第5話 初めまして

 パソコン業務を終えた頃、すでに十六時を回っていた。石の入った肩甲骨を回し、パソコンを閉じた。

「先輩、帰ります?」

「飲みには行かないぞ」

 柊さんにメールをした件についてこっぴどく怒ったせいか、最近の遠山はおとなしい。今までの経験上、だからこそ怖い。小出しに発散されるより、ダムで放流するような勢いづいたものは、いろんな感情を流していく。

「今日はお出かけですか?」

「祖父の命日が近いんだ。いろいろと準備がある」

「……お大事に」

 先生ならば言葉の過ちをもう少しなんとかならないものか。人の死に関することだと、さすがに遠山でもおとなしくなった。

 カーナビに住所を入れ、アクセルを踏んだ。駅からは離れていて、和菓子店の近くに駐車場はない。田んぼに囲まれていて、目印となるものは、それほど大きくはない公園があるくらいだ。駅の駐車場に車を駐め、そこからは徒歩で目的地へ行く。

 今朝メールをしたら『どこからでもかかって来て下さい』という戦を待ちわびているかのような返事が来た。撃たれやしないか、教科書でよく見る戦時の絵が走馬灯のように駆けていった。

「……あった」

 和菓子屋と一体化した家だ。近づいていくたびに、誰かの声が聞こえる。子供が誰かを怒鳴り散らした、こちらまで落ち着かなくなる声だ。少し急ぎ足で道路を渡った。

「いるんだろ! あいつ!」

 子供の前で、一人の老婆が俺に気づいた。

「蓮、よしなさい。お客様の前ですよ」

 中学生くらいの男の子だ。俺を振り向き、気まずそうに顔を背ける。

「すみません、柊和菓子店さんでよろしいですか?」

「ええ、そうですよ」

「琥珀糖を受け取りに来ました、相澤と申します」

「あらまあ」

 困惑の混じった声だ。

「アンタが琥珀糖の人? わざわざこんな店に」

「こら、蓮。お客様ですよ」

 微笑むと、店主はすみませんと頭を下げた。

「病人の作ったもんを客に出す方が失礼だろ」

「あの子は病気なんかじゃないのよ」

「あいつ店継げねえくせに入り浸りやがって」

 とんとん拍子に進む会話だ。内容が濃い。そして口に挟むべき問題ではない。

「男が男を好きって、普通は病気って言うんだよ! 気持ち悪い」

 吐き捨てた言葉は処分されずに俺の心にのしかかった。男が男を好き? 一体誰の話をしている。

 開け放った扉を閉め、何度も謝る店主に向かい合った。

「お孫さんですか?」

「ええ……二人目の孫です。お見苦しいところを」

「私も彼くらいの年齢のときは、親とよく喧嘩をしたものですよ。それであの、藍さんは……」

 本人はいないが、名前で呼ぶのは照れる。今日は彼女の祖母が一人で店番のようだ。

「実は、藍は熱を上げて休んでいるんです」

「え」

「あの子はあなたに直接渡すって意気込んでいたんだけれど……」

 店主は和紙で包まれた箱を出した。

「藍が作った琥珀糖になります」

「もしかして……包みも藍さんが?」

「ええ、綺麗でしょう?」

 言葉を失うほど、美しい。今日の空にぴったりな色だ。

「よければ、こちらはおまけで」

 店主はどら焼きも紙袋に入れてくれた。よくある粒あんではなく、残り一つとなっているチョコレートクリームだ。

 値段を提示されたとき、あまりの安さで身振り手振りを交えながら首を振った。

「待って下さい。いくらなんでも安すぎます」

「大丈夫ですよ」

「何度も練習してくれたんですよね? さすがに……」

「お金のために作ったわけじゃありませんので。最後までうちの孫を信じて下さり、ありがとうございます。よければ、藍に会っていきますか?」

 ぜひ、と言いたいところだが、言い淀んだ。寝ているところにお邪魔するのは、気が引ける。

「囲炉裏のある部屋で布団を敷いて寝ていますから、すぐそこですよ」

「でも……女性の寝顔を見るのはさすがに」

「女性? 藍は男の子ですよ」

「え…………」

 男の子。孫が三人いるのかとよぎったが、店主の口からはっきりと真実を告げられた。

「男の子……」

 少年の言葉の意図はあっさりと繋がった。男が男を好きなのは病気。男を示す人は店主の孫である柊藍。世代を残せないから、店を継げない。蓮と呼ばれた少年は、きっとそう言いたいのだろう。

「やはり、会わせて頂けないでしょうか?」

 店主は何度も首を縦に振り、奥の部屋へ案内してくれた。

 この時代に囲炉裏のある家なんて、初めて見た。ホームページで旅館のサイトを見るくらいしか存在は知らない。文明開花前の利器の横で、白い布団がこんもりと小さな山を作っている。おばあさんはお茶を入れてくる、とすべてを俺に委ねて部屋から出ていってしまった。

 俺から意思を示さなければ、きっと二度とチャンスは訪れない。そう思ったら、急に焦りが覆い被さってきた。

「こんにちは。柊藍君」

 反応は何もない。

「琥珀糖、どうもありがとうございました。何度も練習を繰り返してくれたんだよね?」

 問い掛けにも答えない。

「ラッピングの和紙もとても綺麗だった。藍君のおばあちゃんがとても褒めていましたよ」

 もぞもぞと動いた。初めて見せた反応だ。

「たくさんメールをしてくれて、ありがとう。改めて、相澤あいざわさとしといいます」

 山が動き、黒い髪が中から見えた。辺りを見渡し、ようやく顔がこちらを向く。白い肌が火照り、まだ熱は下がっていないようだった。

「…………さとし?」

「そう、さとしです。けんだと思ったでしょ? だからおあいこにしよう。俺も勝手に、藍君のこと女性だと思ってたから」

 藍君は遠くを見て、また布団の中に潜ってしまった。すると数十秒ほどで、スマホにメールが届いた。

──恥ずかしくて、すみません。

 恥ずかしいのか。

──布団一枚だよ? 顔見て話そうよ。具合が悪いのなら無理しなくていいけど。

──もう熱は下がってます。おばあちゃんはまだ戻ってきませんか。

──おばあちゃん待ちなの? 俺とふたりきりはそんなにいや?

