第3話 交錯する思い
風呂の後は冷蔵庫を開け、麦茶と冷凍食品のパスタを取り出した。朝と昼がごっちゃになった、本日初めての食事だ。パスタを茹でる必要も、レトルトを温める必要もない。企業努力に頭を下げっぱなしだ。特に俺みたいな料理の苦手な人間には、必要不可欠なもの。
投げっぱなしの端末が光り、メールは二件。同僚と和菓子店の店員さんからだ。
──また飲み会に連れていって下さい!
──五月の連休中に、間違いなくお渡しできそうです。ほとんど形になり、あとはお色の加減を調整しております。
前者は無視し、後者にだけメールを返した。後輩であることを目いっぱい棚に上げ、俺の財布がすっからかんにかるまで持ち上げる。奴の手の内は理解した。おまけに酒癖はあまり良くない。ナンパを始めるわ、人のスマホで写真を撮って送りつけるわ、とんでもない。
──琥珀糖だけでなく、柊さんとお会いできるのも、とても楽しみにしています。
お茶も飲み終わり、片づけをしてこの後の仕事に備えた。
カーテンの隙間からは日も差さず、どうやら今晩から雨が降るらしい。念のため車に傘を積み、エンジンをかけた。
塾講師として働き初めて数年が経つ。職場とマンションを行き来するだけの日々だったが、最近少しの刺激があった。人を変えるのは人だというが、生活に変化をもたらしたので、確かに当たっているのかもしれない。
車から出ると、まだ雨は降っていない。だが一面灰色に覆われ、いつ降ってきてもおかしくない。早歩きで、建物の中に入った。
「あっ先輩、なんでメールの返事をくれなかったんすか」
「それはな、飲み会に連れて行きたくないからだ」
「なにそれ、ひどいっ」
「まずはその酒癖を直せ」
実にシンプルな理由だ。酒癖が悪い。絡み酒は回りが迷惑。上野での花見の件でよく理解した。
「相澤、ちょっといいか」
「はい」
問題集をコピーしていると、上司に呼ばれた。機械任せにして上司の元へ行くと、シフトの変更のお願いだった。特に用もないので大丈夫だと伝え戻ると、同僚の遠山は俺の机で何かしていた。
「何やってんだ?」
「え? いやいや、何も?」
へらりと笑う顔に、嫌な予感しかしない。
「プリントのコピーが終わったから、机に置いただけですよ」
「……………………」
「なんでそんな顔するんすか!」
「そう思うなら今までの言動を思い起こしてみろ」
厚みのあるプリントの下には、俺のスマートフォンがある。二段階の明かりがつき、メールが来ていた。
遠山はもういない。メールを開けた跡もないが、今までの彼の行動を思うと放っておいていいのかと考えるものがある。
──お会いできるか、分かりません。
え、と空気に混じった声が出た。五月に取りに行く約束までしているのに。
──ご都合が悪いですか?
──そうではなく、祖母から直接受け取って下さい。
意味が分からない。嫌われるようなメールを打ったかと過去を振り返るが、怒りや悲しみの線に触れることもしていないはずだ。
「相澤さん、時間ですよ」
「あ、はい」
ここから夜まで休みなく働き詰めだ。癒しがほしい。
「お疲れっしたー」
今日一日、疑いの目を向け続ける相澤先輩。なぜだ。俺は視線を避けるように、誰よりも早く職場を後にした。
さっさと家に帰り、缶ビールを目の前にメールを開いた。
──どなたですか?
冷たいようで、ちょっと興味があるって感じか。そして警戒心剥き出しだ。アドレスに入っているローマ字から察するに、おそらく女性だ。
──相澤の、お友達で同僚です。遠山といいます。
実は机にあったスマホをこっそり覗いてしまった。上野で花見をしたときから、楽しそうにメールをしているものだから、興味があってつい悪戯心が働いてしまったのだ。
──相澤さんの?
お、ちょっと食いついた。
──なぜあなたが私のメールアドレスをご存知なのですか?
──相澤に教えてもらいました。
缶ビールが進む。つまみは何かないかと、ビーフジャーキーを持ってきた。賞味期限は過ぎているが、まあ大丈夫だろう。
──嘘つきですね。相澤さんはそんなことしません。
この信頼感はどこからやってくるのか。綺麗なものを見ると、ドロドロした感情が沸いてきて、渦の中に放り込んでやりたくなる。
──冗談です。花見の写真送ったでしょ? あれ、俺です。
──ご用件はなんですか?
