第6話 『ホテイアオイ』

高校2年 8月


高嶺さんに自作の小説を読んでもらうという行為は僕の執筆に良い影響が与えられている。


第一に他人の感想を聞くだけでも修正所や表現の適切不適切が見えてくる。


第二に彼女には楽しんでもらいたいという感情が内容を今まで以上に洗練されたものにしようという意欲が働くのだ。


それ故あまり今までは内容を書いては消して書いては消してを繰り返さなかった僕もそれを繰り返すようになり、直筆小説を書くものもノートから適している原稿用紙へと最近移行してみた。


要は丸めてゴミ箱に捨てるというあれだ。


実際には現在喫茶店『歩絵夢(ぽえむ)』

で執筆しているので丸めてゴミ箱へ放るなんてことはしない。


しないがボツ用の紙袋を持ってきたのでその中にすっと入れる。


「ふぅ」


「不知火くん。苦戦してるね」


そんな僕の様子を見てか少し心配そうな表情をする高嶺さん。


「そうだね。なんだか今までは書きたいように書いて満足してたんだ。でも今はそれを読む人がいる。だからそんなやり方してたって駄目かなって思ったんだ」


「私はいいと思うけどなぁ」


「妥協が許されないって気づいただけさ。僕がこの道で生きていくのであればそれ相応の覚悟と努力が必要という当然のことにね。高嶺さんのおかげだ」


父親を説得できなかった理由も今となってはわかる気がする。


「えっ、私なんにもしてないよ」


「いや高嶺さんが僕の小説を読んでくれているおかげで他人に読ませるという意識を持ちながら話を書くようになったんだ。当たり前な話、小説って他人に読んでもらうものなんだから今まで意識しなかったってのもおかしな話だけどね」


「そう言われるとなんだか嬉しいなぁ、不知火くんの役に立ててる感じがして。そういえば不知火くんは夏休みの宿題はどう?終わった?」


筆が止まる。


「あー、…それは今一番聞きたくない言葉だな」


「やっぱり。不知火くん真面目そうな顔して意外と勉強疎かにしがちだよねぇ」


「残念ながら文学青年が皆真面目と思ったら大間違いだよ」


「でも不知火くんはやる時はちゃんとやる人って私知ってるよ。期末試験勉強も頑張ってたもんね」


「それは、いやそれこそ高嶺さんのおかげだよ。あれだけ懇切丁寧に教えてくれれば誰だってできるようになるさ」


「私でよければ新学期始まったらまた教えてあげる」


「新学期迎えるためにもそろそろ夏休みの宿題やらないといけないなぁ」


「うん、それがいいと思うよ」


「…そうだ。さっきのことでもうひとつ話しがあるんだ」


「どうしたの?」


「実は僕、小説家になることに父親から反対されていてね」


「えっ」


彼女が真剣な表情へと切り替わる。


「僕もあれよこれよと説得を試みているんだけどなかなか首を縦に振ってくれないんだ。どうしたものかと僕も悩んでいたんだけどね、最近なぜ父が認めてくれないのかわかってきた気がするんだ」


「どういうこと?」


「ここでさっきの話と繋がるんだけど今まで僕は一人でしか文学の世界に浸っていなかった。けどこれを仕事にするのであれば一人じゃ当然駄目でどこか僕は小説家を将来の夢としてただ漠然と眺めていたんだ。もう高校生だ。将来の夢を見るのはいいけどそれまでの道はそろそら具体的に考えないといけない年頃だと思うんだ」


