第六十六話


「莉桜さん!」

「雪那さん!」

 悠生達の声が、地下の空間に木霊する。

 呼び声に導かれ、魔術炉に堕ちた莉桜と雪那は共に水面へ浮上した。

「ぷはあ」

「はあ、はあ...」

 ぷかりと水槽の中で浮かびながら、莉桜と雪那は互いに顔を見合わせた。

「良かった、無事だ」

「莉桜...ごめん...僕...」

 謝ろうとする雪那の肩を、莉桜はトンと小突くと、ニヤリと笑いかけた。

「何処か痛いとかある?」

 自身の胸元を見つめながら訊ねてくる莉桜に、雪那は貫かれた筈の胸元を押さえ、首を横に振った。

「三日月で貫かれたのに、どこも痛くないよ...というか、身体が軽くなった感じ」

『そりゃ、オレの分が抜けたからな』

 ぷかりと浮かび上がって来た猫の言葉に、雪那は少しだけ寂しそうに目を細めた。

「そうか...あの時、刹那が護ってくれたのか」

『感謝しろ、そして、もっとオレを大事にしろよ』

 得意げにゆらゆら尻尾を揺らす刹那を、雪那はそっと、自分の方に引き寄せて抱き締めた。

「二人とも、掴まって下さい」

 魔術炉の上から聞こえてきた声に顔を上げると、悠生と猛がそれぞれ腕を伸ばしていた。

 二人の手を悠生と猛はそれぞれ掴むと、炉の水面から引き上げる。

 半ば飛び込んで来た状態の莉桜と雪那を悠生と猛はそれぞれ、抱き締める形で受け

 止めた。

「良かった。無事で」

「いきなり雪那さんを挑発し始めた時はひやひやしました」

「ごめん、皆が戦ってる間の提案だっし、知られてたら上手くいかんかったと思うし」

 困惑顔の猛に莉桜はぺろりと舌を出す。

 悪戯に成功した子供のような表情をする莉桜に、猛は溜息と共に肩を竦めた。

「敵を欺くのはまず味方から...はあ、実体験するとは思いませんでした」

「そういう猛は、僕騙してたよね?」

 じろりと、雪那の鋭い視線が、突然射抜いて来たのに、猛はどきりと肩を震わせた。

 土方と通じていた事を引っ張り出し、雪那はじっと、恋人を見据える。

「う...それは...」

 雪那の鋭い視線に猛は思わず顔を逸らして言葉を詰まらせた。

「でも、一先ず雪那さんが無事で良かった」

 険悪な空気になりかけたのを、悠生は自然な流れでフォローする。

 それに半ば流される形で雪那の追及は一先ず回避された。

『まだやる事があるぞ、雪那』

 雪那と猛に挟まれ位置にいた刹那が、もぞもぞと抜け出す。

 刹那の言葉に、雪那はキョトンと目を円くした。

「やること?」

『オレの本体を本来の姿に戻してくれ』

 ゆらりと尻尾をくねらせ、刹那は雪那と莉桜を交互に見遣った。

『ここの魔術炉に集まった魔力を三日月に集約させれば、どうにかなると思う。オレが刃を失ったきっかけもこの魔術炉だ』

 眼下にある魔術炉を見下ろし、刹那は真剣な双眸で二人に告げた。

「こんなの使って大丈夫なん?」

 かつての災厄の原因とも言えるモノと同じ魔術炉を使う事に、莉桜は少しだけ抵抗を示した。

『あれは、陰の鍵を単体で堕とした事で、炉が汚された結果だ。今この炉に溜まっているのは霊脈から汲み上げた純粋なものだから心配ないよ』

 刹那の説明を聞き、莉桜と雪那は顔を見合わせる。

 この先、聖剣の一振りたる刹那が本来の姿を取り戻していないの状況は不利になる事は、莉桜も雪那も理解していた。

「雪那...」

「莉桜、やろう。刹那を元の姿に戻すの手伝って」

 ニヤリと、何処か誇らしげに雪那は笑う。

 生まれた時から共にある雪那と刹那。一人と一匹の間にある絆の深さが、ひしひしと伝わってくる。

 瞼を閉じ、呼吸を整えて莉桜は手に握る神刀三日月の柄を強く握った。

「分かった」

 決意を決め、強く莉桜は頷いた。

「止めてくれ!そんな事をしたら魔術炉が二度と使えなくなってしまう!」


 悲痛な声が、突如地下の空間に響き渡る。

「陛下...」

 莉桜達が侵入した水路とは違う、本来の出入り口から地下へと降りて来たのは、黒い直衣を纏う初老の男。

「叔父上...」

「雪那っそれを壊さないでくれ!私には、どうしてもその魔術炉が必要なのだっ」

 よろよろと魔術炉の傍へ近付き、この国の最高権力者たる男は、威厳ある身分とはかけ離れた弱弱しい姿で懇願する。

「私は...この国を...もう一度...輝かしいものにしたいのだ...それがあれば...全てを取り戻せる、あの男は言うてくれた、お前の母を生き返らせる事も出来るやも知れぬのにっ」

