第10話 蓮の葛藤
学生相手に勉強を教えていると、背徳感が背中にのしかかる。藍君より年は下だが、学生であることに変わりはない。けれど未成年と成人の差はかなり大きい。天使と悪魔が交互に語りかける。合間にいる俺はどうしたらいいんだ。
「相澤先輩、久々に飲みに行きません?」
「断る」
「なら酒なしで、ご飯でもどうっすか?」
「奢らせようとしてるだろ」
「ピザでも食べに行きませんか? 美味しい店、知ってるんで!」
ちなみに今朝はピザトーストを作って食べた。食パンにトマトソースとチーズを乗せただけのお手軽なものだが、タイミングが悪かった。
「乗り気じゃないなら、和食店でもいいっすけど。天ぷらとか」
「天ぷらは駄目だ。ピザでいい」
「嫌いでしたっけ?」
「……いいから行くぞ」
絶対に割り勘にしてやると誓い、遠山の案内で駅近くのイタリアンレストランに入った。イタリア語の曲がかかり、半分ほど席が埋まっている。ワインを飲みながらピザを頼んでいる人がいるが、ぐっと我慢だ。と思ったのに、遠山はピザよりアルコールの箇所を開き、ビールが飲みたいと訴え始めた。
「何度も言うが、奢らないからな」
「分かってますって。最近迷惑かけっぱなしだったんで、割り勘でいいっすよ」
奢ると言わないあたり、ちゃっかりしている。遠山は世渡り上手なタイプだ。上に可愛がられるようなタイプ。俺はちっとも可愛いとは思わないが、力以上に上から認められる節がある。橋から落ちてしまわないが、心配になるほど危うさも兼ね備えている。
俺はマルゲリータとコーラ、遠山はシーフードピザとビールを注文した。飲み物よりもピザが早い。遠山は写真を取り、食べ始めた。
「ブログか何かやってるのか?」
「SNSはやってます。相澤先輩は?」
「興味がないな」
「もう若者についていけなくなりましたか」
「ほっとけ」
ちょっと気にしてることを。スマートフォンなんて、メールや写真、電話ができれば充分だ。
ついでに端末を見ると、メールが一件届いていた。
──もしかして、ピザ屋さんにいるのですか?
「遠山……お前……」
「え、な、何ですか?」
「柊さんにメール送っただろう?」
「いいじゃないですか。美味しそうですねって返事が来ましたよ」
──藍君、ごめんね。遠山が迷惑かけてる。俺の人間関係を面白がってるんだ。
──僕も、相澤さんの人間関係に興味があります。
遠山ではなく、俺の人間関係と言うところがポイントだ。少なくとも藍君は遠山より俺に興味がある。別に張り合っているわけじゃない。
──誰かと出かけるのなんて、藍君くらいだよ。今日は無理やり遠山に連れてこられただけ。
──相澤さんは天ぷらがあまりお好きじゃないんですか?
