第4話 悶える気持ち

「雨ね」

「…………はい」

 梅雨にはまだ程遠いのに、桜の花も散ってしまうほどの強さだ。隣に佇む近藤さんも、天気予報を信じて傘を持ってきているのに、差そうとも踏み出そうともしない。

「早めに帰ってお酒飲もうと思ったのに」

「飲めるんですか? あんな苦いのに」

 残念ながら、お酒は一口で断念した。いろんな意味で、大人の階段を上るのはまだ先だ。

 止む気配は全くなく、駅の通り道にある喫茶店に入ることになった。コーヒーのチェーン店で、値段のわりにメニュー表を裏切る料理が数多くある。夕食のことを考えると、とてもじゃないがパン類を注文できない。

 僕は小豆入りのコーヒーを、近藤さんはカフェオレとミニサンドを注文した。

「……どこがミニなのよ」

「そうなりますよね」

「半分食べる?」

「いいえ」

 きっぱりと否定した。甘いカフェオレだし、食べるのは、きつそうだ。

 小豆とコーヒーの手を取り合った仲は、けっこう合う。ようかんとコーヒー、最中とだって合うし、小豆との相性が良い。

「元気がないのは甘いもの不足?」

「僕が? そう見えました?」

「中野も心配してた」

「元気がないっていうか……最近よく連絡を取り合う仲になった人がいるんですが、」

「気になる人?」

「まあ……はい、多分」

 そこら辺は曖昧だ。気にはなるが、どんな感情なのか、名前がつけられない。顔も見たことがない。

「綺麗な人?」

「……………………」

 その形容詞は、男性を指してはいないだろう。見える世界が違うと、価値観も変わる。

「会おうって言われてるんです」

「会ったことがないの?」

「ない……です。店に来る方で、いずれ会わなくちゃいけないんですけど、部屋にこもって逃げようかなあって」

「やましいことがないなら、会えばいいじゃん」

「やましいことはあるんです。相手は僕のこと、いろいろ勘違いしてるから」

「勘違いってことは、相手がしたことでしょ? 別に嘘吐いたわけじゃないのに」

「それは……そうですけど」

「冒頭の驚きで終わるって。自分はこういう人ですってメールで書けばいいのに」

 また写真を撮り忘れるところだった。端末で何枚か撮り、小豆をスプーンで掬う。やはりコーヒーと合う。小豆は甘いので、コーヒーは何も入れず口にした。

 近藤さんに話を聞いてもらえ、少し負担が軽くなった。解決策として、メールで伝えるか、本人に会って謝罪するか。はたまたとんでも論だが、現実から逃亡するか。琥珀糖を渡してしまえば、どうせ二度と会うことはない。そう思いたいのに、思い込めば軽くなった荷物が倍になって積み上げられる。

 病気だと打ち明けてからも、変わらずに琥珀糖を購入したいと言ってくれた。そんな人は生まれて初めて現れた。家族にすら見放された僕を、目に見えない電波で強く繋いでくれた。和菓子屋で働いてもいいと、一筋の光が差した。

「僕は……会いたい」

 口に出したら緊張でアスファルトに伸びる影が震えた。それで良いと後押しをしてくれているようで、外はすっかり晴れている。一日雨予報のはずなのに、最近の天気予報は当てにならない。

 帰り道の途中にある公園の前で止まり、僕は公園内を見回した。立ち止まる僕を見て砂場で遊んでいた母子が僕を不審に何度も盗み見している。通報される前に、中に入った。

 祖母や友達と遊んだ想い出の地でありながら、二度と足を踏み入れたくないと思っていた場所。祖母には二度と行かないと八つ当たりをしてしまったのに、ひとりだとすんなり入れてしまった。あのときと変わらず、ゾウのすべり台が青とは言い難い色をしている。塗装が剥がれ、錆色が危なっかしい。

 しばらくベンチに座って休んでいたが、足の長くなった影とオレンジ色の光を浴び、重い腰を上げた。

 公園を出たところで、思わぬ人物と遭遇した。

「優君……」

 道路の向こうを歩いている。呆然としていた僕を見て、彼も立ち止まった。あのときと違うのは、わだかまりの残る顔で複雑にこちらを見ているということ。からかうようなマウント取りはもうしない。少し大人になった証。互いに共通しているのは、もう会いたくなかったという気持ちだ。

 僕はすぐに顔を背け、何事もなかった、誰とも会わなかったと装い、その場から逃げた。

 今日は店が閉まっている。元気ではあるが、腰の痛みがある祖母は、毎日店を開けなくなっていた。曇った心を払拭してくれたのは、祖母のおかえりと笑顔だ。

「おばあちゃん、今日で琥珀糖を完成させるよ」

「頑張ってね。藍ならできるよ」

 この世界に、僕を信じてくれる人が二人いる。たった二人でも、今までの人生には考えられなかったことだ。せめて期待に答えられるように、いつもより少なめの夕食にした。お腹がいっぱいだと、脳が働かなくなるためだ。

 グラニュー糖と軟水、寒天、食用の色素。シンプルだからこそ難しくも感じる。初めての琥珀糖作りは失敗した。食感が琥珀糖らしい回りがシャリシャリで、中はトロトロにならなかった。笑顔が消えた祖母の口からは「駄目ね、やり直し」とプロの意見が重くのしかかった。原因は、煮詰める時間が足りないからだと、店主とネット情報だ。