 縋り付くように緑色の液体が溜まった水槽に身体を付け、頭上を見上げて来る帝を、莉桜と雪那は戸惑いながら見下ろした。

 そこにいるのは、話に聞く厳格で清廉潔白なお上ではなく、野心と欲望を抱いた一人の男。

「...僕の母さんを例え生き返らせる事が出来るとしても、僕はそれを望まない...」

 不意に零れた意外な答えに、莉桜を含めその場の誰もが驚いた。

 死者を蘇らせる事など、出来る筈がない、それを頭で分かっていても、人は一度はそれを願う筈だから。

「雪那...」

「確かに、僕は産みの母親の事なんて全然覚えてないけどさ...でも、蘇らせるのは違う気がするんだ」

 ゆっくりと腰を揚げ、眼下にその人を見つめて雪那は淡々と言葉を紡ぐ。

 金色の双眸に映るのは、頼りなく縋り付く自身の叔父ではなく、幼き日の光景。

 黒い髪に、同じ金色の瞳をした、自分よりずっと年上の女性。

 春の陽射しのような温かな手が、頭を撫でてくれる感触。

『雪那、どうか元気でね』

 それが、最後になってしまったけれど。

 あの日、彼女は願ったに違いない。

 娘の成長を、この国の行く末を。

 だから、前線で指揮を取ったのだ。

 術師の頂点として。最高司祭の代行として。

 自分にしか出来ないと、悟っていたから。

 彼女が、何処まで未来を予知していたのか、それは分からない。

 でも、きっと自分がこの国を、世界を再び死地に追いやる未来を見ていたとは思えないから。

「僕は、殆ど記憶にないあの人の意志なんて重すぎて背負えないけど...過ちを繰り返したくもないから」

 真っ直ぐに、帝を見つめ雪那はきっぱりと己の意志を示すと、莉桜の前に手を差し出した。

「莉桜」

「了解」

 差し出された手を莉桜は勢いよく握り、そのまま立ち上がる。

「止めてくれっ後生だ!私の願いを奪わんでくれ!」

 魔術炉に縋り付き、今にも上に上って来そうな帝を、市村は羽交い絞めにして、必死に押さえ込む。

「陛下っこれ以上はっ」

「離せ下民風情がっ私の邪魔をするな!」

 市村の腕を帝は必死に振り払おうと、身を捩る。

 だが、抵抗はあっさりと封じられた。

「そこまでです、陛下」

 バタバタと地下に降りてきた軍靴の音に、その場の誰もが出入り口と水路を見遣る。

 小銃ライフルを手や軍刀を手に降りて来た軍服姿の兵士達が、帝と魔術炉を囲む。


「ご無礼を御赦し下さい。ですが、もうお止めください、陛下」

「高杉!貴様、この私に牙を剥くと言うのか...不敬であるぞ」

「承知しております。だが、もういい加減にしろ。いつまで旧時代を引き摺るつもりだ。彼女らが、この国が持つ最後の希望だと、いい加減目を覚まして下さい」

 市村に代わって、奇兵隊の兵士が二人、帝を左右から抱える。

 主たる男の前に、高杉は静かに膝をついた。

「どうか、この国の新しき時代を奪わないでください」

 かつて、多くの若者が日ノ本の夜明けを夢見た。

 英国や清国、列強諸国との駆け引きの中、必死に食らいつき、成長を遂げたこの国

 は、産業革命と共に力を付けていった。

 だが、いつしか怠慢と停滞が国中に広がっていたのも事実。

 真新しき国、米国への憧れを持った若者がどれ程多かったことか。

 帝を頂点とする王政ではなく、自分達の力で政を行う。新たな制度の確立を、高杉は師である男から学んだ。

 自立した社会の実現に邁進したかつての自分と、師の志し。

 この国は新たな道へ進む時が来ているのである。

「怪夷を倒す事、この混沌を終らせる事が、この日ノ本を発展させる新たな道でございます。陛下、彼女等に未来を託してはくれませんか?」

 諭すような、語り掛け。高杉の言葉の意味を帝は深く項垂れた。

「皆...そうやって私を置いて行くのだな...」

 脱力し、力なく呟かれたその声音には先程の懇願は失われていた。

 代わりにあるのは、親兄弟に捨てられ、途方に暮れる子供に似た、寂しい気な一人の男。

