第6話 もやのかかるブロッコリー
真っ白なノートにまたやってしまったと、自己嫌悪で穴に頭を突っ込みたくなった。角に小指をぶつける、講義に集中できない、講義中に盛大なしゃっくりをかます、朝から三大不幸に見舞われた。初めて横隔膜に恨みを持った。
講義室を出ると、廊下には近藤さんが待っていた。先輩を待たせるなんて、僕は罪な男だ。
「服を買いたいなんて、急にどうしたのよ」
「ちょっと……いろいろ大変なことが起こってます」
「デート用の服を買いたいってことでしょ?」
「はっきり言わないで下さい……」
近藤さんには事前にメールで相談していた。だったらサークル活動のついでに服でも見に行こうということになった。
「相手はどんな人?」
「社会人です」
「うっそ、年上? デート?」
「そ、そうです……デートっていうか、ご飯に連れていってもらうだけです」
デートなんて大それたものじゃない。お礼だ、あくまでお礼。家族の放った呪縛の言葉を思い出し、何度も言い聞かせた。
僕にとってはお洒落すぎて場違いなデパートに案内された。近藤さんの普段の服装から見るに、都会のど真ん中にあるような店にはよく来るのだろう。怖くて値札が見られない。
「そんなに高くないから大丈夫よ。どんなのがいいの?」
「上に羽織れるようなものがいいです。新しくカーディガンを新調しようかなって思ってて。あと店員さんが来たら阻止して下さい」
服装は適当に見えて、こだわりがあって誰にも選ばせたくない派だ。ちょっと小難しい。けれど近藤さんにはアドバイスはほしい。それは人をわがままと言う。
自ら選んだカーディガンは、三種類まで絞り込んだ。何にでも合わせやすい黒、着こなし方がいまいち分からないけれど選んでみたい桃、一番好きな色である水色。近藤さんのガードしきれなかった店員がすかさずやってきては、黒がお勧めだと営業スマイルを見せたため、僕は水色にした。わがままに追加し、天の邪鬼だ。
「ありがとうございます。アドバイスのおかげです」
「付き人になっただけだけどね。似合うのがあって良かったじゃん」
渋谷駅から歩いて十分ほど、食べると幸せになれるパンケーキがあるとネットで調べ、二人で向かった。
それほど混んではいない。少し待ってだけで席に呼ばれた。
「食べたら幸せが訪れますかね」
「一瞬の幸せなら手に入るかもね。写真を撮り忘れないようにしないと」
僕はプレーン、近藤さんはホットチョコレートがかかったパンケーキを注文した。
「ホットケーキとパンケーキの違いはなんだろう」
「いろんな説があるみたいですけど、ホットケーキはデザート、パンケーキは食事系とか、使っている材料の違い、厚みとからしいです」
「これはデザート系なのにパンケーキかあ」
「僕はホットケーキって言った方が、なんとなく美味しそうに感じます」
とはいえ、食べていなくともこれは絶対に美味しいと確信が持てる。ふわふわのパンケーキが三枚。ナイフを通してもやはりふわふわ。ふわふわという言葉しかぴったり合うものがない。もちもちとも違う。
「美味しい……人生最後のご飯でも悔いがないくらい美味しい」
「僕は最後なら卵かけご飯が食べたいです」
「それとこれとは別で、私はすき焼きかな。普段そんなに食べないけど、ぱっと思いついた」
上にかかった蜂蜜すら残さない勢いで、すべて平らげた。それは近藤さんも同じだ。真っ白な皿にはホットチョコレートがほとんど残っていない。
余韻に浸っているせいか、駅までの帰りは会話がほとんどなかった。買い物のお礼を言い、僕は寄り道せずにまっすぐ家に帰った。
端末にはメールが届いている。相手は相澤さんだ。
──今週の日曜日は空いてますか?
僕はベッドに寝そべった。
──空いています。本当に、良いのですか?
──もちろんです。藍君のおばあちゃんもご一緒にいかがですか?
