14話 ユニオンでの騒動(後)

「て、てめえ……絶対に許さねえ……」


 シルヴィエの暴露を受け、見る間に一触即発の緊迫したものへと転がり落ちたユニオンホール。


 顔面を蒼白にしたゾルタンがわなわなと唇を震わせ、その目が剣呑な光で染まっていく。サシャが内心の警戒度を跳ね上げている最中にも、今にも暴発しそうなゾルタンの表情を見たユニオン職員がカウンターを回り込んでこちら側へと猛然と走り込んでくる。


 サシャが視界の端でそれら職員たちの動きを値踏みした、その時。


 サシャの背筋にとてつもない嫌悪感が走った。

 それは魔法発動の前触れ。視線を戻せばゾルタンが腰から短剣を抜き放ち、口元で小さく何かを呟きはじめている。


 ――魔法、しかもタチの悪いやつッ!


 蛇男の短剣にみるみるうちに集束されていくのは、サシャが特に嫌いな神の力だ。

 その神が力を貸す魔法といえば腐敗系。この男は人間相手になんというものを放とうとしているのか。サシャには分かる。もしそれが生き物に当たろうものならとんでもないことになる。そんな極悪な魔法が今、放たれようとしているのだ。


「――ッ!」


 しかも男の短剣自体が魔剣に類するもののようであり、詠唱の長さに対する集束の早さと規模が異様だ。


「やばっ!」


 稲妻のようにサシャの脳裏をよぎるのは、先ほどシルヴィエが男のことを<毒霧>と呼んでいたこと。それと見る間に膨れ上がっていく、忌まわしき神の力。


 それらが意味することは、たったひとつ――



「……我が敵を生ける屍とせよ、ハーフ・デスGlaaki

「させるかあっ!」



 サシャがシルヴィエの前に出ようとしたのと、男の短剣からおぞましい奔流が飛び出したのは同時だった。シルヴィエは咄嗟に強靭な馬脚で横へ躱そうと床を蹴ったが、さすがにこの至近距離での魔法の不意打ちには間に合わない。人外の速度で踏み出したサシャの三歩前で、魔法の枠組みを借りた悪神の指先が空中のシルヴィエの馬体に――


「くそ、間に合えっ!」


 迸る灰色の靄がシルヴィエを飲み込むのに一瞬遅れ、サシャの伸ばした手が彼女の馬身に触れた。そして溢れ出す、神々しいまでの青い光。


「ぐはっ!」

「ゾルタン、貴様! ユニオンで何てものを!」

「な、なんだアレ!」


 青い光に包まれたシルヴィエが灰色の靄をたなびかせたまま床に転がり落ち、武装したユニオン職員がゾルタンに躍りかかり、周囲から一斉に警戒と驚きの叫びが上がり――それらが一瞬のうちに起きて、そして。



「うわ、マズ! これ、かなり悪質な毒魔法だ! シルヴィエ負けるな!」



 きらめく青い癒しの光の中心で、石床に倒れ込んだシルヴィエの上半身を抱えるようにしてサシャが叫んだ。


 彼が魔法を忌避する理由のひとつが、その傷が非常に癒しづらいことだ。

 ヴァンパイアの血を引くらしき彼の驚異的な自己治癒能力においても、こうして癒しを施そうとする他者においても、魔法による損傷は特に治りが悪いのだ。


「ええいもう! 魔法なんて消え去れ!」


 無我夢中でシルヴィエを抱きかかえるサシャの叫びに呼応するように青い光は強まり、そのケンタウロスの全身から忌まわしき灰色の霞を駆逐していく。


「シルヴィエ、しっかり! もうちょっとで癒えるから!」

「がはあっ……」


 青い光はさらに強まり、最後にひときわ輝いて静かに消えた。

 その場に居合わせた人々の眼前に残ったのは、穏やかに横たわる美貌のケンタウロスと、この地では夙に見ることがなくなった神父の装いをした少年。


 と、ひと呼吸の間を置いて少年が大きな安堵の息を吐いた。

 その腕の中で著名なケンタウロスはゆっくりと目を開け、自力でその上半身を起こしていく。その光景を目の当たりにした周囲の人々から、更なるどよめきが起こる。


「い、今のは神の癒し? ポーション、使ってなかったよな?」

「魔獣ですらのたうつ<毒霧>の毒が、数秒かからずに消えた? それじゃ最上級のブラディポーションより早いぞ!?」

「神の癒しとはそこまで凄いものだったのか――」

「じゃああの若いの、本物の神父様だったってこと……?」

「おい嘘だろ!? 神殿は全部つぶれたんじゃなかったのか!?」


 サシャの癒しを目撃した人々が、自分が今目にしたことを口々に語り合っている。ポーションを使わない神の癒しなど、多くの者が初めて目にするものだったのだから。


 と、人々がサシャの癒しに意識を奪われている、その輪の反対側から。


「ぐあああああ!」


 唐突にユニオン職員の苦悶の絶叫が上がった。

 数人がかりで取り押さえたはずのゾルタンが、その拘束を振りほどいて暴れ始めたのだ。


「くそっ! その短剣は魔剣だ! 気をつけろ!」

「マルチンがやられた! 毒だ、しかもかなり強い! 誰かポーションを取ってこい! 早く!」

「がああっ! 来るな、来るなあああ!」


 目を血走らせたゾルタンの手に握られているのは、先ほどシルヴィエに向かって振るわれたままの、禍々しい灰色の霞をまとったままの短剣だ。まがりなりにも魔獣を狩って生計を立てるハンターである彼が、拘束するユニオン職員の腹をその短剣で刺して暴れ始めたのだ。