 またもや顔を出した。今度は布団ごと持ち上げ、上半身も出てきた。

「……すみません」

「何に対しての謝罪?」

「……さっきの、蓮。僕の弟です。一応」

 店での会話を聞いていたのか。一応、とつくのが悲しいところだ。

「ずっと仲が悪いの?」

「僕のせいで、学校で虐められているみたいなんです。行ったり行かなかったりで」

 理由を聞こうと口を開くが、彼の祖母が戻ってきた。

 藍君は小さな悲鳴を上げる。おばあさんが持っているのは、お茶と和菓子だ。

「上生菓子の練り切りです。良ければ召し上がって下さいな」

「ちょっとおばあちゃん! 待ってよ、それ」

「上生菓子というんですね」

「ようかんや練り切りなど、重みのある和菓子のことですね。濃茶ととても合うんですよ」

 上品な漆器の皿の上で、紫陽花が咲いている。淡い桃や紫の寒天が花に似せて、何かで作った葉も添えられている。多分、白あんだ。

「まだ試作の段階だから、お店には出せないんです」

「こんなに上手なのに?」

 布団がまた山を作ってしまった。まさか。

「こちらは……藍君が?」

「ええ、ええ。おじいちゃんにはまだまだ敵わないけれどね」

「すごい……芸術作品ですね。藍君、食べてもいい?」

 布団から顔が出た。初めて目が合うが、すぐに逸らされる。

「…………どうぞ。僕が作ったものでよければ」

「いや食べたいよ。なんでそんなにマイナス思考なの?」

「……おばあちゃんやおじいちゃんが作ったものの方が、美味しいですし……それに……」

「いただきます」

 崩すのはもったいなかったが、一口サイズに切って口に入れる。

「美味しい……」

「中は白あんと求肥を混ぜている生地なんです」

「中も藍君が?」

「おばあちゃん余計なことを言わないで……」

 店から呼ぶ声が聞こえる。おばあさんは返事をし、ゆっくりしていて下さいと言葉を残して出ていった。

 囲炉裏の間に取り残されてしまった。藍君は自分の作った練り切りを食べ、口を動かす。

「……見すぎです」

「うん、藍君だなあって思って」

「イメージを下げてしまいましたね。すみません」

 なんでこう、この子は自分を下げる発言をするのだろう。

「イメージ通りだよ。違ったのは性別くらいで。それは俺の勘違いで済む話だから」

「……………………」

 藍君は美味しいとも何とも言わず、自分で作った練り切りを平らげてしまった。食欲はあるらしい。

「今、お店に並んでいるもので、藍君の作ったものはあるの?」

「……どら焼き」

「へえ! 残り少なかったね」

「チョコクリームのやつだけです。試作品で、置いてくれているんです」

「ああ、そういうことか」

「ん?」

「なんでもないよ」

 帰ってから真っ先にどら焼きを食べよう。トーンの落ちた声は、上がる気配はない。暗すぎる。何か話題はないものか。

「琥珀糖のお礼の件なんだけど、一緒に食事でもしない?」

 驚いた顔、血が上る顔、青白い顔。見事な百面相だ。

「……おばあちゃんと蓮の会話を聞いてました?」

「ましたよ」

「それで誘ってるんですか、そうですか」

「なんで段々落ち込むの? 意味が分からない」

「相澤さんの方が意味が分かりません。……僕に名前を呼ばれて気持ち悪くないですか」

「悪くないよ。なんでさっきから意気消沈してるの? 行きたいか何が食べたいかだけ教えて」

「こっ断る権利はないんですかっ」

 泣きそうに歪むが、嫌がってはいないと思う。単純思考だが、布団を被らないからだ。

「好きな食べ物は?」

「…………和食」

「和食がいい?」

「…………洋食」

 好きな食べ物は和食で、食べたいものは洋食。理解した。

「俺の知り合いが出している店があるんだけど、そこでいいかな?」

「…………ぜひ」

「うん、じゃあそうしよう」

 片言の会話に、笑ってしまう。体育座りのまま動かないが、耳が真っ赤だ。メールではしっかりとした文面を書くのに、恥ずかしがり屋なのは見抜けなかった。やはり会ってみないと分からない。

 藍君がまだ病み上がりなのもあり、退散することにした。もう少し会話を楽しみたかったが、そろそろ夕食時だろうしご迷惑だろう。「またね」と言うと、藍君は泣きそうに顔を歪めて小さく頷いた。花言葉も知らないのに、紫陽花に似合う顔だと思った。

 家ではさっそくチョコレートクリーム入りのどら焼きを食べた。クリームがたっぷりで、チップが入っている。先ほど練り切りを食べたばかりだったので、軽めのクリームは食べやすかった。これがあんこだったら、多分半分も食べられなかっただろう。

──チョコクリームのどら焼き、とても美味しかったです。

──あー! あー! あー!

──失礼しました。お食事、とても楽しみにしています。

 同一人物から来たメールに、声を出して笑った。こんなに声を出して笑ったのは、久しぶりだ。

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