第8話 弟の心

「荷物多くない?」

「お、お弁当です……」

 相澤さんが固まった。どのような表情だろうか。嫌がっていないと思いたい。何も言わずに紙袋を持ってくれた。

「動物園特有の香りって、僕好きなんです」

「この獣っぽい感じの?」

「はい。猫好きな人って顔を埋めて嗅ぎたくなるって言うじゃないですか。あれと同じ心理です」

「よく分からないけど好きってことだね。来て良かった」

 相澤さんは有言実行の人だった。「またね」と言ってくれ、嘘でもなく約束は果たされた。前髪をけっこう短めに切ったことにも気づいてくれ、こんなマメな人に彼女がいないなんて、世の中の女性は見る目がなさすぎる。

「どうしてここの動物園を選んでくれたんですか?」

「パンダもいるよ?」

「パンダ……」

「クマもいるし、パンダはクマ科だから」

「知らなかった……コアラっぽいのに」

「コ、コアラ?」

「コアラみたいじゃないですか」

「うん、ニュアンスと発想が絶妙だね」

 混み合う前にパンダのコーナーに行こうと誘われた。人だかりがすでにできていて、地図を見なくてもパンダがいる場所だと分かる。

「こっちにおいで」

 腕を引っ張り、前に立たせてくれた。制限時間つきのパンダの檻の前で、その間は肩に置かれた手もそのままだ。あったかいし、心臓が変になる。

「お尻を向けてるね」

「こんなもんですよね。動物園の動物たちって」

「冷めた発言」

 相澤さんが笑う。腕を通った振動につられ、僕も笑った。

「相澤さんは上野によく来るんですか?」

「春に花見に来た以来かな」

「もしかして、遠山さんが自撮り写真を送ってきた日ですか?」

「そうそう」

「すごいすごい。その日、僕も上野にいたんです。みんなでお菓子を食べてました」

「偶然だね。運命だったりして」

 ロマンチストなのかあまり考えていないのか、判断が難しい。

「相澤さんの好きな映画は?」

「唐突だね。たまに観るのはアクションかな」

「んー…………」

「あまり観ない?」

「相澤さんの性格分析中です。ドリーマーな人か、現実的な人なのか……」

「現実的だから塾講師になったんだよ。あと映画より読書の方が好きかな。次、ライオンのコーナーに行こうよ。猛獣系はやっぱり観ないとね」

 僕よりテンションが上がっている気がする。運動会で子供より大人が張り切る人はいるが、相澤さんも似たタイプなのかもしれない。そんな大人を見て、僕も飛び跳ねてしまいたくなる。

 猛獣コーナーはパンダほどではなくても、人が押し寄せている。相澤さんにまたもや肩を掴まれたときは、膝がガタガタ震え出した。例え壊れてしまっても、一時の夢であってもこのままがいい。

「ママー、あれなに?」

 斜め前の少女が指を差す先に、二頭のライオンがいた。重なり合い、雄が雌の首を噛み、雌もそれに答えるようにうつ伏せになる。取っ組み合いの喧嘩をしているわけではない。

 生々しい獣が及ぶ行為は、数日前に見たゲイ動画と同様の体位だ。荒々しく腰を振り、雌ライオンは従順に受け入れている。

 相澤さんの腕を引いても、彼は動かなかった。それどころか瞬きも忘れるほど見入り、僕の存在など視界に入っていない。

「相澤さん、行きませんか?」

 引いて駄目なら声をかけろ、だ。一瞬驚いた顔をして、相澤さんはやっと僕を見てくれた。

 行為が終わった後は、何事もなかったかのように離れていく。押さえつけられていた雌も、寂しがる様子もない。本能に従った行為は、雄が強いのか雌が権限を握っているのか、評価が別れているらしい。

