第5話 『ワスレナグサ』
高校2年 8月
『夏休み』
それは年に一度訪れる長期休暇であり、学生を名乗るものであれば誰でも謳歌する。
僕とて例外ではない。
授業がないという日々は僕にたくさんの読書と執筆と、それと少しばかりの綾音の付き添いという時間をもたらしてくれる。
ここ数日は地域の図書館に通い、気になった本を片っ端から借りて読んでいる。
そして感性が刺激されるたび僕の執筆欲が高まり、欲求を満たすように書きなぐる。
そんな日々を繰り返していた。
そんな日々を繰り返していたからか、僕にとって『海』というのは少々退屈なものだった。
妹の綾音とその友人たちの付き添いという形で僕は今、海にいる。
「久美ちゃんたちと海に行くことになったの。お兄ちゃんも行こうよ」
今日という日の始まりはその一言だった。
「誘ってくれたのは嬉しいけど、綾音が友達と海に行くのに僕が付いて行くのもおかしくない?」
「そんなことないよ。久美ちゃんだって弟連れてくるって言ってるし。ね、いこうよ」
いくつか断る文句でも考えたが、結局のところ妹に甘い僕は兄離れさせる気もなく承諾してしまった
その件もあり海に行くことになったが潮風で本を痛ませたくなかった僕は本を持ってきていなかった。
故に退屈さというものが増していた。
「はぁ」
一粒のため息をつくと、人影が僕を覆っているのに気づいた。
「えい」
棒のようなもので殴られ、犯人を尊顔するために振り向く。
「そんな危ないものを人に振り下ろしちゃダメだよ、綾音」
僕のそんな注意も聞いているのか聞いていないのか、
「お兄ちゃんもやろうよ、スイカ割り。きっと楽しいよ?」
気にもせず、僕をスイカ割りに誘ってきた。
「久美ちゃん達はどうしたの?」
「お兄ちゃんを誘ってくるって言って待っててもらってる」
「僕は遠慮するから綾音たちで楽しんできなよ」
「遠慮って、お兄ちゃんさっきも泳ごうってあたしが誘った時に遠慮してたじゃない。いいからスイカ割りやろうよ」
「僕はここで静かに海を眺めるだけで十分楽しんでるよ」
「さっきまで死んだ魚のような顔してた人がそんなこと言ったって説得力ないよ?」
死んだ魚って…そこまで僕は退屈にしていたように見られていたのだろうか。
「ほんっとお兄ちゃんは本の虫なんだから…ほらほら、ここで腐っててもしょうがないから行こう!久美ちゃんたちも待ってるよ」
一体この強引さは誰の遺伝なんだろうか。
そんなことはさっぱりもわからないまま義妹に引きつられた。
しばらくずるずると引きずるように連れられると見知った顔の3人がそこにいた。
「みんなお待たせー。お兄ちゃん連れてきたよ」
「待ってたよん、あやねん。とは言っても弟君がいるから私は大して気にして無いけどねん」
「はなせよ、姉貴!うっとうしい!」
「この2人と待たされた私の気持ちも考えてほしいものだな」
綾音の友人、瀬戸 真理亜(せと まりあ)と鈴木 久美(すずき くみ)、そしてその弟の鈴木 晴太(すずき はれた)の3人がそこに待っていた。
瀬戸 真理亜はれっきとした女の子であるが今日初めて会った時、男子と間違えた。
非常に中性的な見た目な上、中性的な声、装いをしていたため勘違いをしてしまった。
申し訳ない勘違いをしたと謝ったが当の本人は「気にしていない。むしろそう思われるようにしているから平気だ」と告げてきた。
余計な詮索は控えたが、本人がそう言うならつまりそういうことだろう。
鈴木 久美は綾音から何度も話に出てくる友人で、かなり親しい友人だと見受けられる。
実際、校舎でも何度か綾音と一緒にすれ違ったことがある。
