オープンカー
車が好きだった父は小さい頃から、私を教育した。
メーカー、車種、エンジンの型式。
父の運転する車に揺られ、大きな独り言を聞くうち、私もそれらを覚えていく。
きっと父は男の子が欲しかったのだろう。
一緒にカーレースやオートサロンへ行ったりしたかったのだと思う。
「俺が初めて買ったのはスポーツカーだった。真っ黒で、リトラクタブルで、友達からはゴキブリなんて呼ばれて。何度もスピード違反で捕まった。」
私の知る父はスピード違反やシートベルト違反をすような人ではなかった。
ただ、若い頃の話をする父は違反歴でさえ、栄光のように何度も何度も幼い私に話した。
「一度でいいから真っ赤のオープンカーに乗りたくてね。だけど、次に買ったのはセダンだったよ。」
そういう時代だったのだろう。
懐かしむように笑った父の顔が印象的だった。
私が成人式を終え、何年かしてからのことだった。
なんとなく、口から出た言葉だった。
「私、オープンカーに乗りたい。」
人生は一度なんだから、思ったように生きなさい。
自分を偽るな。
何度も口にしてきた言葉を父は投げ掛けた。
夫は反対も賛成もしなかった。
「欲しければいいよ。お金の面とかも考えた上でね。」
新車を買うお金はなく、中古で探した。
10年落ちの真っ赤のツーシーターのオープンカーだった。
年月を感じないほど、綺麗な赤だった。
車のローンの為に私は専業主婦を辞めた。
休みを作って、ふらりと出掛けるのが癖になった。
時々、父も赤いオープンカーで出掛けた。
「還暦に赤い車だ。ちゃんちゃんこより、よっぽどいい。」
喜んで乗り回していた。
なのに。
いつしか身体が限界に達し、車の運転もままならなくなった。
どこへ行くにも、私が父を乗せ連れて行った。
昔、父が私を乗せて走った道を、今度は私が父を乗せ走る。
「たまには自分で運転したい。」
ふと涌き出た父の本音に涙が出た。
自分で車を運転することを目標にした闘病。
しかし日を追う毎に「いつか自分で運転したい。」と弱気な物へと変わっていく。
「春になったら、桜が見たい。」
「桜が咲く前に盆梅展に連れていって。」
「暑くなる前に海沿いを走りに行かないか。」
「紅葉が見たい。あそこの峠道は、来年元気になってからでいいや。」
約束は全部果たせないまま。
ごめんね、お父さん。
今、赤いオープンカーを走らせるのは私だけ。
助手席は娘。
グローブボックスにはいつも父の遺影を乗せて。
「今日はどこに行こうかな。」
気をつけて、と夫が見送る。
弔いという日帰り旅を趣味と読んでいいのか。
オープンカーに尋ねながら私は前を見据えてハンドルを握りしめた。
少しだけ深く踏み込んだアクセル。
オープンカーなのだから、少しくらい涙が出ても風が乾かしてくれる。
グローブボックスの父の遺影を見つめ、娘が言う。
じいちゃんとお出かけだね、一緒だから寂しくないね、と。
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