 その瞳は心なしか紅い燐光を放っているようであり、それはまるで魔獣と同じ――



「うわあ、やっぱり。シルヴィエちょっとここで待ってて」



 そう言って立ち上がったのは、神父姿のサシャだ。

 弱々しく何か言いかけたシルヴィエに「あの短剣が諸悪の根源だったみたい。ちょっと取り押さえてくるね」と言い残し、軽やかに走り出していく。そして、トン、と跳躍し、理性を失ったかのように暴れ回るゾルタンの前へと躍り出た。


「さ、大人しく捕まろうか。さすがにもう後戻りは不可能だと思うよ?」

「――ッ! このクソ餓鬼、そこをどきやがれ! インチキ神父のくせに邪魔すんな!」


 目を剥いて吼える蛇人族の凶人に、サシャは前に立ちふさがるだけでそれ以上の返事をしない。ゾルタンは短剣を振り回してユニオン職員を牽制しつつ、得意の毒魔法を当てたはずのシルヴィエを視線で探した。


 そして見つけたものは、多少弱ってはいるものの自力で身体を起こしている美貌のケンタウロスと――




 ――冷たい目で、自分を軽蔑したように眺める周囲の人垣だった。




「くそが! お前らはいつもそうして依怙贔屓ばかり! 俺だってなあ! 俺だってなああああああ!」


 口の端から泡を吹きはじめたゾルタンが天を仰いで叫ぶが、周囲の人々の視線には更に距離を置いた警戒心が付け加えられるばかり。そこにサシャが一歩前に踏み出し、右手を差し出しながら話しかけた。


「どんな境遇だったかはよく知らないけどさ。その短剣といい、さっきの魔法といい、自分がどれだけ邪な存在の力に染まりきってるか分かってるの? さあ、まずはその短剣をこっちに寄越して。さもないと完全に飲まれるよ、もう遅いかもしれないけど」

「なッ!?」


 サシャの言葉と同時にゾルタンに押し寄せたのは、竜種を相手にした時のような途方もない威圧感プレッシャーだ。研ぎ澄まされ、対峙する者だけに向けられたそれは、長年ハンターとして数多の魔獣を相手にしてきたゾルタンの生存本能を根源から揺さぶるもの。


 生国では「国内若手で最も強い」との評価を不動のものとしていた混血の傭兵<双剣のサシャ>の、掛け値なしの本気の威圧が暴風のようにゾルタンに圧し掛かっているのだ。


 そしてサシャはそれだけでは終わらせない。

 通常の酔っ払いであればこの数分の一の威圧で追い払って終わりなのだが、ゾルタンは邪な短剣を持ち、全身をその邪な力に侵されつつある。どこまで有効かは運次第だが、サシャは体内の源泉から青の力を汲み出し、それを威圧に乗せてゾルタンへと叩きつけた。


「き、貴様、何を――ぐわああああああ!」


 絶叫するゾルタンの震える手が、まるで絶対的な王に屈服するかのようにゆっくりと短剣をサシャに差し出していく――が。



「くそがああああ! どうしてどいつもこいつもおおおおおお!」



 唐突にゾルタンが追い詰められた獣のように後ずさりつつ、自棄を起こしたように叫びだした。そしてその場でがくがくと震え始め、短剣の灰色の靄がその全身へ触手のように這っていく。


「な、なんだアレ」

「おいヤバいぞ、誰か騎士団を呼んで来い! 早く!」


 周囲に怯えに似たざわめきが広がっていく。

 今やゾルタンの瞳には魔獣と同じ赤黒い燐光が灯っている。彼、毒剣を扱う魔法使いゾルタンは、ついに完全にその魔に飲まれたのだ。


「……やっぱり間に合わなかったか」


 サシャが誰にも聞き取れない呟きを漏らす。

 そう。これこそがサシャがこの男とは関わり合いになりたくないと思っていた、その理由だ。その手の気配に敏感な彼には分かっていた。初めに絡んできたその時から、ゾルタンは既に身体の九割近くが邪な存在の力に染まりきっていたのだ。


