平穏な生活からは程遠い。


「アルビン、お前はそうなる切っ掛けを作ろうとしていたのだが、しかもユニオン職員という立場を使ってそれをごり押ししようとしていたのだが、お前にその責任は取れるのか? そこまで考えた上で安くしろと口を挟んできたのか?」


 ついに言葉を失ったアルビンが、ごくり、と唾を飲み込んだ。

 自分が何も考えずにどれだけ大きな問題に横槍を入れようとしていたのか、それをまざまざと理解したのだ。


 主神クラールが眠りに就き、終末迫るこのご時世。

 終わりの見えない魔獣との戦いが続く中、怪我の治療という領域は極めて重大な影響を持っている。ザヴジェルでポーションの製作販売を領主一族が統括しているのはけして故なきことではない。


 領主一族がポーション絡みで利益を得ていないことは有名な事実で、それはユニオン職員であるアルビンは良く知っている話。生産者を搾取しないギリギリの値段設定でザヴジェルのポーションは売られているのだ。


 それはそれだけ魔獣やラビリンスの脅威が大きいということだし、それだけこのザヴジェル独立領が良い領主に恵まれているということでもある。


 そこに唐突に現れたらしき、神の癒しが使えるという少年。

 よくよく考えてみれば癒しという時点で領主のポーション事業と密接な関わりがあり、そもそも怪我の治療というものが世の中全体の重要関心事項なのだ。とてもではないが一介のユニオン職員が、その場の思いつきと勢いで口を挟めるものではなかった。


「サシャの癒しは一回につき金貨一枚。完治してもしなくても、返金も値引きも一切応じない。上級ポーションと同程度の効果で、同程度の値段と条件だ。何か文句はあるか?」

「いや、それでいい……」


 アルビンが消え入るような声で同意を返す。

 言われてみれば確かに妥当かつ無難な金額設定だし、ポーションを使って完治しなかったからといって返金や値引きを求める者もいない。そこの部分においても文句のつけようがなかった。いや、そもそも文句を挟める立場ですらなかった。


「ふむ。ならばこの事をアルビンからもユニオン内に根回ししておいてくれ。我々からも副支部長のラドヴァンに申し入れはするが、情報を確実に回しておきたい。また同じトラブルは御免だからな、いいか?」

「了解した……」


 再び消え入るような声で答えるアルビンだが、消え入りたいと感じているのはサシャも一緒だ。張りつめていたシルヴィエの表情が、ここにきてようやく肩の荷を下ろしたようなものになっている。おそらくこれが、シルヴィエが持っていきたかった着地点なのだろう。



 シルヴィエ……。



 サシャは複雑な想いで傍らの女ケンタウロスを見上げた。

 自分の癒しのことなのに、ここまでのことは考えてもいなかったのだ。


 これまで農村で癒しをしていた時は、タダ同然で癒しをして村人全部が集まってきてもギリギリ癒せた。が、さすがにこのザヴジェルではそういう訳にはいかない。人口が違いすぎる。


 そしてこれまで巡っていた農村では、サシャの癒しが実質上唯一の治療手段だった。実際問題として郊外の農民が都市部の神殿に赴くことなどできなかったし、神殿側も農村へ出張などは一切していなかったからだ。


 けれどもザヴジェルには、ポーションという歴とした治療手段が既に確立している。それも商品として、歴とした商売の種として社会に組み込まれているのだ。緊急時はともかく、無闇矢鱈と好き勝手な値段で癒しをしてまわれば角が立つのは自明の理。


 いくらザヴジェルに来たばかりでそんな社会情勢など全く知らなかったとはいえ、自分の危うさ加減に、穴があったら入りたい思いでいっぱいのサシャであった。


 そしてもちろん、自分のことではないのにこうして補佐してくれたシルヴィエに、ちょっとうまく言葉に出来ないほどの感謝を――





「……ふう、疲れたな。やはりこういうことを論じる柄ではないな」




 サシャの視線の先で、シルヴィエが自嘲気味に微笑んだ。

 槍を背中に戻しつつ、軽い口調でエトに言う。


「まあ、厳しいことを言ったが、アルビンがエトを思いやる気持ちは分かる。同時にエトと弟君の苦境もな。ポーションを買うにしてもサシャの癒しを受けるにしても、金貨一枚というのはちょっとした大金だからな」