噛み合わない会話だ。メールを辿っても、嫌いだと言った覚えはない。むしろ揚げ物は好きだ。太るものは美味い。
「あっ……お前、天ぷらがどうのって送っただろ」
「相澤先輩って天ぷら嫌いなのって送っただけですよ。質問しただけなのになんでそんなに怒るんすか。やだなあ」
──俺は天ぷらが大好きです。カロリー万歳って感じです。
──ピザ食べ過ぎないよう、気をつけて下さいね。万歳。
「はあああ…………」
「止めて下さいよ、ため息なんて。ピザに罪はないのに」
「こんな可愛い生き物、見たことがない」
「藍ちゃんの話ですか?」
どうやら、俺が思っているほど深い話はしていないようだ。遠山は藍君のことを女性だと思っている。藍君側からすると、適当に当たり障りのない話であしらっているようにも見える。
「どんな子なんですか?」
「素直な方だ。いいから早く食べろ」
授業終わりの葛藤がまたもやのしかかった。成人している学生に手を出していいものか。藍君の気持ちは、大雑把だが伝わっている。俺に好意を抱いてくれている。背中の圧迫感は、男性同士だからではなく、彼が学生だからだ。未成年ではなくとも禁忌を犯しているようで、いまいち踏み込めないでいる。性別に関してそれほど抵抗がなくなったのは、過去の恋愛を思い出しても男女だってうまくいくとは限らないと身に染みているからだ。
けっこう大きかったのに、マルゲリータはすべて胃の中に収まった。炭水化物を控えていたのに、無駄になってしまった。明日からまた頑張ろう。努力は一日ではどうにもならない。
「前に藍ちゃんが病気だって言ってましたけど、結局何の病気だったんすか?」
「過去のトラウマが病気だと思い込んでいただけだ。すぐには考えは変わらないだろうが、きっと大丈夫」
「ふーん」
信じてはいるが、弟の蓮君と喧嘩をしたと聞かされたときは度肝を抜かされた。辛辣な言葉を並べたと、いやに落ち込んでいた。話を聞くくらいしかできないが、少しでも助けになれればいい。
二軒目の誘いを丁重に断り、家に帰ることにした。
遠山と別れると猛烈に藍君の顔が見たくなって、近くの駅まで来てしまった。これではただの変質者だ。
「馬鹿だな……帰ろう」
藍君の苦い思い出が詰まっている公園まで来ると、ベンチに座る少年を見つけた。藍君とは顔は似ていないが、雰囲気はどことなく似通いものがある。
「蓮君?」
顔を上げ、驚きの後は怪訝に俺を見る。
「相澤ですけど、覚えているかな?」
「うん。なんでここに? 兄貴ならいないよ」
「おばあちゃんの家に行ってきたの?」
「……届け物があったから」
「お手伝いしてるんだ。偉いね。隣に座ってもいい?」
まだ警戒心は抜けないが、小さく頷いた。
まずは触れやすい話題からいくべきだろう。
「お兄さんはなんでいないの?」
「……サークルで遅くなるって」
「蓮君は中学生だっけ? 部活は何に入ってるの?」
「バスケに入ってたけど、今は行ってない」
「スポーツが得意なんだ。すごいね」
口の端が上がった。誰だって褒められて悪い気はしない。
「喧嘩しちゃったんだって? お兄さん、落ち込んでたよ」
「喧嘩はしてない。一方的に言葉の暴力を振るわれただけ」
言葉の暴力ときたか。けっこう根に持っている様子だ。
「君たちは小さな世界で小さなことにこだわるね。でもたった数十人の世界では、ちっぽけなことで自分が知らない世界を知ると何が何でも排除しようとする。子供は残酷だ」
「うん……誰も分かってくれない」
蓮君はあくまで、自分意外の子供が残酷だと言いたいのだ。当然だ。誰だって自分が可愛い。彼自身は頭の悪い子ではなくて、よく言葉も知っている。人の気持ちにも疎くもない。今は吐き出さなければ気が済まないのだろう。
「大人も残酷だ」
「そうなの?」
「人の恋路を遊び半分で邪魔しようとする人も現れるし、人間関係も知りたがる。一定数だけど、そういう人はいるよ」
「大人になりたくないよ。そんな世界に浸かるくらいなら死んだ方がましかもしれない」
「楽しいこともたくさんあるよ。お金を稼いで自分の趣味にも使えるし。お小遣いじゃできないよね。恋もできるし、世界は広がる。蓮君のいる世界は蟻くらいの大きさだけど、幸福も待ち受けている」