説得できなかったのも当たり前だったのかもしれない。


「…立派だね。不知火くん」


彼女は唇端を僅かに釣り上げたのち、紅茶をすする。


「そんなに立派に考えてる高校生なんてそういないよ?私だって将来の夢は漠然と考えてるだけだもん」


「高嶺さんも将来の夢あるのかい?」


「あるよ」


ただ真っ直ぐこちらを見つめてきた。


やや羞恥がこみ上げてくる。


「…内緒だけどね〜」


聞かせてもらえないのか。


少々がっかりする。


「でも…不知火くんなら近々教えることになるかもね」


「近々教えるってどういうことだい?」


「それも内緒だよ…」


静かに微笑み、唇に人差し指を当てる。


あまりの可憐さに胸が少し締め付けられるような気分になる。


この胸の苦しさを原稿用紙へとぶつけようとするが、何も言葉が綴れない。


「…今日はもう帰ろっか」


「え?」


「不知火くん夏休みの宿題まだなんでしょ?あんまり私が長い間拘束しても悪いからさ。それに今は私の将来の夢が気になってしょうがないだろうし、ね?」


すっかりバレている。


気遣いもさせている己に情けなさすら感じてきた。


「そうだね。まだ読み終わってない分は持って帰ってもいいからね」


「ありがとう不知火くん」


伝票を持ちお互いの料金を支払い、『歩絵夢』を後にする。


葉月も後半。


茅蜩(ひぐらし)の音がただ黄昏に鳴り響いていた。


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後半に差し掛かった夏休みの平日の昼下がりのことだった。


「お、に、い、ちゃ、ん!」


夏季休暇の課題に悪戦苦闘しているとノックをするなんて概念がとうに捨て去られてしまった僕の自室に綾音が入ってきて後ろから抱きついてきた。


「どうしたの、綾音」


「お兄ちゃんってぇ、明後日ひま?」


「明後日って…土曜日か。んー別段、予定はないよ」


僕が予定のないと伝えると綾音の目が爛々と光る。


「じゃあさっ、二人でお祭りいこうよお祭り」


其れは別に構わないーーーー


つい反射的にそう告げようとする。


高校生にもなって兄と二人で夏祭りに行きたいと言う妹は多分、普通じゃない。


だが兄離れさせたいといっても僕も綾音と喧嘩したいわけではないしむしろ仲良くしたいと望んでいるが故、これがどうしてなかなか難しい。


予定がないと言った手前、面と向かって断る勇気もないし別の人を誘うように誘導できないものか。


「綾音は友達とかとは行かないのかい?ほら久美ちゃんとかこないだの真理亜ちゃんとか」


「久美ちゃんも真理亜も誘ったんだけど二人とも予定あるって断られちゃった」


「ほかにも友達とか誘いたい人はいないのかい?」


「んー、いないかな。…普通の女の子はお兄ちゃんと会わせたくないし…」


義妹の顔が一瞬歪む。


「え、今なんて言ったの?」


すぐ元の笑顔へ戻る。


「ううんなんでもないよ。ねぇっ、それよりも行こうよ〜お祭りぃ」


「うーん、でもなあ…」


「…なんでそんなに渋るの?」


「渋っているわけじゃあないんだけどね…」


「…じゃあ何?それともお兄ちゃんあたしと行きたくないの?」


いままで聞いたことのないような底冷えするような声。


妹ではないナニカがそこにいる感覚。


一筋の冷や汗が滴れる。


「ど、どうしたんだい。綾音と行きたくないなんてこれっぽっちも思ってないさ」


「嘘。いつものお兄ちゃんなら二つ返事で了承してくれるもん」


確かに二つ返事しそうになったのは事実だ。


あぁ、断る理由が浮かばない。


異様な雰囲気を醸し出す綾音を前に誘いを受ける以外選択肢は残されていなかった。


「…ふぅ、分かったよ。明後日ね」


「やったぁ!お兄ちゃん大好き!」


僕が承諾するや否や再び強く抱きついてきた。


「ところでお兄ちゃん、もしかして夏休みの宿題やってるの?」


「夏休みも残り少なくなってきたしそろそろやんないとと思ってね。綾音は進捗の方はどうなんだい?」


「うう、わかってるくせに…。いじわる」


「まぁ僕も毎年夏休みの終わりにまとめてやってたから気持ちはわかるけどね」


「あーあ、あたしもあと一年早く生まれてればお兄ちゃんと一緒に同じ宿題できたのになぁ」


「そうなると日付的に綾音は僕の義姉になるわけだ」


「え?あ、そっか。あたしがお姉ちゃんかぁ」


「ははは、それはなんだか想像できないな」


「なんで笑ってるのよお兄ちゃん!あたしだってそうなればしっかりお姉ちゃんつとめるもん」


「その時は宜しく頼むよ。でも今回の人生では綾音は僕の妹だ。それは変わらない」


綾音の頭に手を乗せる。


「あっ…」


そう変わらない。


僕はこれからもできる限り綾音にはやれることはやってあげたいけど、並行して兄離れもさせなければならない。


