第9話 蓮と僕

「あー、あー、もう……どうしよう」

 机の上で伏せっていると、中野君からじろりと見られた。ここ一週間分の写真をアップしてくれているらしい。パソコンの音は安心感と眠気を誘う。

「どうしたんですか?」

 これだけ唸っていれば、声をかけなければという使命感は出るだろう。中野君からしたら、とんだ迷惑だ。

「また出かけようって、気になってる人から誘われてるんです」

「行ってくればいいじゃないですか」

 しれっと正論を吐かれてしまった。全くその通り。

「相手は社会人で、迷惑かけちゃうし」

「お金の面でってことですか?」

「うん、それが大きいかな? 会いたいけど」

「言い訳にしているようにしか思えませんね。お金のかからないところにすればいいじゃないですか」

「例えば?」

「公園とか」

 公園は、痛い思い出がある。例の場所でなくとも、公園に足を踏み入れるには深呼吸が必要だ。

「中野君って好きな人はいる?」

「いません。興味がありません」

 同い年なのに、中野君は僕に対して敬語を使う。人に興味がないのか、距離を空けている態度は嫌いではない。無理やり入り込んでくるより、少し離してもらえるくらいが、心地良い場合もある。

「そういえば、中野君ってなんでうちのサークルに入ったの? あまり甘いものも好んで食べないし」

「オタクだからです」

「そうなんだ」

 中野君は怪訝に眉をひそめた。

「パソコンオタクで、ひっそりと生きたい。けれどそれを許さない人がいる」

「どういうこと?」

「無理やり暴いて、オタクだとはやし立てる人がいるんですよ。中学と、高校のときの話です。よくいるチンピラ風の男たちです」

 クラスに数人はいるタイプだ。苦々しい顔は、当時を思い出しているのだろう。気持ちは通じる部分はある。僕も苦手なタイプだった。

「残念なことに、その仲間だった男がパソコンサークルに入っているんです。当時中学生の同級生です」

「何それ……」

「あちらは俺に対して吐いた暴言は忘れているでしょう。それどころか、俺の顔を見ても何も覚えていなかった。俺は忘れたときなんて、一日もないのに」

「それで入らなかったんだね。その人もパソコン好きだったのかな?」

「幽霊部員だと本人が話しているところを聞きました。そういうことでしょう」

 就職するときの面接の話題作りってことか。それが狙いで、サークルに入っている人も多い。

「まさか、日の当たらない俺の人生を話す日が来るとは思いませんでした」

「生まれたときから日は当たってるよ。経験値に変えて、生きていくしかない。そうなりたい」

 中野君は目を見開き、パソコンに視線を落とした。

 それからは会話がなかった。空き部屋に二人きりでも気が重くなることはなく、僕は黙ってキーボードを叩く音を聞いていた。中野君の放つ音は嫌みも自分を大きくみせる音でもなく、純粋にパソコンが好きだと言っていた。

 活動は特にすることもないまま、中野君と別れ家に帰った。見慣れない靴が一足ある。僕と同じスニーカーで、誰とは聞かされなくても相手の顔が浮かんでしまった。

 憂鬱のまま中に入ると、僕を待っていないであろう待ち人が囲炉裏の間に腰を下ろしている。

「……なんで?」

「ばあちゃんに呼ばれた」

 台所では祖母が何か作っている。荷物を部屋に置いて、僕も祖母の横に立った。

「ただいま、何作るの?」

「蓮とは何か話した?」

「なんで呼んだのさ」

「たまにはいいかと思って」

 祖母にとっては、僕も蓮も孫に変わりない。可愛くて仕方ないだろうが、面白くない。

 今日は素麺だ。ナスやミョウガ、豚肉も乗っている。それと大根の煮物。蓮は洋食が好きだから、文句が出るかもしれないと思ったが意外とおとなしく座って箸を持った。

「どう? 味は薄くない?」

「普通」

「美味しいよ」

 皮肉屋の蓮を考えると、普通でも随分と優しげなコメントに聞こえる。

 食事を終えてからにすべきか、食事中に話すべきか。相澤さんの話した同族嫌悪かよぎっては消える。やはり、相澤さんの勘違いではないのか。

「蓮の誕生日だったでしょう? だから呼んだのよ」

「ケーキくらい用意しててほしかった」

「そうね、次来たときには、蓮の好きなものを用意しておくわ」

 箸がみしっと音が鳴る。同族嫌悪がまた頭に溜まるが、こんな人と同族と思われるのは僕が嫌だ。弟に対して、僕も容赦なく冷たくなっていく。兄ちゃん、と慕っていたあの頃が懐かしい。