「それまでの道のりが大変なんだよ!」
「中学生とは思えないコメントだね。俺が学生の頃はそんなこと言えなかった」
多分、兄の影響もあるのだろう。藍君もよく言葉を知っている。人の気持ちに敏感なタイプだ。
「お兄さんもいろんな道を歩んできたんだよ。それこそ平坦な道ばかりでなく、砂利道や台風の通り道だったり。蓮君はバスケ部だけど、藍君は違う。部活のことだけでもそれだけいろんな道があるんだ。蓮君はまだ受け入れられないかもしれないけど、せめてお兄さんを否定しないであげてほしい」
「……俺は学校でいろいろ言われるのだって、元はと言えば……」
「分かるよ、辛い気持ちは。でもお兄さんに八つ当たりをするのは間違いだ」
きっぱりと言い切った。そこは正してあげたい。このままでは二人とも共倒れだ。
「……男が男を好きって、変じゃない?」
「全然。ちっとも思わない。君の友人たちが否定してくるのは、人の世界を知るほど自分に余裕がないんだよ。子供の頃から異性としか恋愛してはいけないと縛りつけて、まだ呪縛にかかったままなんだ」
「……俺、好きな人がいて…………」
声が小さくなった。道路に車が通っていたら、絶対に聞こえなかった。
「同じ学校の子?」
「…………バスケ部の子」
「そっか。好きだって言ったの?」
「言えるわけないじゃん! 兄貴の二の舞になるだけだし。あっ」
マイノリティー側の人間だと認めたようなものだ。俺はただ微笑み、罰が悪そうにしている彼を見た。
「蓮君くらいの年だと、恋愛としてなのか友情を超えたものなのか理解しづらいときがある。ちょっと待って、冷静に考えてみるのもいいかもね。卒業までとか」
「……卒業式も行けないかもしれないけど」
「時間が解決してくれることだってある。自分の気持ちをしっかり整頓してみて。もしバスケを続けたいのなら、部活じゃなくてスポーツクラブでもチームがあったりするよね」
彼はバスケが好きなだけではなく、好きな人に会いたい気持ちもある。気休めにしかならないと思ったが、やはり頭を振った。
「あれ、兄貴……」
息を切らし、驚愕した様子の藍君が公園の入り口に立っていた。手を振ると、驚きよりも子供の駄々をこねたような顔になった。
「…………どうして、」
「藍君とメールしてたら、会いたくなって。そしたら蓮君がいたからちょっと話してた」
「……俺、帰るわ」
藍君の横を通るとき、蓮君は何も言わずに公園を後にした。
「すみません、蓮が失礼なこと言いませんでしたか?」
「全然。素直でいい子だね。顔を合わせても口喧嘩しなかっただけ、彼も成長したんだよ。認めてあげて。お兄ちゃんに見放されるのは、とてもつらい」
「はい。僕も、弟のことは嫌いだとは思ってません」
「おうちに帰らなくて大丈夫?」
「……一緒にいたいです」
藍君は隣に腰を下ろした。なんて愛くるしい。けれど額から流れる汗が暑そうだ。藍君は自分の鞄からハンカチを出し、汗を拭った。柄はテディベア。まったくぶれない。
「冷たいものでも飲みに行かない? ご飯は食べた?」
「はい、食べました。ピザ食べて、飲み物入りますか?」
「飲み物くらいは大丈夫だよ」
公園を出て、藍君の案内でこじんまりとしたコーヒー店に入った。人はまばらで、俺たちを一瞥しただけで「お好きな席へどうぞ」と言われた。
「よく来るの?」
「前は家族で来たことがあります。おばあちゃんの家に来てからは、全然」
藍君はホットコーヒーを注文したので、俺も同じものを頼んだ。
ミルクを入れかき混ぜると、真っ黒だった色は穏やかなものに変わっていく。甘めのコーヒーが飲みたい気分だった。ピザを食べてしまったので、砂糖は我慢だ。藍君は砂糖もミルクも入れ、ゆっくりとスプーンを動かした。
「あの……蓮と何を話したんですか?」
一番聞きたい話はそこだろう。普段から落ち着きのある彼は妙にそわそわしている。
「世の中の情勢について」
「何ですか、それ。株の話ですか?」
「世知辛い世の中だからね。自分の普通を押しつけられると、身動きが取れなくなるって話」
「本当は?」
「学校に行きたいんだってさ。部活も頑張りたいって話してた。藍君のことは嫌ってないよ。難しい年齢と重なってしまったんだろうね」