この矛盾した目標を達成できるのはいつになることになるのか。


「…そうだ!お兄ちゃんも宿題やってることだし私もお兄ちゃんに宿題を教えてもらおっと」


「本当に分からないところなら教えるのもやぶさかではないけど、勉強得意じゃないしそもそも僕の宿題もあるから全部教えることはできないよ」


「わかってるってぇ。あたし宿題とってくる!」


脱兎のごとく自室に戻る綾音。


「そんなに慌てなくてもいいんだけどな…」


それにしても夏祭りか…。


来るはずもないのに期待してしまう。


自惚れているのは分かっている。


僕は震えない携帯をどこか期待を持って横目で見ていた。


送られてくるはずもない誘いの宛てを。


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「あら遍くん、甚平似合うわね」


約束の土曜日の夕刻。


夏祭りに向けて甚平に着替えた僕に義母が話しかけてきた。


「せっかくの夏祭りだし形から入るのもいいかなって思ってね」


「誰と行くのかしら。…もしかして前に言ってた女の子?」


好奇心旺盛な顔を覗かせる。


「ち、違うよ。いつも通り綾音と行ってくる」


綾音、という名を出した途端に義母の顔が固まる。


「そう…またあの子ね」


「ま、まぁ兄妹仲良いっていうのは良いことでしょ?」


「そうなんだけどねぇ…あなたたちの場合仲良過ぎて逆に不安になるのよ。それにあまりこういうことも言いたくないんだけどあなたたちは血が繋がってないから…。遍くんには『そういう気』はないからいいけど綾音の方はどうかしら…」


そういう気?


まさか男女の仲に発展することを危惧しているのか?


綾音にそういう気持ちが?


「そんな…まさかあり得ない」


あまりにも突飛な発想に思わず本心が口から溢れる。


「私もそう思うのだけど血が繋がってないから絶対にありえないとも言えないのよね。もしそうなってしまえば義理とはいえ兄妹だからその分障害が多いと思うの。だからその道に向かって欲しくないっていうのが私のちょっとした我儘」


「…心配しなくても大丈夫だよ母さん。僕には『そういう気』は無いし、綾音にだってきっと無いよ」


「そうかしら…」


「心配しすぎというか考えすぎだよ。確かに義理だけどもう十年も前から家族なんだ。血の繋がりはなくても綾音は正真正銘僕の妹だ」


「あの子が遍くんと家族になったのも5歳の頃だからほとんど物心つく頃だし確かに可能性で言ったら遍くんよりかはありえない話なのかもしれないわね」


「…僕もなんとか少しずつ兄離れできるようにしてるからさ、義母さんもそんなに心配しないで。きっとこういうのは時間が解決してくれるよ」


「…そうね、あの子も恋の一つや二つすれば自然と兄離れするわよね」


「うん」


「あれ?お兄ちゃんとお母さんそんな廊下で何話してるの?」


噂をすればなんとやら。


浴衣姿に着替えた綾音が背後から現れた。


「た、たいした話じゃないさ。人混みには気をつけろとかそういう話」


聞かれていた、のか?


「そっか、ならいいんだ。おまたせお兄ちゃん!じゃあ行こっか」


笑みが崩さないまま僕の元まで来てそのまま手を引いていく。


「いってらっしゃい。二人とも気をつけるのよ」


「いってきます」


心配そうな義母に挨拶をしたのは僕だけだった。


玄関を抜けると綾音は僕の甚平の裾を千切れそうなくらいの力で引っ張る。


「ど、どうしたの綾音?千切れちゃうよ」


「うるさい」


刹那、誰が発したか分からなくなるほどの冷たい声。


もちろん綾音以外ありえない。


たった一言でも憤怒が伝わってくる。


「な、なんでそんなに怒っているんだい?」


「ママとお兄ちゃんが兄離れとかくだらないこと言ってたからに決まってるじゃん…っ」


やはり聞いていたのか。


「確かに最近お兄ちゃんあたしの誘いを二つ返事しなくなったなって思ってたけど裏でママとあーゆーこと話してたんだね。許せない…」


「ごめん、でも僕は綾音が心配で…」


「心配?なにが心配だっていうの!?」


「綾音はさ、よく僕と遊んでくれているけど他に遊ぶ友達がいないのかなって心配になるんだよ。多分ないとは思うけどいじめにあってないかとかそういう風にね」


「…なんだそんなこと。あたしがお兄ちゃんと遊ぶのはそれが楽しくて一番幸せだからだよ。友達だっているしいじめにもあってないよ」


「そっか」


「じゃあいいよね?」


「ん?」


「お兄ちゃんの心配してることなんかなにもないんだからこれからもお兄ちゃんと一緒にいるからね」


「いや、でも…」


「何?他にもなんか理由でもあるの?」


言われて気づく。


そこまでして綾音を兄離れさせる理由はなんだろうか。


僕はムキになっているだけなのか?