自他共に認めるブラザーコンプレックスの持ち主で弟の鈴木 晴太に目がないという。
それは今日、ほんの少し関わっただけでもひしひしと伝わってくるものだった。
そしてその重い愛情を受け止めているのが鈴木 晴太。
中学三年生でちょうど思春期やら反抗期やら差し掛かる時期の男の子だ。
それ故、姉の重い愛情に強めに反発しがちのようだ。
「あははーごめんねー、お兄ちゃんがいやだーって駄々こねるからさぁ〜」
「綾音。僕は嫌だなんて言ってないし、駄々もこねてないよ」
「うっそだぁ。少なくともあたしには駄々こねてるようにしか見えなかったよ」
「いやそれは…」
心情を簡単に読み解かれたことが少々腹に立ったので僕も躍起になって反抗しようとする。
「あー、兄妹喧嘩は後にしてスイカ割り。始めないか?」
僕の反撃を中断したのは瀬戸 真理亜だった。
「そうそうあやねん、わたし早くスイカ食べたいよん」
鈴木 久美も賛同する。
僕はその様子を見て、出し掛けた刀を鞘に納めるように舌の根に乗った反論を飲み込んだ。
「そうだね、皆んな待たせてごめん。スイカ割り始めようか」
「よしじゃあスイカ用意しなきゃね。久美ちゃん、真理亜。ちょっとこっちきて手伝ってほしいことがあるの」
「分かった」
「おっけーん」
綾音が2人に手伝いの要請をし、女子高生3人はせっせとスイカ割りの準備を始めた。
そして僕と晴太くんの2人がその場に残る形となる。
妹の友達の弟、もしくは姉の友達の兄。
そんなほとんど他人同然の関係の僕らに沈黙の空間が流れる。
本来なら年上の僕が気を利かせるべきなのだろうがあいにくそのような気の利いたことができるのであれば、もう少し友人が多い人生だろう。
気不味い時間が流れる。
しかし永遠に続くかと思われた沈黙は年下の彼が破った。
「センパイって大人っすね」
「ん?」
いきなりそんな一言で沈黙が破られると思ってなかったのと、なぜそんなことを言ってきたのかがわからなく思わず聞き返してしまった。
「いや、さっき口論になりかけた時に真理亜さんが静止したじゃないっすか。その時にセンパイは嫌な顔せずになんだか落ち着いた表情で自分に気持ち抑えたの見てなんとなくそう思ったんす」
「僕が大人だって?いやいや、全然そんなことないよ。僕だって大人になりたくて必死にもがいてるただの学生さ」
「でも俺から見たら大人っすよ」
晴太くんは少し恥ずかしそうに頬をかく。
「俺、センパイみたいに大人っぽくなりたいんす。だから、その…さっきの態度見て見習いたいなって素直にそう思いました」
それは単純に口論しても無駄だということを10年間の経験からおおよそ分かってたからという理由なのだが、訂正するほどのことでもないので僕も野暮なことは言わない。
「お兄ちゃんー、晴太くんー準備できたよ〜」
準備を終えたらしい綾音たちは余った男2人を呼んだ。
「さ、呼ばれたことだし行こうか」
「そうっすね」
ーーーーーーーーー
ーーーーーーー
ーーーーー
ーーー
ー
帰りの電車。
水平線の彼方から差し込む茜色の光が車内を強く照らし、大きな影を作る。
あれから存分に遊んだ僕らは皆疲れ切って僕を除く4人がすっかりと寝入っていた。
寝過ごすわけにもいかないので、僕もうつらうつらとしながらもなんとか睡魔に抵抗をしていた。
とはいえ、人間の三大欲求の一つに抗うのは容易ではなく意識を手放そうとする。
その時だった、僕の携帯が震えたのは。
あまりメールなどもしないので携帯が振動することに慣れていない僕は冷水を浴びたように目が覚めた。
予感が走る。