僕の家族への気配りに、切ないほど胸が締めつけられた。
台所では、祖母が明日の朝食の準備をしていた。明日もご飯だ。うちでは和食ばかりで、パンが出ることは滅多にない。
「おばあちゃん、相澤さんが一緒に食事しませんかって言ってくれてるんだけど」
「いっておいで」
「そうじゃなくて、おばあちゃんも一緒に」
「おやまあ。腰が痛いからねえ……ふたりで行っておいで。夕食は食べられそうかい?」
「うーん……」
「軽くお茶漬けでも作ろうか?」
「うん、食べる」
パンケーキとお茶漬けは、炭水化物と炭水化物だ。けれど祖母の作るお茶漬けは美味しい。鮭や梅干し、しらすが添えられているときもある。明日は少し控えよう。けれどパンケーキはとてつもなく美味しかった。
お茶漬けにはじゃこと大葉が乗っている。それと祖母特製のぬか漬け。一気に平らげ、ごちそうさまと手を合わせた。お腹はそれほど減っていなくても、するする喉を通った。
話は流れてしまったが、祖母は行く気がないらしい。たべながら聞いてもにこにこしているだけで、うんとも首を縦に振らなかった。
──相澤さん、おばあちゃんに聞いてきましたが、ふたりで楽しんできてとのことです。お気遣いありがとうございます。私の好みで洋食と言ってしまいましたが、相澤さんはお好きですか?
──好きです。家にいると、楽でパスタをよく食べます。あとカレーも好きです。
──僕の家は和食ばかりなので、たまに洋食が食べたくなります。
──何が食べたい?
──オムライスやパスタ、ハンバーグがあれば、その中から選びたいです。とても楽しみです。
布団の上でごろんごろんと転がり、感情を蒸発させたくて身体を何度も動かした。そうしたら、なんだかこめかみの辺りが痛みを発した。ぐるぐる回りすぎた。
これも相澤さんが格好良すぎるのがいけない。きっと彼は目立つタイプの人ではないと思う。でも自然体で大人の色気があって、布団を被った僕を出るまで待っていてくれる人。無理やり引っ剥がそうとはせず、メールも返してくれた。男である僕を受け入れ、食事にまで誘ってくれた。
「好きになるなって方が無理だよ……」
完全に気持ちが向いているというより、このままでいくと制御しきれなくなる。抑えていたものが爆発して、それは僕の失恋を意味する。痛い目を見る前に、食事会で幕を引くべきだ。人間は恋愛で失敗して成長させるともいうが、無理な恋愛を引きずるよりも二度と会わずにフェードアウトをする方が、空気が読めるし人として成長できる。
──やっほー。遠山だけど、この前はごめんね。こっぴどく相澤先輩に叱られました。
また来た。叱られたのなら、送ってこなければいいのに。
──柊です。また怒られますよ。今度は何の用件ですか。
律儀に返してしまうのが良くないのかもしれない。けれど放って置くのも気が引ける。
──俺と会ってみない?
──会いません。
──相澤先輩より優しくするから。
──今回のことも、相澤さんに報告しておきます。
次のメールが来る前に、画面を保存して相澤さんに送った。アドレスを変えればいいが、それ相応の時間もかかるし面倒だ。
相澤さんに画像を添付してメールをし、部屋の明かりを消した。
待ち合わせした駅の駐車場で、相澤さんは車の前で立って待っていてくれた。
「こんにちは……」
「はい、こんにちは」
「わざわざ……外に出なくても……」
「車分からないでしょ? 中に入って」
「あの……」
「ん?」
「ま、待っていて下さって、ありがとうございます」
「どういたしまして」
笑われてしまった。もう一度お礼を良い、助手席に乗り込んだ。
「クマ好きなの?」
言葉を理解するまで間ができた。相澤さんは僕の鞄に目が向いている。小さなクマのぬいぐるみがぶら下がっていた。
「あー!」
「え、なに?」
「……取ってくればよかった」
「どうして?」
「男で、これは、さすがに」
「いいじゃないの。可愛くて」
「……部屋もこんな感じなんです」
「もしかしてクマだらけ?」
「…………はい。テディベアで満たされています」
笑う、笑われる。仕方ない。恥ずかしいけれど、引かれるよりは全然いい。
「熊肉って食べたことある? 都内でも食べられる場所はあるけど」
「あああっ」
「あ、ごめん」
「だっだめです! クマは食べ物じゃないです! ま、まさか今から行く洋食屋さんって……」
「ないない! ないよ! 大丈夫!」
「クマは鑑賞して愛でるものです!」
異論は認めない。国や地方の文化を否定しても、宗教への異存があったとしても、クマは珍重するものだ。
クマについて熱く語っていると、洋食屋の駐車場に入った。十台も駐められないくらいの広さだ。