「…ない、かな」


「ならいいでしょ。お兄ちゃん今後一切そういう意味のないことはやめてよね」


その言霊には肯定しか許されないような圧があった。


「あーイライラしたぁ、今もイライラしてるけど…。イライラした分この後沢山甘えさせてもらうからね」


「あ、あぁ」


すると綾音の腕が蛇の如く僕の腕に絡みついてくる。


片腕から感じる柔らかな感覚。


ゾッとした。


今まで想像だにしなかった疑問。


いやそんなことがあるわけがない。


綾音に『そういう気』があるわけがないんだ。


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「んー!お兄ちゃんこれも美味しそうだよ!」


「綾音、たこ焼きはさっき食べたばかりじゃあないか」


夕日と夜空が絵具のように混じった空。


ここ羽紅町の最大の夏祭りがその空の下で行われている。


普段は静かなこの街も夏祭りとなるとどこから湧いてくるのか、とても多くの人々が溢れかえる。


この夏の風物詩ともいえる喧騒に身を投じている。


「えー、あんな量じゃたりないよ。あたしまだまだお腹ぺこぺこなんだから」


毎年、決まりのように綾音とこの夏祭りには訪れている。


いつもなら変わらない祭りの活気に安堵と懐かしさの入り混じった気分になるのだが左半身に感じる違和感がそれを感じることができない。


左腕に絡まる義妹の腕。


家を出た時から今まで解けた試しがない。


こんなことはいつもならしない。


「あっ、じゃがバターもある!一緒に食べようよお兄ちゃん!」


いつもと同じ無邪気さ。


普段と変わらない態度ゆえ僕の左側で起きている異常事態がより深刻に感じてしまう。


さりげなく解こうと試してこともあったが少しでもそれを察知すると途端に締め付ける。


僕が本気で解こうとするものならば綾音は僕の腕を千切れるほど締め付けるのではないかと僅かな恐怖が冷や汗を促す。


この恐怖には身に覚えがある。


海から帰りの電車の時と同じだ。


左側に引っ張られる。


思考から意識を戻すと僕の目の前にソースと鰹節の良い香りのするたこ焼きがあった。


「はい、お兄ちゃん。あーん」


条件反射気味に差し出されたたこ焼きを口に含む。


中に詰まった熱さが口内に広がる。


「どう?」


どう、と聞かれれば熱いとしか言えない。


「すごくあふい」


「あはははっ、本当に熱そうだねお兄ちゃん」


綾音は口の中で必死に冷まそうとしている僕を見て笑う。


その笑顔を見ると安心する。


…そうだ、10年も兄をやっているんだ。


妹の喜ぶ姿を見れば、僕の心はそれに応じて安心するようになっている。


少し僕は難しいことを考えすぎていたのかな。


あまり自覚をしていなかったが僕も案外重症なのかもしれない。


こんなにも妹のことについて悩んでいるのが証拠だろう。


「さっきのより熱いけどおいしいね」


今は…今だけは純粋に祭りを楽しんでもよいのではないだろうか。


「ねぇ綾音。向こうに金魚すくいあるらしいけどやるかい?」


「うんっ。どっちが多くすくえるか勝負しようよ!」


「もしかして僕が金魚すくい苦手ってこと分かっててその勝負申し込んでる?」


「えへへー、ばれた?」


「勝負してもいいけど罰ゲームだとかは無しにしてね」


「えー!それじゃあ張り合いないじゃん〜」


「張り合いも何も最初から勝負にならないよ」


「んー、じゃあ射的。あの射的で勝負しようよ」


射的か。


あまり綾音も僕もやった記憶がないな。


「分かったよ。でどういう風な勝負にするんだい?」


「んー先に景品取った方が勝ちっていうのは?」


「じゃあそれでいこうか。無駄遣いも良くないから一人三回までにしよう」


「罰ゲームはベタに負けた人は勝った人の言うことを一つ聞く、ねっ」


「待ってよ綾音。罰ゲームはさっき無しってーーー」


「それは金魚すくいの場合でしょー?だめだめ射的は罰ゲームつけるもん」


なんだか騙されたような気がする。


釈然としないまま射的の屋台に引き連れられる。


「射的二人分お願いします!」


「あいよ、一人300円ね」


お金を払い手ぬぐいを頭に巻いたおじさんから銃を受け取る。


「じゃあ勝負だよ、お兄ちゃん!」


「大丈夫かなぁ…」


この後、射的で僕と綾音が勝負することになったが結果は『綾音は実は射的も得意』という新たな事実を知ることになった。


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…不意の出来事とは、なんとも突然なんだろうか。


『その人』のことは確かにここ数ヶ月の間、思考と感情をしばしば支配していたがだからといって今この時この瞬間は頭の片隅にも置いていなかった。


彼女だ。


高嶺さんだ。


それは射的の勝負を終えた後、綾音の好奇心を針路にしながら人混みを抜けては屋台に寄り人混みを抜けては屋台に寄るを繰り返して僕の頭に休憩という文字が浮かび始めるくらい疲労が溜まってきた頃合いだった。