送られてきたメールの主は、高嶺 華。
まさか。
本当に夏休みに連絡してくるなんて思っても見なかったので、予想外の出来事に胸が高鳴る。
しかし肝心のメールの内容が不可解なものだった。
というより無かった。
つまり白紙の文章を送りつけられたわけだ。
誤送信と思った僕は第二通を待つことにした。
そしてそれは5分ほど間が空いた後に送られてきた。
ただし白紙で。
これで白紙の文章を送ってきたのは2度目となる。
二度あることは三度ある。
それから間も無く三通目の白紙のメールが送られてくる。
ただでさえ眠いというのに不可解なメッセージにより思考が停止する。
三通のメールを見返す。
だがどれも白紙で件名すら、無い。
これ以上考えても仕方がないので『どうしたの?』と返信し、素直に答えを聞くことにした。
返信が来る。
ーーーーーーーーーー
差出人 高嶺 華
件名 なし
本文
明日、羽紅図書館に12時に来てください。
ーーーーーーーーーー
眠気が吹き飛んだ。
想い人に誘いの連絡が来たのだ。
意識が覚醒せずにはいられなかった。
「でもじゃあーーー」
最初の三通の白紙のメールはなんだったのだろうか。
歯と歯の間に食べ物が詰まったようなあのきになる感覚。
明日にでも聞いてみようか。
「ん…」
隣で寝ていた綾音が目を覚ます。
「あと…何駅?お兄ちゃん…」
起きたとはいえまだ眠いのか、瞼は半分すらも開いていない。
「あと3駅で羽紅駅だよ。まだ大丈夫だけど、もう少ししたらみんなを起こさなきゃね」
「…そっか」
綾音はわずかに開いていた瞼を下ろし、僕の肩へと寄りかかって腕を絡める。
すぐ隣の髪から漂う微かな潮の匂いが今日の思い出を再度胸に焼き付ける。
「…ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
「…楽しかった?」
「もちろん楽しかったさ」
「…よかった。好きな読書がさせてあげれなくて申し訳ないって思ってたから」
「そんなこと…気にしなくてもいいのに」
「私はね、すっごく楽しかった。またお兄ちゃんと海に行きたい」
「…」
綾音のブラザーコンプレックスを改善したいと思っている手前、僕はそれを簡単には同意できず、ただ黙っていることしかできなかった。
「…ねぇ、お兄ちゃん」
「ん?」
「ずっと。ずぅっと一緒に、いよう…ね」
そのセリフを最後に綾音は完全に魂が抜けたように眠ったのを、肩にのしかかる重さの変化で感じた。
ひとつため息をこぼす。
「…参ったな」
今まで当たり前だったそれはひどく歪で、意識しなければ歪とも気がつかなかったくせにもしかしたら取り返しのつかないところまで歪んでいるのかもしれない。
いざとなった時、僕は綾音を突き放すような真似ができるのだろうか。
否、このままではできないだろう。
結局のところ僕は綾音に寄りかかられていることに愉悦を感じているのかもしれない。
だからこそこんなにも困り、悩んでいるのだろう。
本当に綾音を思うのであれば、僕が多少の嫌な思いをするのは避けられないのだろう。
覚悟をせねば。
僕は昨日までの自分と決別する手始めに、右腕に絡まった綾音の腕を解こうとする。
「…あれ?」
解けない。
腕を引き抜こうとしても絡まった腕をどかそうとしてもそれは強く反発し、むしろより固く絡みつく。
「…綾音、起きてるの?」
…返事はない。
一筋の汗が頬を伝う。
本能で感じる恐怖がそこにある。
二本の腕からつたわる意志。
まるで僕による兄離れを全力で拒否することを表しているその様。
「…まさか、ね」