「お知り合いの方が開いてるんですよね」
「そうだね」
「男同士で行って、変に思われませんか?」
「藍君って、さっきまでは楽しそうに話しててなんでいきなり後ろ向きになるの。どうせならさっきのテンションでご飯食べようよ」
心の準備ができる前に、相澤さんはドアを開けてしまった。中にいる客人の大半が僕らを見る。すぐに逸らされてしまったが、未だに見続けるのは小さな子供だけだ。僕らはどう見られているのだろうか。友達でもない、家族でもない、ただの知人でご飯は食べには来ない。不思議な関係だ。
「よお相澤。奥の部屋でいいんだよな?」
「ああ、頼む」
厨房からやってきたコックは、相澤さんに対して親しげに声をかけた。目が合ったので、頭を下げる。関係を問われる前に、個室に案内してくれた。
「もしかして、わざわざ予約してくれたんですか?」
「うん。俺と食事するのあまり乗り気じゃなかったみたいだし」
「そんなこと……絶対ないです。ただ、僕と一緒で嫌がらないかなあと思って。全部聞いていたんでしょう? 蓮とおばあちゃんの会話」
「まあね。目の前にいたから」
まるで今日の夕飯はカレーよレベルの会話だ。それが何かと言わんばかりに、メニュー表を渡された。隅々まで見るが、熊肉を使った料理はなかった。安堵した。
「カレーは辛口なんですね。スパイシーって書いてる」
「辛いのは苦手?」
「あまり食べないんです。おばあちゃんの作る料理に舌も慣れてるので」
「俺は肉かな。最近炭水化物の摂りすぎで、しかもお酒も飲むから大変なんだよ。年齢的に痩せにくい年に入ってきてるし」
「おいくつなんですか?」
「二十代後半かな」
「二十九かあ……」
「二十八です」
炭水化物を控えている相澤さんの前で、僕はドリアを注文することにした。洋食がいいと言っても、結局目に留まるのはご飯。根っから日本食が好きなんだと思う。
「追加でサイドメニューから何か頼む? サラダとか」
「はい、ぜひ」
「何がいい?」
「……トマトとチーズのサラダで」
ボタンを押し、相澤さんがすべて注文してくれた。店員がいなくなった頃を見計らい、相澤さんが先ほどの続きに触れた。
「あの家におばあさんと二人で住んでるんだっけ?」
「はい。実家は目と鼻の先なんですけど、徒歩で行けます」
「帰ったりするの?」
「……いえ、母とは数か月会ってないです。僕が帰ると発狂するので。蓮も」
「蓮君は学校に行ってないんだっけ?」
食事中の話題ではないと思うが、相澤さんは気にした様子でもない。
「話して大丈夫ですか? ご飯食べるのに」
「うん、聞きたい」
「……僕がゲイだってばれたのは、中学生になったときです。元々女性に一切興味が持てなくて、おかしいとは思っていました。家が近所で親友だった人がいるんですが、その人に抱きつきたい衝動に駆られたんです。どうしても我慢できなくて、公園で告白しました」
「その公園って、藍君の家に行く途中にある公園?」
「そこです。当然、親友だった人は戸惑いました。彼は無理だと言い、その場で別れたんですが、次の日学校に行ったら、噂はクラス中に広まっていたんです」
「ばらされたのか」
「はい。優君だけじゃなく、よくいるガキ大将の耳に入ってしまって。クラスのいじめの標的にされた挙げ句、親も呼び出され三者面談まですることになりました」
「想像しただけでも地獄絵図だね。人の性癖なんて他人にとやかく言われることじゃない」
「そう言ってもらえると、とても救われます」
料理がきたので、話は一時中断した。湯気の立つドリアには、大きめのブロッコリーと鶏肉が乗っている。
「熱いから気をつけて」
「はい」
ブロッコリーをフォークで刺すと、湯気でドリアが見えなくなった。煮立っているし、しばらく食べられそうにない。
「それで、おばあちゃんの家に住んでるのは今の話と関係があるの?」
「そうです。お母さんが段々おかしくなってしまって、なんで普通に生きられないのって言われました。病気だし、蓮に移ったら大変だって。救ってくれたのはおばあちゃんだけでした。お父さんは言いなりなので、僕がいてもいなくてもどっちでもいいってタイプの人です」
「……幸せを分け与えてくれる人が、一人でも側にいてくれて、藍君が生きていてくれて良かったと思う。きっとおばあちゃん、今頃藍君がいなくて寂しがってるんじゃないかな」
湯気のせいだと思ったが、今は熱も冷めていてそれほど視界を揺らしていない。湯気ではなく、僕の涙でブロッコリーが見えなくなっていた。
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