前方に高嶺の花が現れたのは。


彼女もまたこの祭りに合わせ、その身に浴衣を美しく纏っていた。


とはいえあまりにもの人混み故、向こうがこちらに気づいている気配はなかった。


すっかり頭の中は白紙の上『なんと声をかけるべきか』という文字列だけが書き並んでいた。


とりあえず、と唾を飲み込む。


と同時に彼女についてくるように幾人か現れる。


「待ってよ〜華〜」


小岩井 奏美さんだ。


それだけじゃない。


見覚えのあるクラスメイトたち。


その中には男子もいて…


心臓が軽く握られたような感覚が湧く。


「高嶺って歩くの早いよなぁ」


数人の男子の一人が続いて声をかける。


彼は確か桐生 大地(きりゅう だいち)。


端正な顔立ちで女子とも分け隔てもなく話す、いとも簡単に高嶺の花に触れられる人。


これが僕の彼への印象だ。


「え?そうかなぁ」


彼女は桐生君に対して笑顔で返答する。


ああやっぱりそうなのか。


時々『高嶺さんと桐生君は男女の仲なのでは』と、まことしやかに囁かれることがある。


それに対して僕はというと情けなく否定要素をかき集め平静を装うことしかできなかった。


けれども過去に聞いた高嶺さんに好きな人がいるという事実。


その対象が桐生君なのではないかと何度も考えた。


誰もがお似合いだという。


僕もそう思う。


結局のところ僕の携帯が震えなかったのもそういうことなんだと思う。


夏祭りを共に過ごす友達がいて当たり前、それどころかこれを機に好きな男子を誘うなんて十分あり得る話だ。


ああもう滅茶苦茶だ。


心が原型が分からなくなるほど金槌で叩かれたような気分になる。


「どうしたのお兄ちゃん。顔色悪いよ?」


最低で憂鬱な気分を底からすくい上げたのは妹の綾音だった。


「…あぁそうだね。ちょっとトイレに行きたくなってきたよ」


秘めた想いごと吐き出したくなる。


あぁ妹に心配されるなんて情けない。


己の女々しさを呪う。


こんなことでいちいち傷つくのであれば、さっさと玉砕してしまえばいいのに。


僕を客観的に見る僕がそう囁く。


ああわかってるさ、でも。


ここにきてようやく彼女がこちらに気づき、視線が合う。


僕と彼女の秘密の関係。


それが心の傷跡と同じ数だけ心の絆創膏を貼ってきた。


今だってそうだ。


彼女と目があった、それだけで一憂から一喜へと変わる。


僕はまだ傷をつけられることよりも絆創膏を与えてもらえないことの方に怯え、玉砕せずにいる。


しかし彼女は僕と目があったがいつものように僕にしか分からないように小さく微笑むことはなく、ほんのひと時だけ表情を固めただけだった。


「お兄ちゃんトイレ行きたかったの?早く言ってくれればよかったのに」


僕は何を期待していたのだろうか。


笑いかけてくれるとでも?