 昼時が近いので、早めに昼食を取ることになった。弁当持ち込み可の屋内で、席についた。飲み物は相澤さんが買ってくれた。

「すごい……嘘……全部?」

「全部というか、おばあちゃんにも手伝ってもらいました。子供の運動会みたいですよね」

 得意料理よりも、誰もが好きな運動会弁当だ。卵焼きや唐揚げ、サラダ、おにぎり。気合いは入れたけれど、あまり気合いが入っていると思われたくない。

「気合いが入ってるね」

「そ、そんな……」

「なんで? 駄目なの?」

「気合いか入ってると思われると、気持ち悪いと思うので」

「なんだか藍君の後ろ向き発言が楽しくなってきた。気合い弁当、頂きます」

 嬉しいけれども、嬉しいけれども。頬をむにむにし、にやける顔を押さえた。

「藍君もこういうの作ってもらったの?」

「僕はリクエストして、だいたい煮物を入れてもらいました」

「渋いね。ちなみに一番好きな食べ物は?」

「シソの天ぷらです」

「し、渋いね……」

「天丼に入っていると嬉しいんです。しおしおになるし、衣がすぐに剥がれてしまいますけど。メインにならなくても、そこが魅力的だと思ってます」

「今日一番話してくれているね。シソには感謝だ」

「シソじゃなく、シソの天ぷらです」

「了解しました。なら天ぷら屋さんにも行きたいね」

「はい」

 流れで返事をしてしまったが、それは次もあるということか。相澤さんは気にした様子もなく、おにぎりを頬張っているので、僕は特に言い返したりしなかった。

 相澤さんはすべて平らげてくれた。さすがに心地良い満腹感を超えてしまったのか、休憩させてとお腹をさすっている。

「若いときみたいに量が食べられなくなってきてるなあ」

「もっと食べてたんですか?」

「おにぎり三つとおかずは余裕でいけた」

「言い忘れましたが、まだ若いです」

「……付け足しをありがとう。パンダのお汁粉あるけど食べる?」

「さすがにお腹いっぱいです」

 笑って返事をすると、彼も笑ってくれた。

 前の席では、ベビーカーに乗った子を一生懸命世話をする男の子の姿が見える。祖母には、僕もああやって弟を世話していたとよく褒めてもらえた。確かに、仲が悪くなる前までは、可愛くて可愛くて仕方がなかった。引き裂いた原因は僕にあっても、今は仲良くなろうとは思えない。ひどい話、自分のマイノリティーを変えるくらいなら家族を捨てる覚悟もある。それほど、性癖は変えられない。

「仲の良い兄弟だね」

「あのまま、まっすぐに進んでほしいと思います」

「ねえ、藍君。俺は蓮君と一度しか会ったことがないし、ほとんど話したことのない仲で俺が言ってもあまりセットぐらいに欠けるけど。一回しっかりと対面して話し合ってみた方がいいよ」

「相澤さんもそんなこと言うんですね。家族と性癖のどちらを取るかといったら、僕はマイノリティーのままで過ごします。どちらも手に入れられるほど、器用じゃない」

「世間体を気にしてとか、適当に言ってるわけじゃない。藍君とうまくいかない理由は、蓮君が学校でいじめにあった原因だからって言ってたじゃない? それだけじゃない気がするんだ」

「どういうことですか?」

「同族嫌悪ってやつかな」

「同族嫌悪……」

 同じ穴の狢ってやつだ。

「俺を見る目が、藍君と一緒」

「え? え?」

「そろそろ行こう。混んできたし。次は夜行性の動物がいるコーナーだよ」

 答えのないままクイズのように出題され、夜行性の生き物のコーナーに向かった。暗い場所だからか、考えるには良い時間だ。日の当たらない場所だったり、密室は考えをまとめるにはちょうどいい。

 もしかして、もしかしてだけれど。同族嫌悪とは、弟の蓮も同じ趣向の持ち主なのか。それより頭を濁らせているのは、彼を見る僕の目を、相澤さんはなんて捉えているのだろうか。まさか気持ちまでばれているはずがない。気持ち悪く思われないよう、かなり抑えて過ごしてきた。弁当も作ってきても、ハートマークを描いたり分かりやすいものは極力抑えてきた。