 サシャがどうしようかと一瞬の逡巡を見せた、その時。


「ちっ、この蛇男、完全に魔に飲まれてやがるよ! みんな下がりな! あたいら<幻灯狐>が相手するよっ! 他の魔法使いも手伝っておくれ!」

「ゾルタン、ついに堕ちるところまで堕ちたか! <連撃の戦矛>も助太刀するぜ! 前衛は任せろ!」


 ゾルタンの明らかな異常を見て、周囲の人垣の中から十を超える者たちが騒乱の場に飛び出してきた。


 ここはユニオンホール、ラビリンスに出入りする荒くれ者たちのいわば本拠地だ。ものものしい鎧に身を固めた武装集団や、明らかに魔法使いと思われるローブ姿の集団が次々と人垣から飛び出してきて、様子のおかしいゾルタンを厳重に取り囲んでいく。


「くそ、だからその短剣はあんたにゃ荷が重いって言ったんだ! こうなっちゃ皆もヘタに手出しするんじゃないよ。そいつはもう完全に魔に飲まれてる。手に持ってる短剣、なりは小さいけど高純度の神遺物だからね!」


 最初に飛び出してきた女魔法使いが、杖をぴたりとゾルタンに向けたまま周囲に警戒を呼び掛けている。魔に飲まれる――それは己の力量を越えて魔法を使ってきた者が、何かのきっかけで正気を失って暴れ出すこと。極めて危険な状態であり、どの国においても騎士団が即座に動員される、第一級の討伐対象だ。


「神父さんは下がってな! こうなりゃあたいら魔法使いの領分だ! 未熟な魔法使いの末路、魔法使いのあたいらが責任持たないとね!」

「我ら<連撃の戦矛>が足止めする! <幻灯狐>は魔法で一気に仕留めてくれ!」

「あいよ! 頼りにしてるよ! 借りひとつ、必ず返すからね!」


 彼らは傭兵かハンターのクランなのだろう。鎧を装備した武装集団が一糸乱れぬ連携で即座にゾルタンを包囲し、化け物じみたその動きを見事に封じ込めている。その背後には女の魔法使いが数名、杖を構えながら素早く散開していく。



「……うん、これなら大丈夫。お任せしちゃおうかな」



 増援の面々の戦いぶりを見て、小さく呟いたサシャはするりと騒乱の場から抜け出した。彼らなら問題なくゾルタンを抑えられるとひと目で分かったし、何より、これから女魔法使いたちが放つであろう魔法が苦手なのだ。


 中にはそれほど嫌悪感を感じない魔法系統もあるのだが、たいていの魔法使いが好んで使う火や水や風の系統、それらは軒並み生理的に受けつけないと言っていい。散開した女魔法使いたちは軒並み妙に”綺麗な気配”ではあるのだが、それはそれだ。これからこの場がぞっとするような魔法の力で埋め尽くされるのは確定事項である。


「……そうだ、職員の人も怪我してたっけ。ポーションがどうのって言ってたけど、そっちを手伝ってこよう。あんまり目立っても良いことないしね。うんうん、そうしよう」


 既に充分目立ってはいるのだが、サシャはそう自分に言い聞かせるように後退していく。傭兵業を引退した今の彼の本分は癒し、そういった意味ではサシャの選択はあながち間違いでもない。


 ただでさえ怖気が立つ魔法の気配なのに、ここではその最たる者、魔に飲まれた者が暴れ回っているのだ。代わりに戦ってくれる人たちが出てくれたのを幸いに、これ以上の関わり合いはごめんこうむりたい――そんな本音も、多分に混じっているのだが。



「あ。そういえばユニオンに入ったら絶対に口を開くなって、シルヴィエに言われてたっけ……」



 ふと思い出した、ユニオンに入る前に交わしたシルヴィエとのやり取り。己の行動を振り返ってみれば、もうそれはすっかり手遅れである。


 何やらその場の勢いで結構喋ってしまった記憶のあるサシャ。さすがにその後の状況が状況だったからシルヴィエも忘れてるだろうし、口にした内容だって彼女が気にしていたものとはまるで違うはず。さらっと流してくれると思うけど――


 サシャはちらりと人垣に囲まれて追加の介抱を受けている彼女の姿を眺めて、思う。



 ……忘れてると、いいなあ。



 何を隠そう、最初に彼女がゾルタンに向けて発した低い声に、思わずサシャも一緒に固まっていたのは本人だけの秘密。自分のために怒ってくれたのは嬉しいけれど、シルヴィエを本気で怒らせたら怖い――そう心に刻まれた出来事でもあった。


 そんな彼の背後では、武装集団の鋭い連携の掛け声と、思わず彼が顔をしかめたくなるような嫌悪感がいくつも膨れ上がっている。それら嫌悪感の塊りが爆発的に開放され、魔に飲まれたゾルタンに放たれるのもあと数秒のこと。


 魔法嫌いの神父はあえて明るいことを考えて気を逸らしつつも、逃げるようにその場を離脱していく。



 そんな彼の後ろ姿に。



 鋭く連携の指示を出しているリーダー格数人のうち、目端の効く者が興味深げな視線を投げていたのは本人の与り知らぬことである。



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