やはり一度吐き出したほうがいいのかもしれない。


そんなことを考えているとスルリと綾音の腕が解ける。


腕が軽くなると同時に少しの痺れが走る。


「じゃあここで待っていてくれないか。トイレに行ったらここに帰ってくるよ」


僕は逃げたくなってその場を後にする。


人混みをかき分ける。


意気地なし、女々しい、情けない。


走る。


自分に悪態の限りを尽くし、どこへ向かっているのかも分からずに進んで行く。


気がついたら周りには人が消えていて、随分と静かな林にたどり着いていた。


歩みを少しずつ緩めていく。


今すぐ吐き出したい、叫びたい。


こんな気分になるなら惚れるんじゃあなかった、と。


でもその言葉は喉に痞えて一向に出てきやしない。


この甘くて苦い想いはいつになったら報われるのだろうか。


しばらく天を仰いでいると少し落ち着いてきた。


確かに今まで何度か諦めようと思ったことがある。


分不相応な恋だと誰よりも自分が分かっているつもりだった。


だから意味もなく自分を卑下し他人を羨望する。


稚拙、あまりにも稚拙。


また自分を卑下する。


でもそうなぜ故未だに諦めてこの想いを放棄しないのか。


いつも、いつも諦めようと思った矢先彼女は僕に希望を見せる。


それに簡単に食いつく。


あとは繰り返すだけ。


それが分かっているのならさっさと諦めるか覚悟を決めろと人は言うだろう。


携帯が震える。


でも、ほら






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差出人 高嶺 華

件名 なし

本文 ふたりで少し話したいから羽紅神社にきてほしいな

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こうやって彼女はいつも僕を金魚のように掬い上げる。



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連絡を受けそのまま羽紅神社へと向かう。


その道中、考えるのはメールの内容にあった話したいという部分。


一体なんの話をするのだろうか。


とはいえ十中八九僕の小説の話だろうけども。


作者と読者。


僕らの関係はそんな色気のない関係。


それでも良かった。


色気がなくても僕にとっては満たされる関係だった。


ずっと続く高い階段が見えてくる。


羽紅神社の境内に入るための入り口。


あまりにも高い蹴上と段数で運動をするものであれば鍛錬によく使うが一般人にはやや敬遠される階段。


夏祭りの会場からもやや離れていることもあり人がいる気配がほとんどしない。


その月明かりだけが照らす階段が目の前にさしかかる。


この先に高嶺さんはいるのだろうか。


階段に踏み入れる。


数段登っただけで肩が上下するほど険しい。


階段はまだまだ続く。


人生は山あり谷ありと誰かが言った。


人生、なんて長く大きなものではなくてもこの恋も山もあったし谷もあった。


この階段を上った先ははたして山なのか谷なのか。


心臓の鼓動が速くなる。


疲労を感じて足を止める。


振り返ると暗いこの辺りから離れた場所のぼんやりと光る賑わいがよく見えた。


「…そういえば綾音を待たせっ放しだ」


でも年に一度とても賑わう祭りだ。


人混みを理由すれば許してくれるだろう。


石段登りを再開する。


それは高く高く、鈍い疲労が足へと溜まっていく。


なぜ高嶺さんはこんな場所を指定したんだろうか。


そんな疑問が段数を重ねるごとに強くなる。


ようやく終わりが見えてくる。


一歩、一歩交互に足を繰り出し最後の力を振り絞る。


最後の一歩を踏み出した時にはもう僕は疲労困憊だった。


そんな僕を労うかのように彼女そこにいた。


いや正確には彼女と思わしき人物だ。


陽が沈んだのはとうの昔で、辺りを覆う暗闇は数歩先の人物の顔を把握するを困難としていた。


「高嶺さん…?」


本人かどうかの確認のため声をかける。


すると人影は驚いたような仕草をする。


人間違えか?という考えが浮かび始めると同時に返答が得られた。


「し、不知火くん」


今まで聞いたことのないような声色で彼女が今どんな表情をしているのか判断するのは容易ではなかった。


「ご、ごめんね、こんなところに呼び出して。疲れたよ…ね?」


言われてから自分の息が上がっていることに気がつく。


「あ、あぁこれは僕が普段運動しないからね」


「あのね、不知火くん…えっとこんなところに呼び出してごめんね。疲れたよね」


さっきも同じこと言ってなかったか?