「え、あ、まあ……」


 急にやわらかな口調に戻ったシルヴィエに話を振られたエトが背筋を伸ばし、そして肩を落として俯いた。


「それでも……怪我をしたらお金がかかるのは、初めから分かっていたことですし。それを全部承知の上で、僕らはディガーなんてものをしてるわけですし。そちらの事情は分かりました。癒しには相応の対価が必要、考えてみれば当たり前のことです。奇跡の癒しの噂を聞いて、もしかしたらと少し舞い上がってしまったみたいです」

「分かってもらえればありがたい。そちらが身内と生活を守りたいと願うように、こちらも守らなければいけないものがあるのだからな」

「ですよね……。お話を聞いて目が覚めました。変なことを言って押しかけて、すみませんでした」


 ふんぎりがついたような、どこかすっきりとした表情で頭を下げるエト。けれどもそのチョコレート色の顔が完全に晴れている訳ではない。これからまだしばらく、知人を訪ねてまわって借金を重ねなければならないのだ。目標額は以前と同じ金貨一枚、地味な植物採取を主とするディガーたちにとって遥か遠い金額だ。


 引き締まった表情に変わったエトからシルヴィエが徐に視線を外し、最後まで口を閉じ続けたサシャへと顔を向けた。


「サシャ、珍しい果物は好きか?」


 はい?

 思わずそう声に出してしまいそうになったサシャだったが、かろうじて頷くだけに収めることができた。


 果物、それは小麦や野菜と同様、魔獣に覆い尽くされた故郷ではそう簡単に食べられないものである。好きか、と言われれば当然好きであり、むしろ畏れ多いぐらいの高級品といった位置づけだ。つい先程までラビリンス内で乱獲していたのは伊達や酔狂ではない。


「そうか。さっきも力説していたものな」


 ……もしかしてシルヴィエ、ラビリンスの中でのやり取りを根に持ってる?


 そんな可能性が雷光のように脳裏を貫き、サシャは震えあがった。肉しか持ち帰らないのは筋肉ムキムキを目指しているからだよね、と話して怒られたアレである。


 それにしてもさっぱり会話の繋がりが分からなかったが、とりあえずもう二回頷いておく。なぜなら果物は、一度の頷きでは足りないぐらいに素敵な食べ物だからである。


「ふふ……なるほど。ではこういうことだな。弟の怪我を治したいと願う、ラビリンスで果物を作っている男がいる。そしてたまたまここには神の癒しが使える、果物に目がない神父がいる」


 いやいや野菜とか蜂蜜とかだって好きだから!

 思わずサシャが内心で反論をしていると、事の成り行きを無言で眺めていたアルビンが深々と感嘆のため息をこぼした。


「はあ、そういうことか。<槍騎馬>さんよ、あんたには到底敵わないな。良かったなエト、感謝しておけ」

「え、どういう意味ですかアルビンさん?」

「なあエト、お前どれだけ育てた果物を自分の物に出来る? <槍騎馬>さんは癒しの代金が物納でもいいと言ってるんだ」

「え、それってまさか……」


 エトのチョコレート色の顔が、まさかの解釈に輝き出した。

 駄目だと思っていたところに希望が出てきたのだ。


「アルビン、エト、勘違いするな。サシャの癒しは現金一括先払いで、金貨一枚という金額も絶対に譲らない。ただ、今回はたまたまそのサシャが果物を求めていただけだ。金を払ってどこかの店に定期配達を頼んでもいい、そう考えるぐらいにな」

「ははは、となるとアレだ。物納の計算は市場価格相当でいいってことか」

「そうだな。ウチの神父が個人的に食べるものだからな、それは当然だろう。市場に買い物に行く手間を考えれば、配達までしてくれるのであれば逆に割安というものだ。その代金はサシャに手持ちがなければ、都度私が立て替えて支払おう。そして、金貨一枚が貯まったら、それを癒しの対価とすればいい」