逃がさない。
そう綾音に言われているような気がしてならなかった。
ーーーーーーーーー
ーーーーーーー
ーーーーー
ーーー
ー
海に行った翌日、いつも通り僕は羽紅図書館へ向かった。
ただしいつもと違うのはそこに待ち人がいるということ。
指定された時間より三十分早く着いたのだがその人はもうすでにそこで待っていた。
麦わら帽子に白いワンピースを着飾った彼女はそれだけで周りの目をひいていた。
「もう来てたんだ高嶺さん。おはよう」
「…」
彼女は無言で僕を見る。
というより睨んでいる。
「ど、どうしたの?」
「…不知火くんはさぁ、私と夏休み前になんて約束したんだっけ?」
「えっ、と僕の小説を読ませる約束をしました」
彼女の剣幕に思わず丁寧語になる。
「ずっと連絡待ってたんだけど?」
「い、いやほとんど毎日図書館に通って本読んだり書いてたりしてたから忙しくて」
「その割には顔赤いね?日焼けでしょ。海にでも行ったんだ」
「それは昨日たまたま妹に誘われて…」
「不知火くんは私から連絡しなければ約束忘れようとしてたでしょ」
「まさか、そんなつもりはないよ!」
「私ずっと待ってたのにな…」
「それは…ごめん高嶺さん。どうすれば許してくれるんだい?」
すると彼女は人差し指を僕の目の前で立てる。
「紅茶一杯奢ること。そして約束を守ること。これで許してあげる」
「分かったよ。でも、僕あまり気の利いた紅茶が出せるところ知らなくて。高嶺さん知ってる?」
僕が提示された条件を飲んだこと確認すると彼女はこの日初めて柔らかい表情を浮かべた。
「うん知ってるよ。不知火くんの知らない店」
「もしかして駄洒落かい?」
「面白いでしょ?」
「はは、それはどうかな…。とりあえずそこに行こうか」
「そうだね。じゃあ着いてきて」
高嶺さんが僕を先導する。
しばらく無言で歩いていたが、その静寂は彼女の方から終わらせてきた。
「…まったく、本当に待ってたんだよ?」
「それは申し訳なかったよ」
「なのにちゃっかり海で遊んでるんだ、か、ら」
そう言って彼女は三度、僕の頬に指を指す。
ピリッとした痛みが三度、走る。
「いたっ、痛いってば高嶺さん」
「お仕置きよ。私との約束をほったらかして海になんて遊びに行くから」
「面目無い。色んなことに夢中になっちゃって…いや、これはみっともない言い訳だね。僕さあんまり友達いないから誘い下手というか、そのどうやって高嶺さんを誘ったらいいのか分からなかったんだよ」
好きな子の前なら格好悪いところを見せたくない。
これは一般男児であれば皆思うところだろう。
僕だってそうだ。
でも今は誘い下手や友人が少ないという格好悪い所を素直に認めてでも嘘をつきたくないという気持ちが優ってしまった。
「…じゃあまずは私を誘うことに慣れてもらわなくちゃ」
「へ?」
「…あっ、ここだよ」
自分でも恥ずかしいことを言った自覚があるのか彼女は軽く赤面しながら、自分らの目的地であろう喫茶店『歩絵夢(ぽえむ)』を指差す。
そんな姿も絵になる。
改めて目の前の人の美しさを実感させられる。
彼女が店に入るのを見て、惚けていた自分にやっと気付き慌てて背中を追う。
中に入るとそこは珈琲と煙草の匂いが混ざり、独特の香ばしさが漂う空間だった。
店内にはジャズが流れ、マスターは来店した僕らに目もくれず珈琲を入れていた。
「あっ、ここの2人席が空いてるよ。ここにしよっか不知火くん」
高嶺さんのこの様子を見るとどうやらファミレスのように席案内するわけではないようだ。
「ここにこんな喫茶店があったなんて知らなかったな」