自分が聞き間違えたんじゃないかと思ってしまうくらい自然に彼女は二度同じことを言った。


「いや、うん。それは大丈夫だよ」


「えっと、なんだろうな。その…えっと、なんて言ったらいいのかな…」


支離滅裂に、滅茶苦茶に喋る彼女。


こんな高嶺さんは見たことがない。


「あはは、ごめんね。なんか頭の中ぐちゃぐちゃで。なんて言えばいいのかわからないの。ううん聞きたいことはあるの」


「高嶺さん落ち着いて。何言ってるのか分からないよ」


「いや、わかってよ」


今度は高圧的な台詞。


今夜の高嶺さんはおかしい。


「あーいやちがうの。こんなことを言いに来たんじゃないの。…ごめんね。自分でもこんな感情になるなんて思ってもみなかったの」


「…なにか嫌なことでもあったのかい」


「嫌…そうだね。それまで嫌なんて思うとは思わなかったけどいざ目の当たりにしたら嫌だったなぁ」


相変わらず何を言っているのか分からないが先ほどよりかは落ち着いたように見える。


「それで、その嫌なことと僕に聞きたいことは関係ありそうな感じかい?」


「…。いやそれは関係なんだけれど、そういえば不知火くんさっき可愛い女の子と腕組んで歩いていたよね。…誰?」


唐突に話題が変わる。


「そんなことって…。いいのかい?なにかあるなら相談乗るけど…」


「いいのいいの嫌なことあったけど大した問題じゃなかったら。それより誰なのあの女の子。気になるなぁ」


「気になるもなにも彼女の名前は不知火 綾音。つまり僕の妹さ」


「いも…うと?」


「随分前に僕に妹がいるって話はしたと思うんだけれどもね。あれがそうだよ」


まぁ確かに大した話でもないし高嶺さんの記憶に残っているかは定かではないが。


「なんだ妹さんなんだ…あはは、全然似てないからびっくりしちゃった。随分可愛らしい子だったから」


『随分可愛らしい子と全然似てない』というのがまるで遠回しに僕の容姿が褒められるものではないと聞こえてしまう。


悲観的にそう捉えてしまうのは想い人に言われたから。


恋というはどうも僕の場合だと思考を正負二極化し、その上で片一方にぶれてゆく。


厭世的になったり、楽天的になったり。


厭世の方にどちらかといえば思考が寄りがちだがそれは生まれ持った気質ゆえのものだろう。


「よく言われるよ。綾音と僕は血が繋がってないんだ。所謂義理の兄妹っていうやつだよ」


「義理?え、義理?」


「そうだね。生まれて来た父親と母親はそれぞれ違うから全く血の繋がってない兄妹になるよ」


「はは…話がちがうなぁ…。あれが義理だったら意味が変わってくるじゃない」


再び高嶺さんは意味不明なことを口にする。


その様子は暗闇で伺えない。


彼女が今どんな表情をしているのか。


それが知りたい。


僕の背後から打ち上げ花火の笛の音が鳴る。


そしてその想いに呼応するかのように火薬は花ひらく。


閃光が走り、暗闇を取り払う。


それまで伺うことのできなかった彼女の表情が浮かび上がる。


「…?」


確かに彼女の表情は見えた。


がしかし、その表情がどんな感情を表しているのか。


それは判断しかねるものであり、表情を見てから時間が経つにつれその顔にノイズが走ってゆく。


花火の鈍音が閃光に遅れて聞こえてくる頃には半分分からなくなっていた。


「花火…そうかもうそんな時間なのか」


「…。」


返答は得られない。


「不知火くん、その妹さんと兄妹になったのっていつから?」


代わりに疑問が一つ飛んできた。


「…兄妹になったのは綾音が物心つき始めただからもう十年かな」


「十年…か。それならまぁでもそのくらい前なら…」


独り言のように呟きはじめた。


「…そういえばさ、話があるって言ってたけけれども」


「…え?話?…ああそっか話ね。ううん全然大した話があるとかそういうのじゃないの。ただ元気かなーとか、夏休みの宿題終わったかなーとか」


「なんだそういうことかい。僕は元気だし、夏休みの宿題の宿題はまだ終わってはいないけれども終わりが見えてはきたよ」


「終わりが見えてきたって一番油断しやすい時期なんじゃない?見えてきたからって結局最終日に後回ししちゃダメだよ?」


図星だ。


終わりが見えてきたのであと最終日にまとめてやればよいと考えていたのは確かだ。


「はは、まさかそんなことするわけがないじゃあないか」


「うそ。図星なんでしょ。不知火くん分かりやすいからなぁ」


「…そんなにわかりやすかったかい?」


「ふふ、うん。明らか動揺している感じだったもん」


見透かされたからか随分と恥ずかしい気持ちになる。


と同時に彼女がいつもの様子に殆ど近づいていることに気がつき安堵する。


「もう、夏も終わりだね」


「夏はまだ少し続くよ。夏休みが終わるんだよ」


僕の印象として文月の訪れが夏の終焉であり秋の始まりという印象だった。


しかし言われてみれば文月に入ったからといってすぐ気温が下がるわけでもないし、蝉の音が止むわけではないし、木々の葉が紅く染まるわけではない。


「…そして学校が始まるの」


彼女はまた口を開く。


「二学期からもよろしくね不知火くん」


そうだ、また始まるんだ。


いつもの日常が。


たまに混じる非日常が。