 なんと声をかけたらいいのだろう。いきなり同類だと言うのも怒らせるだけだ。

「最近、学校はどう?」

 祖母が助け船を出してくれた。弟相手だと、相澤さんとはまた違った意味で調子が狂う。

「この前行ってきた。午前中ですぐ帰ってきたけど」

「あら、それでも行ってきたのね。偉いわあ」

「授業はとっくについていけてないし、お先真っ暗って感じ。いいよね、大学にまで行けるような頭の持ち主は」

 棘で刺されている気分だ。僕のせいといえど、暗闇に迷い込む人生を僕のせいにして抜け出せなくしているのは蓮自身としか思えない。

「勉強したからね。大学でも勉強がんばってるし。蓮みたく、人のせいばっかりにして言い訳を見つけて逃げてないよ。将来のことも見据えて、ひとりでもやっていけるように良い就職先も見つける。それと、」

 口を挟む前に、僕もマシンガントークを貫いた。

「相澤さんのこと、そういう目で見ないでくれる?」

 憎々しいと、嫉妬のこもった目で凝然と見た。

 自棄だ。これで家族が崩壊しても、僕は未練はない。自棄になったのに、身勝手ながら清々しい気分だ。

 蓮の反応は僕が思うものとまったく異なっていた。てっきり真っ赤になって怒るかと思っていたのに、真っ青になり、僕から目を逸らして握った拳を震わせた。僕の方が反応に困る。

「…………帰る」

 顔は見えない。見るべきではない。震えた声を出されては、僕も拳を作るのに精一杯だった。

 部屋に戻ると自分の居場所だと安心でき、長らく与えられていなかった休息をもらえた気がする。砂漠のオアシスを見つけたとき、このような安らぎなのかもしれない。

「なんで。なんで、なんで……」

 当たってほしくはなかったが、相澤さんの勘は正しかった。あの様子から見るに、もしかしたら蓮自身もあの場で初めて自覚した可能性がある。無自覚の抵抗を僕に押しつけ、蓮は手っ取り早く楽な方向へと逃げていた。そんな蓮に気づいた相澤さんを称賛したい。

 全身の脈が耳に集まったようで、外の車の音も生活音も何も聞こえなくなっている。スマホから彼にメールを送った。

──相澤さん、あなたの勘は正しかったです。どうしよう。

 ほどなくして相澤さんから電話が来た。僕は先ほどの出来事を順に話した。祖母が蓮を呼んで夕食を共にしたこと、自暴自棄になってしまったこと、そしてゲイではないかとつついてしまったと、涙ながらに告白した。

「後の祭りです……本当に何やってるんだろ……相澤さんのことそういう目で見てたなんて……」

『藍君の男らしさが炸裂しちゃったのかな? というか俺も同族嫌悪だなんて言わなければこんなことには……』

「いえ、相澤さんのせいじゃないです。けど、これからどうしよう。僕の気持ちも蓮にばれちゃったし、ますます実家に行けなくなります。そんなに行きたいと思わなくても、行かなきゃいけないときもあったりしますし」

『…………ん? そう? まずは落ち着いて。取っ組み合いの喧嘩をした後、距離が縮まる場合もあるし、どちらにしても腹割って話さないといけなかったんだから』

 時間がかかっても大丈夫、と慰めの言葉もくれた。いつの間にか、次に会う約束までしていて、相澤さんは話し上手な人だと思いながら電話を切った。天ぷら屋に連れていってくれるらしい。高い店は嫌だと言ったら、僕の気持ちを組んでくれて天ぷらの食べ放題の店になった。相澤さんが職場の飲み会で利用したことがあるらしく、タッチパネルで頼むと揚げ立てを持ってきてくれると、嬉しそうに話した。

 こんなに幸せで楽しくていいのだろうかと、またしても自己嫌悪に陥る。僕の悪い癖だ。いずれ離れなければならないと思っても、相澤さんの顔が頭から抜けない。小さな相澤さんが、当たり前に住み着いている。狭い空間でも、一緒にお茶をしたりテレビを観たり、妄想が同棲というとんでも論に到達して膨らんでいる。

 あってはならない事態になってしまった。普段は無頓着な下半身が、熱を放出したくてたまらなくなっている。

 下腹部に手をかけて、止めた。相澤さんの顔がちらついてどうしても先に進めない。きっと出してすっきりしても、罪悪感が溜まるだけだ。

 風呂場に行き、冷たい水を熱を持った箇所にかけると、脳と直結しているのか気持ちもいくらか落ち着いてきた。水やりをしているのに、開いた花が萎んでいく。花なんて綺麗なものでなくても、理性の働く花で助かる。そのまま湯船に浸かった。温かなお湯で元に戻るかと思ったが、萎んだ蕾は元気のないままだ。安堵した。

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