「結構路地に入り組んだ所だからねぇ。私も友達に教えてもらったんだぁ、どう?」
「独特の匂いがするけど、うんそうだね。でも落ち着くよ。いい所だね」
「でしょー?不知火くんならきっとそう言ってくれると思ったぁ」
先ほどまでの拗ねた表情はなく、その満面な笑顔に僕の気持ちまで穏やかになる。
「私は頼むもの決まってるけど、不知火くんメニュー分かんないでしょ?はいどうぞ」
そう言うと比較的小さくかつ手作りのメニューが手渡される。
「不知火くんは何飲むの?」
「珈琲を飲もうと思ったんだけど、なんか思ってたメニューの内容と違って戸惑っている」
てっきりホットコーヒーやらアイスコーヒーなんて書いてあるメニューを想像してたのに、そこに記されてたのはキリマンジャロだとか、マンデリンだとか珈琲豆の種類が記載されていた。
「あーわかるかも。いきなりコーヒー豆の種類見せられてもどれがいいかなんてわからないよねぇ」
「生まれてこの方、珈琲豆の種類なんて気にしたことなかったな」
「あら、華ちゃんじゃない。いらっしゃい」
「あっ、陽子さん!」
突然高嶺さんに声をかけたのは、どうやらこの店の店員のようだった。
「お洒落な麦わら帽してたから最初誰だか分からなかったけど華ちゃんだったのね。可愛いわね、似合っているわ」
「そ、そうですかね」
えへへ、と頬を紅潮させ嬉しそうに笑う。
その様子を母性溢れた眼差しで見ていた女性店員は僕に気づくと、こちらも優しい眼差しでこちらを見つめてきた。
「それで、きみは?華ちゃんのお友達?」
「あっ、はい。高嶺さんと同じクラスの不知火 遍といいます」
「そう遍くんね。なかなか珍しい名前をしてるわね。私は八千代 陽子(やちよ ようこ)よ。私の名前『よ』が続くからフルネームじゃ言いづらいでしょ、ふふ。気安く下の名前で呼んで大丈夫だから。っとそうだ、二人とも注文は決まってる?」
「私はアイスミルクティーだけど、不知火くんは?」
「えっと僕、あまり珈琲豆に詳しくないのですがお勧めってありますか?」
「そうねぇ、珈琲って色々個性があって人によって合う合わないがあるんだけど…、これなんかどうかしら。比較的飲みやすいものだと思うのだけれど」
「じゃあこれのホットで」
「『グァテマラ』のホットね。以上かしら?」
「「はい」」
「分かったわ。じゃあゆっくりしていってね」
陽子さんはそう言うと厨房へと向かって言った。
「不知火くん、コーヒー好きなの?」
「ん?そうだね、好きだよ。飲むと落ち着く」
「へぇ〜大人だなぁ」
「高嶺さんは珈琲嫌いなの?」
「うん、苦くて飲めないや。だから私は甘くて美味しい紅茶がいいなぁ」
「だからアイスミルクティーね。そうだ、僕の小説だったね。いま書いてる短編小説はまだ書き終わってないから僕が以前書いた作品を持ってきたんだけどどうかな?」
「え?前に書いたやつ?うん読みたい読みたい!」
「高嶺さん、恋愛小説好きそうだったから過去に書いたやつでそれに絞って持ってきたんだ」
僕は手持ちの紙袋からいくつかノートを取り出す。
「ただまぁ、あまり期待しないでほしいかな。結構今より未熟な頃に書いた作品も多いからさ」
「未熟な頃の不知火くんの文章も見てみたいなぁ。成長過程っていうか、どんな風に作風が変わっていくのかその様子も知りたい」
全くこの人は相変わらずこっちが恥ずかしくなることを言ってくる。
「あれ?もしかして不知火くん照れてる?」
悪戯な笑みを浮かべこちらを見てくる。
「そりゃあそんなこと言われたら照れるさ」
調子が狂う。
やっぱり苦手だ。