「ええと、それでいいんですか……!」


 エトのこげ茶色の瞳が驚きに見開かれている。


 <豊穣の大地>に所属し、クランという枠内で果樹の栽培をしている彼の給金は安い。その一方、ラビリンス産の珍しい果物は、驚くほどの高値で市場で売られている。


 それはクランがラビリンスでの大規模果樹栽培に投資を始めたところだからであり、それが落ち着いて栽培が軌道に乗れば、彼の給金も上がるとは聞いている。けれどもそれは何年も収穫を繰り返した将来の話で、弟の怪我を治したいのは今だ。


 もし今、自分が届ける果実をその末端の市場価格で、実質的な癒しの対価として買い取ってもらえるのなら――


 エトの心臓が激しく高鳴っていく。

 本当にそうしてもらえるのなら。遥か彼方に霞んでいた金貨一枚という金額は、はっきりと現実味を帯びたものとなる。


 クランで手掛けている大規模果樹園の収穫を勝手に売って金銭を着服したり、収穫物自体を横流ししたりするのはクランに対する明白な裏切りだ。


 だが、眼前の小柄な神父が個人的に食べるという用途ならば、それならどうにかなる自信はあった。どうせ一度に大量に納めても食べきれないのだ。納品は少量ずつになる。


 ならば早起きして時間を作るなどして、個人的にラビリンスに潜って野生の果樹を採取して届ければいいのだ。それはクランに対する裏切りにもならなければ、一回当たりの納品量を考えても手頃といえる。


 しかもエトは土人族、樹木に適した土には鼻が利く。普通の人がラビリンスで行き当たりばったりに果樹を探すことに比べれば収穫の確実性は高い。もしくはどこか良い場所を見繕って、そこで一種類一本ずつぐらい、さりげなく珍しい果樹を育ててもいいのだ。


「ほ、本当にそれで良いんですか!? それで良ければ採りたてで新鮮なものを毎朝届けます! 代金も都度でなくて預かっててもらってて良いですし、それで、し、市場価格で計算していってもらって、金貨一枚に届いた暁には――」

「ふむ。それでいいか、サシャ? あくまでも変則的な特例だが――」


 シルヴィエが最後まで言い切るのを待ちきれないかのように、エトが必死にまくし立てていく。


「――そそ、それでよければ、あの! 私、種族柄というか樹木に適した土が分かるんです! それで木になっている実の良し悪しも判断が出来て! だから、それで最高に美味しい果物を厳選して、それを毎朝――」




 ――乗ったああああ!




 サシャが口こそ開かないものの電光石火の早業でエトの手をかっさらい、満面の笑顔でがっしりと握手した。

 

 サシャからすれば素晴らしすぎる提案である。

 癒しを一回すると約束するだけで畏れ多いほどの高級品である果物が毎朝、何もしていなくても届くのだ。しかも果樹にはうるさい土人族のお墨付きの、特別厳選品。未だかつてこんな幸せなことがあっただろうか――いや、ない!


 ふんす、と鼻息を漏らしつつエトの手をやたらめったら上下するサシャを見て、シルヴィエがその凛とした美貌にふわりと笑みを浮かべた。


「……これで決まりで良さそうだな」

「なあ<槍騎馬>さんよ。その、考えもしねえで難癖をつけて悪かったな。綺麗に収めてくれて助かった」

「ふん、今回の果物云々は特別だ。次はないと思っておけ。それとユニオン内への根回しの件、忘れるなよ」

「ああ、あんたらが変なごたごたに巻き込まれないよう、出来るかぎりのことはする。またどこかに隠れちまったようだが、従魔の件も含めてな。約束しよう」

「ふむ、約束された。頼んだぞ」


 シルヴィエとアルビンが拳を打ち合わせ、頷き合う。

 少し大げさに脅された感のあるアルビンも、いやそれだからこそ、以後の根回しを真剣に行うだろう。もしかしたら先々で大きな波乱を引き起こしたかもしれない問題を、事前に収める目途が立った瞬間だった。



  ◇



 ……どうやら上手くまとめられたか。


 シルヴィエはアルビンと拳を打ち合わせつつ、内心でほっと大きく息を吐いた。


 サシャの癒しに金貨一枚などと勝手な値をつけてしまったが、本人はやはり、癒しで金を取るなどという考えはほとんどなかったようだった。あの蚕人族の母子に対してしかり、腹を刺されたユニオン職員に対してしかり、……そして、シルヴィエに対してもしかり。