「そうですか……。マイノリティーを変えるくらいなら、家族を捨てる覚悟もありました。あのときに固めた決心は嘘ではないんです。でも、いざそのときが間近になると、やっぱり辛いなって。とくに蓮とは仲が良かったから、前みたいに出かけたりはできなくてもせめて挨拶くらいはできるようになりたい」
「捨てる覚悟も無駄じゃなかったって思うよ。でもどうせなら、悪くなるより仲良くなりたいよね。自分の感情が制御しきれなくて暴走するときなんてざらにあるし、蓮君ももう少し大人になったら、知識も気持ちももっと大きく膨らむと思う」
ふう、と大きく息を吐いた。深呼吸しないと落ち着かない。藍君の位置からだと見えないが、俺からだと店長が正面にいて何度か目が合うのだ。今日、まだ言うつもりのない言葉がまろび出そうで、でも言ってしまえば近所のコーヒー店から瞬く間に広がってしまう。彼の中学時代の思い出を繰り返したくはない。でも、なんて可愛いんだ。コーヒーが熱いのか、なかなか飲めないでいる。
「同族嫌悪と一心同体って、紙一重だと思うけどなあ。あとは根気だ」
「はい。あの、甘いもの、食べてもいいですか?」
何かに気を取られていると思ったら、メニュー表だった。差し出すと顔が綻び、ケーキのページを開く。気を許してくれていて、とても嬉しい。初めて外食したときの藍君では考えられなかった。
藍君はチーズケーキを頼み、うきうきと前のめりになる。
「チーズケーキってどっしりしたものとふわふわしたものがありますが、どちらも美味しいですよね」
「分かる。美味しい」
「すみません、どうしても食べたくなっちゃって」
「構わないよ。好きなの食べてよ」
テーブルに置かれたケーキは、どっしり系だ。焼きムラに手作り感が出ていて、余計に美味しそうに見える。
藍君は一口フォークに差すと、こちらに向けた。遠慮なく食べる。レモンの酸味と甘味がしっかり感じるチーズケーキだ。なのにまたもや店長と目が合ってしまい、味が分からなくなった。
藍君の口の端に食べカスがついている。自分の口元を指差すと、藍君は紙のナプキンで唇を擦った。それでも取れなくて、俺が取ると恨めしそうに紙ナプキンをじっと見つめる。恥ずかしいのか、口元は緊張で固くなっている。
途切れ途切れの会話を楽しんだ後は、藍君を家まで送った。これくらいは許されるだろうと手を握ると、藍君は握られたまま離さなかった。
「夜道は平気?」
「実はちょっと怖かったりします。大分前ですけど、ここら辺に変質者が出たって騒ぎになったことがあって」
「人攫いみたいな?」
「いわゆる、露出狂です。中学生のときに大騒ぎになりましたけど、決まって狙われるのは男児ばっかりだと学校でチラシを配られたんです。しばらくパトカーがうろうろしてたんですが、いつの間にかそれもなくなってしまって……」
「この辺りは田んぼや畑で遅くなると車の通りも少ないな。怖かっただろうに」
「ええ……」
藍君は何とも言えない顔で視線を落とした。これだけではない何かがあったのだと感づいたが、あまりつつくのはどうかともう少し手を強く握った。
「あの……どうして、」
「ん?」
「…………何でもないです」
「おばあちゃんにご挨拶をしたいんだけど、寝てるかな?」
「多分、寝てると思います。居間に電気がついてませんので。入っていきますか?」
「いや、明日も仕事だし、また今度にする。おばあちゃんによろしくね」
「はい……ありがとうございました」
ドアに鍵が掛かるまで見守り、踵を返した。
手を繋いでも喜んでいるのか嫌がっているのか分からない微妙な反応だ。嫌だったら止めてとさすがに言うだろうが、藍君の性格を考えると言い出せなかった場合もある。
家に戻り携帯端末をチェックすると、藍君からメールが届いていた。送ってくれてありがとうございますと、淡々としたメールだった。腫れ物に触れないようにした、いかにもという内容で、笑いが喉まで届く。手を繋いだことには触れないと、逆に意識しまくりなんだなと、可愛く思えた。
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