「じゃあはいこれ。たぶん今日持ってきたやつの中では一番古い作品だと思う」
「ありがとー。そういえばふと思ったんだけど不知火くんっていつから小説書いてるの?」
「んー、小さい頃から軽く書いてたこともあるからはっきりとした時期は分からないけど多分中学2年生の時からかな」
「じゃあもう3年くらい書いてるのかぁ、すごいね。なんだか不知火くんの初作品読んでみたくなっちゃった」
「それこそ一番見られたくないやつだから是非とも遠慮させていただきたいな…」
「お待たせしました。グァテマラのホットとアイスミルクティーよ」
僕らの頼んだ品を陽子さんが運んできてくれた。
「わぁありがと陽子さん。私喉乾いちゃってて、外も暑いし」
「確かにこの頃は一段と暑いわね。遍くんはホットコーヒーで良かったの?」
「え?あ、はい。お店の中冷房効いてるし、僕としてはこっちの方が好みです」
「そう、なら良かった。コーヒーはお代わり無料だからいつでも言ってね」
「え〜、コーヒーだけずるーい。ミルクティーもお代わり無料にしてよ」
やや拗ねたような表情をする高嶺さんをよそに運ばれてきた珈琲に一口つける。
ーーーーーー美味しい。
家で飲むインスタントものとは大違いだ。
いや比べること自体が間違ってると思うほどにそれだけ香りや味わいが良いものだった。
「あれ?不知火くんお砂糖もミルクも何も入れないの?」
「うんまぁ、普段からあまり入れないかなぁ」
「え〜、苦くて私なら絶対飲めないなぁ」
「まぁ華ちゃん、ミルクティーお代わり無料してーって駄々こねるほどお子様だもんね」
「そ、そんな言い方してないよ陽子さん!」
「ははは」
随分と脚色された陽子さんの物真似が面白く、僕もつい笑ってしまった。
僕は二口目を口につける。
「ところでさぁ、…二人は交際しているのかしら?」
「え!?」
「っ!?」
二口目を嚥下しかけたところでこのとんでもない質問をしてきたものだから珈琲が気道に入りむせてしまった。
「げほっ、げほっ」
「だ、大丈夫?不知火くん」
大丈夫じゃあない。
ものすごく痛い。
「もー、陽子さんが変なこと言うから不知火くんむせちゃったじゃない」
「あれ?じゃあお付き合いしてないんだ」
「そうだよ!不知火くんは小説家目指してて私がお願いして作った小説読ませてもらってるの!」
「あら小説?ほんとだ。遍くん、結構面白い趣味を持っているわね」
「けほっ、ありがとうごさまいます」
「不知火くん大丈夫?」
「ちょっと…喉が痛いかも」
「待っててね、今お水持ってくるわ」
陽子さんが一旦この場を後にする。
「ご、ごめんねー不知火くん。もー陽子さん変なこと言うから困っちゃうよねー」
彼女は恥ずかそうに笑う。
「はは、っそうだね」
まったくなんて爆弾を落としてくれたんだ陽子さん。
むせた痛みとこのいたたまれない空気という二重苦。
「お待たせ遍くん。はいお水」
「ありがとうございます」
受け取った冷水を嚥下する。
「どう?」
「すこしマシになりました。ありがとうございます」
「いやいや、変なこと聞いちゃった私が悪いのよ。あっ、それと…」
すると陽子さんはそっと僕の耳元まで口を寄せた。
「…私は応援してるからね」
「へ?」
「ではごゆっくり〜」
「あっ、陽子さん!不知火くんに何言ったの〜?」
高嶺さんの静止もきかず陽子さんは去っていった。
あの人、最後の最後まで爆弾を落としていくな。
応援してるとはつまり僕の気持ちに気付いているわけで…
僕が分かり易すぎるのか、それとも彼女が鋭いのか。
できれば後者であることを願う。