 色素以外の材料を糸が引くまで火にかけ、タイミングよく火を止める。型に入れて色素で色づけし、このまま乾燥させるだけだ。

「どうかな?」

 様子を見に来てくれた祖母に見せると、プロの目から糸目になった。相変わらずほっとする笑顔だ。

「おじいちゃんの分と、こっちが相澤さんの分」

「これは?」

「……僕とおばあちゃんの分」

「あらあ、出来たら一緒にお茶しようねえ」

 笑われてしまった。僕だって食べたかったんだ。シンプルな味だし、何のお茶でも合うと思う。

 ほうじ茶を入れて、ご飯の後のデザートだと言い訳をしながらふたりでどら焼きを半分こした。

「あのさ……この前、相澤さんに渡してほしいって頼んだけど、やっぱり僕が直接渡すよ」

「うんうん、その方がいいよ。待っていてくれるんでしょう?」

「ちょっと、会うのが怖いけど」

 たっぷりの粒あんに、蜂蜜の香りがする生地と相性は抜群だ。しっかりと甘くてもきつい甘さではなく、昔から味は変わらない。ある程度の配合は教えてもらっても、いつも最後には目分量だと言われてしまう。これが曲者だったりする。それを口にされると、僕にはどうしていいかまだ掴めない。

「どうして会うのが怖いの?」

「お礼がしたいって言ってるんだ。メールでだし、冗談やお愛想の類だと思うけど」

「仲良くなったらいいじゃないの」

「おばあちゃん……僕がこの家に来た理由も忘れたわけじゃないよね? 無理だよ。下心はどうしても出てしまうし」

「おじいちゃんなんて、下心ばっかりだったわよ」

「うん、聞きたくない話題だね」

「仲良くなるのに、性別は関係ないわ」

 年の功というか、穏やかな人から出る鋭い突きは、心の真ん中に突き刺さる。祖母くらいの年代なら、気持ち悪がってもおかしくはないのに。若い年代ほど理解があるのは思い込みで、僕の回りでは学校でも近所でも村八分状態だった。すべて僕が悪い。時代錯誤は、すぐそこで行われていた。理解のある祖母も、ある意味時代錯誤だ。

 お茶の片づけは祖母に任せ、部屋に戻った。祖母といる時間は桃源郷でも、やはりひとりの時間は欲しい。

──相澤さん、こんばんは。夜分遅くに失礼します。琥珀糖ですが、ほぼ完成間近となりました。連休中であればいつ来て頂いても構いません。

──相澤です。ありがとうございます。柊さんは、いついらっしゃいますか?

 返事が早い。内容が濃い。二度、爆弾が投下された。やはり彼は、僕に会う気でいる。

──本当に会いますか?

──病気以外の不都合がありますか?

 質問に質問で返されてしまった。

──ないです。けど……。

──一週目の日曜日は、お店を開けていますか?

──はい。大丈夫です。

 病気とは伝えたが、目に見えるものなのか心のものなのかは相澤さんは知らない。後者だが、前者と勘違いしている可能性もある。それでも相澤さんは会いたいと言ってくれる。嬉しいし、胸が痛い。

──どもども! 遠山です! 今、先輩とメールしてたでしょ?

 すっぱり消したはずのメールアドレスだ。しかもしっかり名乗っている。相手のためというより、無視をするのも自分自身が気が引けるので、返すことにした。

──こんにちは。柊藍です。何の用ですか? 相澤さんに怒られませんでしたか?

──友達になってくんない?

──相澤さんは何か仰っていますか?

 相澤さんからも遠山さんからもメールが来なくなった。

 レポートに手をかけ、日付が変わる前にすべて終わらせると、誰かから連絡が来ている。

──うちの遠山がご迷惑をおかけしました。本当に、本当に、拒否して下さって構いません。

──なんか、めちゃくちゃ怒られた。

 対照的な文面に、笑いが込み上げてくる。

──相澤さん、大丈夫ですよ。一週目の日曜日ですね? 何時頃になりますか?

──夕方くらいになります。お店は開いていますか?

──いつも夕方には閉めますが、相澤さんがいらっしゃると祖母にも伝えておきますので、ご都合のあるときにいらっしゃって下さい。

──なんだか、柊さんが優しすぎて私の癒しのような人に感じてきました。

 癒しとは。僕の理解している癒しと、言葉の解釈が違う気がする。僕の癒しは、和菓子を食べているとき、祖母と話しているとき、そしてこの部屋に並べられているもの。誰にも話していない秘密がある。机やベッドに飾られたこれらは、家族も友人も知らない。

──横に遠山、メールの相手は柊さんだと、余計にそう感じてしまいます。

──遠山さんのキャラクターが分からなくなってきてしまいました。

──メールで自撮り写真を送ってしまいましたよね? あのまんまです。お店にも連れていくつもりは一切ないので、ご安心下さい。

 これにはひと安心だ。最後におやすみを交わし、端末を置いた。

 祖母以外の人とおやすみを交わすなんて、時間を遡って考えてみるが何もない。母には一年以上会っていない気がする。いや、確か去年のお盆の日は顔を合わせた。記憶が曖昧で、それすらも記憶から消滅しかかっていた。

 実家で親戚の集まりがあったが、僕は呼ばれなかった。ただ、母親が仏壇に供える和菓子を買いに来て、店番をしていた僕と気まずいアイコンタクトをした。なけなしの挨拶は「元気にしてた?」である。僕は「普通」と答えた。テレパシーを感じ取ったように、僕が作った和菓子をすべて避けて和菓子を買っていった。何気なく祖母に孫の作った和菓子を誰かに話したかと聞いても、誰にも言ったことはない、けれど仏壇で寝ているおじいちゃんには毎日報告しているわ、である。別の意味で泣きそうになった。

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