「藍君、コウモリが飛んでるよ」

 問題発言を残した張本人は、暢気に夜行性動物に夢中だ。確かに可愛いけれども。

「クマ以外だと、犬もけっこう好きです」

「コウモリって犬っぽくない? 狂犬病ウイルスを持ってるっていうし」

「僕の心にはきゅんとこないです。渋すぎる緑茶を飲んだ気持ちになります」

「あ、確かオオカミはいた気がする。あとは、ホッキョクグマと、マレーグマ。全部観に行こう」

「……面倒くさくてすみません」

「いやいや、こだわりがあるんだね」

 半笑いで笑われてしまった。暗い場所だからか、相澤さんに肩を押されて外に出た。

 今日の相澤さんはスキンシップが激しすぎないだろうか。困る。いろいろと、感情の起伏が激しくなって、なぜか落ち込んでしまった。

「なに? そのため息は?」

「いえ……相澤さんに後ろ向きすぎるって言われて、確かにその通りだなと思いました。前向きになる方法を探さないといけません」

「そんな真面目な」

「思えば、僕は父にも見捨てられてからネガティヴな性格にさらに磨きがかかったような気がします」

「お父さんとは、どんな楽しい想い出があるの?」

 想い出に楽しいがついてしまえば、悲観的な話は出来やしない。

「本当に小さかった頃ですけど、釣りに行きました。結局一匹しか釣れなくて、リリースしたんです。一匹だけだと、喧嘩になるから」

「買おうとは思わなかったの?」

 相澤さんは可笑しそうだ。

「さすがに、それは考えもしなかったです。開けたら切り身が入っているのを想像しました」

 声に出し、高らかに笑う。日は笑ってばかりだ。

「藍君は、お父さんやお母さんにうちの子じゃないって言われたことはある?」

「それは……ないですけど」

「やっぱりね。みんなそれぞれの人生の岐路に立って、充電期間に入ってるんだよ。普通なんて、理想の固まりみたいなもんだし。でもまずは、蓮君だね」

「蓮のことは、また会ったらいろいろ声をかけてみます。解決策は今のところはありませんが」

「一日二日でどうにかなるもんじゃないしね。根気が大事だよ。それじゃあ、行こうか」

 同じクマなのに、マレーグマには人の波は押し寄せない。パンダは一時期、抽選になるほど人気だったのに。マレーグマは少し観て場所移動する人、視線も送らずに素通りする人もいる。

 確かに、寝ていれば動きもないしつまらないと感じるのかもしれない。丸太の横で寝ている姿は、自然と馴染みすぎていて見失う。

 僕が満足するまで、相澤さんはずっと横にいてくれた。時折彼を見上げると、何度も目が合って何を観にきたのか質問したくなった。

 夕方近くになると、相澤さんは土産コーナーに行こうと僕を誘った。お菓子のコーナーは大半がクッキーで、饅頭やパンダの形をしたチョコレートもある。耳や目はまだ分かるが、顔も胴体も茶色でパンダではなくもはやクマだ。僕はこっちの方がうれしい。

 変わり種といえば、象の排泄物から作ったメモ帳まで売っている。相澤さんは手に取ると、カゴに入れた。

「仕事で使おうかなと。藍君はおばあちゃんに買わないの? 俺が払うよ」

「ええ? いいですいいです!」

「俺と藍君からおばあちゃんへプレゼントしたらいい」

 ほとんど相澤さんが選んでくれ、パンダの形をした煎餅になった。祖母はよく、囲炉裏の間で温かな緑茶と共に煎餅を食べている。あの姿を見ているとほっこりするし、幸せは長く続くよう祈る。

 祖母への土産だけではなく、僕へのプレゼントまで選んでくれた。残り少ないパンダの二つ隣にある、クマのぬいぐるみをカゴに入れ、何も言わずにレジに持っていった。二つの袋のうち、片方を僕に渡してくる。

「クマ……クマ……」

「どうぞ」

「本当にいいんですか? ありがとうございます……大事にします。家宝にします……!」

「そ、そこまで? 嬉しいけどさ、うん」

 遠足は帰りは寂しいもの。そんな思いを抱えて過ごした一日でも、不思議と今は寂しくない。車に揺られ、軽くなった弁当の入った紙袋と土産を抱え、気分は高揚している。

「今度、天ぷら食べに行こうね。おばあちゃんも誘ってみて」

「……はい。ぜひ」

「クマ牧場の件は、少し考えておいて。じゃあ、またね」

 泊まりを意味するキーワードだ。心臓の負担になるほど大きなパワーを持つ。胸の辺りを押さえると、服の上からでもはっきり分かるほど律動していた。

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