ふと気がつくと目の前の可憐な少女はややむくれた表情でこちらを見ていた。
「な、なんだい?」
「むーなんて言ったか気になる。教えてよ不知火くん」
教えられるわけがない。
「ごめん、黙秘ってことでいいかな?」
「えー気になる!いいじゃん教えてよー」
「いや、大したことじゃあないんだ。うん」
「じゃあ教えてよーねぇいいじゃんー」
その後ーーー
あの手この手と陽子さんの耳打ちを聞き出そうとする高嶺さんをかわし続け、興味の的を僕の小説へと無理矢理変えることができたのは一杯目の珈琲が冷めた頃だった。
ーーーーーーーーー
ーーーーーーー
ーーーーー
ーーー
ー
高嶺さんに僕の小説を読んでもらっている間、昨日海に行って書けなかったこともあり半ば筆先で紙に暴力を振るうように小説を書き殴っていた。
それが一旦落ち着いたので一息いれる。
「ふぅ」
「すごい集中力。すっかりコーヒー冷めてるわね、お代わりいるかしら?」
丁度陽子さんが僕の一息を見たのか、そんな気を遣ってきた。
「いただきます」
カップに残った冷えた珈琲を一気に飲み干す。
そして陽子さんは空いたカップを慣れた手つきで受け取る。
「それで、華ちゃんもよく読むわね」
「んぁ?あぁ、うん。だって不知火くんの小説すごく面白いんだよ。普段本読まない私もすごく引き込まれる」
「だってさ、少年」
陽子さんはそう言って僕の背中叩く。
「あはは…」
そんな返事に困るようなことされても空笑いしかできない。
「今、お代わり持ってくるから待ってて」
厨房へ行く陽子さんを目で追っていた高嶺さんは不意に僕の方へと視線を戻す。
視線が合ったに羞恥を感じた僕は、ひねり出すように話題を出す。
「小説どうだった?」
「ん?さっき言った通りだよ。すごく面白かったよ」
想い人に言われたからとか関係なく、単純に物語を賞賛してくれることに喜びを感じざるを得ない。
「でも…」
「?」
「なんだろ、夏休み前に見せてくれたあの物語と比べると何かが足りない気がする…」
「何か…」
それはきっと高嶺さんが僕に与えてくれたものだ。
でもそんなことは言えない。
言えるはずが、ない。
僕は結局、彼女を高嶺の花と遠ざけて眺めるだけの臆病者。
「ふふ、まぁ素人読者の感想だからあんまり気にしないでね?」
「いや、そういうなんとなくの感想を聞けるだけでも嬉しいよ」
カチャ、と目の前に珈琲が置かれる。
「はい、どうぞ。コーヒーのお代わり」
「ありがとうございます」
少し忙しくなってきたのか、今回は陽子さんは立ち話せずすぐにその場を後にした。
ひとくち口につける。
「ねぇ不知火くん」
「なんだい?」
「コーヒーおいしい?」
「美味しいよ」
「じゃあ…ひとくち飲もうかな…」
「え?」
僕を見つめる瞳。
要は僕のこの珈琲を一口分けて欲しいという意。
「だめ?」
「だめっていうか、別に構わないけど…。少し砂糖とミルク、入れようか」
珈琲に角砂糖一つとミルクを少々入れる。
それを攪拌(かくはん)し、受け皿ごとカップをまっすぐ差し出す。
「ありがとう、不知火くん」
彼女はカップを受け取るとそれをわざわざ半回転し飲む。
僕が口をつけたカップをまっすぐ差し出しそれを半回転して口をつけたらそれは…
「あっ…」
そんなことは気にする様子なく彼女は一口珈琲を口に含む。
「うぇ〜、やっぱり苦い」
苦味に耐えられないのか両目をつむって舌先を出す。
間接キス。
その事実が先程珈琲に砂糖とミルクを攪拌したように、僕の心に動揺と羞恥が撹拌する。
年頃の女子高生なのに間接キスを気にしないのか?
それともこんなことを気にする僕が稚拙なのか?