「姉上も...同じ事を言って、前線へ赴いたのだ...幼子を残してでも、命を賭してでも、残したいモノがあったから...」

 いつかの光景が、脳裏を過る。

 二度と会えないと分かっていた。だから引き留めた。

 その手を取る事は出来なかったけれど。

「...そうだなあ...この国も変わらねばならんなあ...」

 ぽつりと、絞り出された声を高杉は静かに受け止める。

「私もそろそろ隠居を考えようか」

「お供します」

 緩く笑う帝に高杉は静かに応じると、深く頭を垂れた。


 高杉に説得された帝が、奇兵隊の人々と共に地上へと戻って行く。

「いいの雪那?」

 突然疑問を投げかけられて雪那は「なにが?」と返した。

「叔父上様に何か言わなくて?」

「別にいいよ...全部終ったら会いに行くから」

 胸を張り言い切る雪那に、そっか、と莉桜は相槌を打った。

「さて、本題いきますか」

 チラッと、雪那は足元にいる刹那を見下ろす。

「どうすればいいの?」

『莉桜と二人で雪那の持ってる杖で、オレの身体を突いて欲しい』

「杖って、これだね」

 呪術で収納していたビリヤードのキューのような杖を取り出して、雪那は刹那に見せる。

「早速やろう」

 刹那を前に、雪那と莉桜は手を交差させて杖を持つと、その先端を刹那に向けた。

『三日月、頼むぞ』

 二人には聞こえない声で、刹那は聖剣に宿る三日月に望みを託した。

 刹那の望みを受け入れる意志を示すように、神刀三日月が淡く輝いた。


「行くよ、莉桜」

「うん」

 呼吸を整え、雪那と莉桜は杖を握り、一気に刹那の身体に突き出した。

 柔らかい脇腹をついた瞬間、刹那の身体が白銀の泡となって弾けた。

 目映い光に、莉桜と雪那は咄嗟に目を閉じた。

 白銀に輝く中、うっすらと開けた視界の先に、人影が浮かぶ。

 白銀の髪に緋色の瞳をした小柄な少年と緋色の髪に紫の瞳の少年。

 見慣れない筈のその二人を、莉桜も雪那も知っている気がした。

 二人の少年の視線が、二人の乙女を見る。

『ありがとう』

 礼を言われた気がした時には、二つの人影は光りの中に溶けていた。

「莉桜さん、雪那さん」

 不意に名前を呼ばれて目を開けると、そこはまだ魔術炉のある地下だった。

「ユウさん...」

「成功したみたいですね」

 悠生に言われて莉桜が隣を見ると、そこにいた雪那の手には、彼女の背丈を越える鋭い鎌が握られていた。

 深紅の刃。

 目映い光りの中で見た少年を思わせるその緋色に莉桜はキョトンと目を円くした。

「これが...神刀刹那...」

『ふう、ようやくオレも兄弟達と戦えるよ。ありがとな』

 両手で柄を握り、まじまじと鎌を眺める雪那に刹那はニヤリと笑いかけた。

「雪那、帰ろう、逢坂に」

 横から伸ばされた手に、雪那は小さく頷き、莉桜の手を握り返した。

 刹那を元に戻す事で、魔術炉に溜まっていた緑色の液体は空になり、今は巨大な筒上の建造物だけが残っていた。


 夜が明ける少し前。

 逢坂の街を埋め尽くしていた怪夷の群れが、陽がまだ上らない中で、突如としてその身を塵に変えていく。

「なにが起こってんだ?」

 軍警と天王会の要請で市民の救護と怪夷の討伐に当たっていた志狼達執行人の面々

 は突然の状況に目を見張った。

「怪夷が...消えて行く...」

 街中を埋め尽くしていた怪夷の消失に、指揮を取っていた斎藤も驚き息を飲んだ。

「どうやら、上手くいったみたいだな」

「はあ、一時はどうなるかと思ったぜよ」

 ドカッと、その場に座り込み坂本は肩から力を抜く。

 そんな彼を、土方はじろりと見下ろした。

「まだ終ってねえだろ...こっからが勝負所だぜ」

 白けだした東の空、その先にあるこの国の首都を見つめ、土方と坂本は、かの地にいる乙女達に想いを馳せた。

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