俺の顔には興味なさそうだ。地味な相澤先輩とは確かに見た目も全然違うけれど。
──相澤先輩に会えなくて寂しい? 今日も立派に先生こなしてたよ。
──先生だったのですか?
相澤先輩の職業を知らないのか? 付き合っている彼女というわけでもないようだ。
──塾講師だよ。知らずにメールしてたの?
──あなたが思うような間柄ではありませんので。
──会ったりしないの?
メールが来なくなった。ついでに缶ビールも空になったので、新しいものも出した。つまみはまだある。
──会えません。私は病気ですので。
病気。触れていいものか判断に迷う話題だ。残念ながら、好奇心が勝ってしまった。
──病気って? 相澤先輩はそんなこと話してなかったけど。それが会えない理由なの?
──はい。それと、今日のメールの件に関しては、相澤さんにご報告します。
──待って待って。黙っててくれない?
──駄目です。では、さようなら。
さようならをされてしまった。病気とはなんだろう。見た目の何かか、心の病気か。付き合ってもいないのに、長々とメールをしている関係はなんなのか。好奇心を超えるより大きな謎が残ってしまった。
遠山の目を合わせない態度や逃げるように職場を去った言動からするに、ろくなことをしていないと察してはいた。
久しぶりの日本酒でも飲もうかとテーブルに並べ、余っていたソーセージとざく切りのキャベツを茹でた。簡単すぎるつまみだが、料理が苦手な俺からしたら、立派なご馳走だ。
メールが来ている。遠山か、または柊さんか。
──てへっ。
──相澤さん、柊和菓子店の
同じメールなのに、なぜこうも違うのか。頭を抱えたくなるが、柊さんの名前が藍だと分かり、些か気持ちが高揚した。彼女の祖母から『あい』だと聞いていたが、イメージからするに『愛』だと思い込んでいた。
先にどちらに返そうか。まずは柊さんが先だろう。
──不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ございません。机の上にスマートフォンを置きっぱなしにしていたもので、どうやら遠山に覗かれてしまったようです。厳重に叱ります。本当にごめんなさい。
こんなことがあっていいはずがない。何より、個人情報を机に丸投げにしてしまった自分に腹が立った。残念ながら遠山はそういう奴だと分かっていたはずなのに、俺の隙のせいでこうなってしまった。よく言えばムードメーカー、悪く言えば調子が良すぎる。節操がない。
ぬるくなった日本酒は、胃が入ってくるなと蓋をしている。冷蔵庫にしまい、新しくホットコーヒーを入れた。
──遅らせながら、柊藍と申します。大学で食物学について勉強しています。将来は、祖母の和菓子店を継ぐことが夢です。
脈絡のない内容だ。前後のメールを見ても、問い合わせをしても繋がらない。
──すみません、相澤さんが、塾講師だと遠山さんが仰っていたもので。あなただけの個人情報を知り、私のことを話さないのは不公平だと思って。
今時、こんなに真面目でまっすぐな人はいるのだろうか。遠山は柊さんに、垢でも髪の毛一本でも飲ませてもらえばいい。それであいつが変わるとは思えないが。さて、なんて返そう。
──ご丁寧にありがとうございます。あいつが勝手にしたことです。柊さんが気に病む必要はありません。むしろこちらが悪いのに。取りに伺ったとき、お詫びをさせて下さい。食事の一つや二つ、奢らせて下さい。
──いいえ、お気持ちだけで充分です。
返事が早い。
──この前も言っていましたが、柊さんにお会いできないのでしょうか? もしかして、遠山に何か言われましたか?
──遠山さんは関係ありません。あえて言うならば、私は病気なのです。琥珀糖には支障がありませんので、ご心配なく。
病気なんて初めて聞いた。今まで一度も言っていなかったのに。会いたくない口実とも考えられるが、こうも会う気のない意思の固さを見るに、本当なのかもしれない。
──柊さんはどんな方であろうとも、俺は作ってくれていることも感謝していますし、お礼がしたい事実は変わりません。
またもやしばらく来なくなってしまった。戦いの間の休憩だと、ホットコーヒーにミルクをたっぷりと注いで気を落ち着かせた。
──ありがとうございます。
どうとでも取れるメールだった。本心はまるで見えてこない。感謝のありがとうよりも、これ以上傷を抉らないで、に聞こえた。今日はこの辺にすべきだろう。あんまりしつこいと、本当に会ってもらえなくなる。
「さて……どうするか」
少しの苦みも残らないコーヒーを飲み干し、もう一杯飲もうと立ち上がった。
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