あの秘密の放課後が。


「あぁこちらこそよろしくね」


空にまた花ひらく。


「…ねぇ不知火くんもしーーーー」


ドン。


遅れて轟いた音は高嶺さんの台詞を攫っていった。


「ごめん高嶺さん。花火の音でなんて言ったか分からなかったよ」


「…あー、なら聞かなかったことにしてくれないかな?」


「えぇぇ、気になるじゃあないか」


「だーめ。教えてあーげない」


可愛らしく、愛らしく言う。


惚れた弱みというのは恐ろしいものだ。


「分かったよ、深入りはしないさ。それよりそろそろ戻ってもいいかな?随分と妹を待たせているんだ。高嶺さんも小岩井さんや桐生君達を待たせているんだろう?」


「…あー、うん。そうだね。じゃあ一緒に行こっか」


羽紅神社の入り口は先程登った階段一つ。


ならば出口もそれしかない。


同じく出口へ向かうなら一緒に階段を下るのも当然で、だけれどもそのことなんてちっとも考えてなかったのでこの誘いは少し拍子抜けだった。


「あ、あぁ」


輪郭しか分からなかった影が近づいてくる。


それが人間大になるとようやく彼女が様相

が分かるようになった。


まるでテレビから芸能人が出てきたかのような気分。


高揚する。


浴衣を着つけ後ろ髪を上げてうなじを露わにしているその姿は、いつもよりも強く色香を印象する。


二人の歩調が合ったりちぐはぐになったりしながら階段に踏み入れる。


「ここの階段、蹴上が随分と高いから気をつけてね高嶺さん」


「ん、気を使ってくれてるの?ありがとう不知火くん」


微笑む。


それが嬉しくて、でもそっぽを向いてしまう。


この想いが悟られないように。


「そういえば今『蹴上』って言ったよね?多分階段の高さのことだろうけどそんな言葉初めて知ったよ」


「珍しい言葉だったかな。本当に余計な言葉だけはよく覚えてしまうんだ、本の虫だとね」


「でもそれって素敵なことだよ」


ますます気分が良くなる。


「お世辞でも嬉しくなってしまうな」


「お世辞じゃないよ」


はっきりと強く言われる。


「私不知火くんにお世辞なんて一回も言ったことないよ。小説だってそう。…不知火くんはちょっと自分を過小評価しすぎだと思うの」


「それはどうも生まれ持った性分だからね…」


この恋も自分で燃やしておいて『叶わない』と水を用意している。


「みんなも不知火くんの小説読めばきっとすごいって言うと思うよ。うんそうだよ、やっぱりみんなに呼んでもらおうよ」


「それは勘弁願いたいかもしれない。高嶺さんしか見せたことないし…」


「えええ!そうなの?」


「あれ?意外だったかい?前にも言ったような気がするけれども」


「んー言われたような言われてないようなぁ…。じゃあ不知火くんの小説は私しか読んだことないってことだよね」


「そういうことになるね」


「なんだぁ、そっか。…ならいいや」


「なにがだい?」


「ううんこっちの話。これも忘れて」


「高嶺さん忘れてほしいことばかりじゃあないかい?」


「乙女には秘密は必要なものなのよ?」


「僕のほうはどうやら筒抜けみたいだけどね」


「あぁ、さっきの夏休みの宿題のこと指してる?さっきも言ったけど不知火くん少し分かりやすいのよ」


「弱ったなぁ。そんなに分かりやすい人間だとは自分では思わなんだ」


「分かりやすいってことはその分、不知火くんのことよく知れるってことなんだよ?その分仲良くなれるってこと」


「そんなに親しみのある奴ではないと思うんだけどなぁ」


「だぁかぁらぁ、不知火くん過小評価しすぎよ。そういうところが不知火くんの良くないところね。直したほうがいいと思うよ」


「ははは…、善処するよ」


「でも今日も話せてよかったな。不知火くんのこと分かったし」


「筒抜けだもんね」


「そう。過小評価なところとか、同世代の男子は君付けとか」


桐生くんを口にしたことを思い出す。


「あとは………きゃっ!」


突然、彼女は石段から足を踏み外す。


咄嗟の出来事に僕も反応する。


結果、高嶺さんは階段を転げ落ちることはなかったが僕が彼女を抱きかかえるような体勢になった。


女性特有の体が手や腕から伝い、鼻からは官能的な香りが脳を刺激する。


こんな時に何を僕は考えているんだ…。


「だ、大丈夫かい。高嶺さんっ…」


能天気なことも考えていれたのは一瞬。


慣れない力仕事に彼女を支えていられる限界が近づくのはあっという間だった。


「ご、ごめんね不知火くん」


彼女も落ち着いた足場が取れたのか自力で体制を戻し始めた。


「怪我がなければそれでいいんだけれども」


「…うん怪我はないよ。でもまた一つ不知火くんのこと知れちゃった。いざっていう時の男らしさとか、ね」


「冗談もほどほどにね。今大怪我しかけたんだから…」


「はーい」


その後は無言で二人で階段を降りきる。


「じゃあここら辺で別れよっか」


「あぁそうだね」


「不知火くん」


「?」


「またね」


「うん、また」


名残惜しいがここでお別れだ。


だけれどもまた会える。


僕と彼女の秘密のあの放課後で。


夏休みはもう、終わる。

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