「ははは…やっぱり苦かったかぁ」
苦いのは僕の笑いの方だ。
「うん苦かったよぉ。だけど…嫌じゃなかったなぁ」
「え?」
嫌じゃないのは珈琲の方か、間接キスの方か。
真意が聞きたくて反射的に聞き返した。
「…これからはコーヒー。ちょっとずつ飲んでみることにするよ」
「あ、あぁ珈琲ね」
ほっとしたのかがっかりしたのか
二律背反な感情が心を支配する。
「…嫌じゃないんだ、私」
「ん?何か言ったかい?」
「ううん、なんでもない。それよりもすっかり日が暮れちゃったね」
「あれ?もうそんな時間なの?」
この喫茶店は路地裏に店を構えていることもあり昼間も外は暗くて気がつかなかったが確かによく見てみると日が暮れているのがわかる。
どうやら執筆に思ったより大きな時間を割いていたらしい。
「そうだねぇ。そのコーヒー飲み終わったらそろそろ帰ろうか」
「分かったよ、今飲むから少し待ってておくれ」
「ふふ、そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
カップの持ち手が利き手に戻るように半回転すれば再び間接キスをすることになる。
やや不自然だが僕は半回転せずそのまま飲むことにした。
慣れない甘みが口に広がる。
「あっ…」
「どうしたんだい?」
「う、ううん。なんでもないよ」
そう言って彼女は少し寂しさを感じるような笑みを浮かべる。
「そうだ不知火くん。今日読みきれなかった分持ち帰ってもいいかな?」
「あぁ構わないよ」
「ありがとう。そしたら全部読んだらまた今度返すね」
今度は寂しさなど感じない笑み。
実に心惹かれる。
踊る心を鎮めるよう珈琲を一気に飲み干す。
砂糖と間接キスの甘さで胸焼けしそうだ。
「おまたせ。じゃあ僕が先行って会計してくるよ」
「あっ、私の紅茶代…」
「え?僕の奢りでしょ。いいよ僕が払うさ」
「あれ冗談だったんだけどなぁ…。でもお言葉に甘えちゃおうかな」
伝票を手に取る。
「じゃあその紙袋ごと小説持って行っていいからね」
そのまま僕はレジまで歩いていった。
「お会計?」
近くにいた陽子さんが声をかけてくる。
「はい」
「分かった。いまいくわ」
僕から伝票を手渡しで受け取るとこれも慣れた手つきでレジを打ち込む。
「合計1300円ね。会計別にする?」
「いえ、まとめてで大丈夫です」
「そうデート代は男の子が払わなきゃだもんね」
「い、いやそういうのじゃあっ…」
「あはは、ごめんごめん。ついからかいたくなってね。それにしても随分集中して書いてたわね」
「そう…ですね。あんまり自覚なかったんですけど、雰囲気とか珈琲とかでいつもより集中できたのかもしれません」
「ねぇ、今度機会があったら私にも読ませてくれないかしら?」
「僕のでよければ是非お願いします」
「ありがとう楽しみにしてるわ。じゃあこれお釣りね。ありがとうございました」
「ごちそうさまでした」
高嶺さんはもうすでに外へでていたので僕もそのまま店の外へ出る。
外へ出た瞬間、夏の湿った暑い空気が肌に張り付く。
「おまたせ高嶺さん」
「よかったでしょ、ここ」
「そうだね。また来たいと思ったよ」
「じゃあそうだなぁ。…来週。来週のこの日にまたここで会おうよ。それまでにちゃんとこれ。読んでくるから」
彼女は紙袋を手に掲げる。
「分かった。それまでに僕も執筆の方進めておくよ」
「じゃっ、帰ろっか。来週の約束はほったらかさないでよ〜」
「ちゃんと約束守るよ」
僕ら二人は喫茶店の前から歩みを進める。
ふと気になって振り返る。
なんだか僕はこの喫茶店が大事な場所になるような、そんな気がした。
「どうしたの不知火くん?」
「あ、あぁなんでもないよ」
夏休みはもうすぐ半ば。
来週の今頃には折り返しだ。
だけど…僕の夏休みはまだ始まったばかりな気がする。
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