 けれどもそれはひどく危うい。


 これまで彼がいた故郷ではそれで良かったかもしれないが、ここザヴジェルでは事情が違う。ユニオンであれだけ派手に癒しをしてしまった以上、必ずこの手の話がくるとは思っていた。今回は更にお人好しのアルビンが話をややこしくかき混ぜてくれたが、結果としては良かったのだろう。エトが土人族でディガーだったのも好都合だった。


 後は、残りのやることといえば――






「――さあサシャ。そろそろ急がないとオットーが待ちくたびれているぞ。ユリエにもラビリンス土産を持って帰る、そう約束しただろう?」






 あああっ、そうだった!と言わんばかりの顔で、がばっとサシャが振り返った。


 口をきくなという言葉を未だ忠実に守っているその姿に、シルヴィエの顔に出来の良い子供を見守るような柔らかな笑みが浮かぶ。だが、これでこの場を離れられるかというと、まだ若干のやり残しがあった。それは。


「エト、果物の配達については……そうだな。サシャの定宿を決めたりで落ち着くまでに少し時間がかかるだろうから、数日後からということにしてくれればありがたい」

「ああ、それはこっちも助かります。良いものが採れる場所を探しておいたりとか、少し準備もしたいので。じゃあ配達先が決まったら<豊穣の大地>まで連絡ください――」


 そこでエトは、急にそわそわしだしたサシャの様子を見て、申し訳なさそうに頭を下げた。


「……お二人とも、ラビリンスの探索を終えて帰るところだったんですよね。お疲れのところを引きとめてしまってすみませんでした。私はせっかくなので、これからこの<密緑の迷宮>に手頃な果樹の自生場所を見繕いに行きます。ここもなかなか良いものが採れるんですよ?」

「うむ、我々も先ほど幾つか収穫したところだ。だがエト、中もさすがにもう日没だ。一人で無理はするなよ」

「はい、各層のスフィアの青光が届くところだけ見て回るつもりです。知ってましたか? スフィアの周りって魔素の関係か、良い魔法果樹が育ちやすいんですよ」


 やる気に満ちたその姿を見て、これでエトについても良し、とシルヴィエがサシャに目配せをして暇を告げた。


「お気をつけて! 連絡を待ってます!」

「街まで気をつけて帰れよ! ――”全てを見守るクラールの静かな護りが貴方にありますように”だぜ!」

「ふふふ、ひげもじゃのアルビンのくせに妙に丁寧ではないか。逆に怖いぞ。……では、またな」


 サシャとシルヴィエは二人揃って見送りに応え、踵を返して歩き始めた。


 エトが開け放ったままの管理小屋の扉の外は、もうすっかり夜の帳に包まれている。いつの間にかサシャの肩に戻ったカーヴィの首には仮ではあるが従魔の首飾りが下がっていて、お待たせ、と微笑むサシャの首に体をこすりつけている。

 


 ……大変な一日だったな。



 夜の爽やかな空気にそのアッシュブロンドの美しい髪をなびかせるシルヴィエの顔には、満更でもない満足気な笑みが浮かんでいる。もしかして、いや、もしかしなくてもこれからサシャの周りには間違いなく色々な騒動が巻き起こるだろう。この手のかかる弟のような神父と一緒に、そんな日々を過ごすのも悪くはないかもしれないな――そんなことを考えながら。
















 そうして満ち足りた思いでシルヴィエはしばらく夜の山道を歩き、ふと傍らの少年に声をかけた。


「…………そういえば、もう喋ってもいいぞ」

「遅いよシルヴィエ! ねえ、ひょっとして忘れてたでしょ!? ねえシルヴィエ、忘れてたでしょ!」

「……やっぱりもう少し黙っててくれ」

「えええーっ! ひどい! ちゃんと今まで黙ってたのに!」


 途端に賑やかになった夜の山道に、ゆっくりと霊峰名物の霧が流れはじめている。

 道の先、彼らが帰る古都ファルタは既にすっかり霧の中。そこでは魅惑の犬耳を持つ善良な商人親子が、炉に火を入れて二人の帰りを待ちわびている。



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