逢坂怪夷奇譚
夜桜 恭夜
黎明編
序
最初に脳裏を過る光景は、空を焦がす紅蓮の炎と灰色の煙。
生き物のように揺らめく炎の群れが、視界の全てを煌々と染めていた。
生まれ育ち慣れ親しんだ故郷の変わり果てた姿が、眼前に広がり、今でも瞼裏に張り付いて消えることはない。
今朝までは笑みを湛えていた里の人々は、まるで干からびたミイラの様な姿で地面に転がっていた。皮膚から水分が抜け、窪んだ眼窩はぽっかりと虚ろな暗闇をそこに宿していた。
生まれた時から世話を焼いてくれた近所の小母さん。父親の仕事仲間だった小父さん。辺りの山野を一緒に駆け巡った友達。老いも若きも、男も女も関係なく、里のあちこちに転がった屍の数々。
炎の中に紛れるように揺らめく黒い影が、一人、また一人と里の者に襲い掛かり、その命を吸い尽くしていく。
次々に失われていく大切な人達の最期を、ただ見詰める事しか出来なかった。
『お前にはやることがある。三日月と共に
事が起こる少し前、父が最後に行った言葉が呪縛となって、ただ、隠れている事しか出来なかったあの日。
父を、母を、まだ幼かった弟を失ったあの日。
私は…あの日の事を忘れない。
里の中を闊歩する影の様な異形と四人の人影。
嘲笑うか様な人影を、身を隠した地下室の小部屋から睨み付けた。
いつか必ず復讐してやる…
多感な時期の少女の心に宿ったどす黒い感情は、燃え盛る炎に焼かれるようにその心を強く焦がした。
*****
生温い潮風が素肌を撫でる。
扉を開け放った窓から吹き込んだ夕凪が、カーテンを揺らしながら吹き抜ける。
あの日と同じ夏の夕暮れ。
夢の世界から現実へ戻ることを決めた意識が、ゆっくりと浮上する。
睫毛を震わせて瞼を開けば、目の前には灰色の壁が広がっていた。
「夢…か…」
天井を見上げながらぼんやりと呟き、
枕元を見れば、小さなハリネズミが身体を丸めてスヤスヤと寝息を立てている。
その身体をそっと撫でてから、莉桜は低めのベッドから床へと降りた。
伸びをしながら己の身長と左程変わらない大きな窓へと近づく。
外はいつの間にか陽が西へと傾き、黄昏時へその表情を変えていた。
ちょっとの昼寝のつもりだったが、大分ガッツリ寝ていたようだ。
空に向けていた視線を少し下へ傾ければ、昔ながらの木造の建物と、ここ数年で建てられた鉄と石を使った建物が入り混じり、その間を縫うように張り巡らされたパイプから噴き出す蒸気に煙る見慣れた街並みが広がっている。
窓の縁に腰かけ莉桜はぼんやりと眼下に広がる街並みを見つめる。
この街に来てもうに五年になる。
あの日。故郷が炎に包まれたあの日から。
チラッと、莉桜は徐に背後に視線を向ける。
枕元で眠るハリネズミの傍には、一振りの太刀が置かれている。漆塗りに金の装飾が施された鞘に納められた愛刀は彼女がこの街で生きる為になくてはならなかった大切な相棒。
深く吐息を零し、莉桜は再び立ち上がると、窓の傍に置かれた書き物用の机に置かれた懐中時計を持ち上げ、針を合わせるねじ巻のてっぺんにある釦を押し込めば、カチッと乾いた音を立てて蓋が開いた。
時刻は夕方の五時を指そうとしている。
この街の別名である『黄昏の都』。その名が指し示す時間がやってくる。
逢魔が時を迎えれば、この街の姿はがらりと変わる。
蒸気産業と商業、観光の盛んな大勢の人々で賑わう昼の顔から、人知れず暗闇を抱えた危険な夜の顔へ。
その夜の時間が莉桜の生きる世界だ。
「さて、今夜は平和に終わるとええな」
西の言葉交じりの口調で呟き、莉桜は口端を吊り上げて不敵に笑った。
19世紀も後半に差し掛かった頃。
しかし、1868年。×月×日。世界多発的に突如として発生した大災厄により、江戸は壊滅の憂き目に遭う。
江戸の街は一夜にして屍の街と化し、江戸の地を中心に湧き出すように現れた異形により、日ノ本は未曽有の混乱へと陥った。
『
怪夷は人の血肉を喰らうのではなく、生気を吸い込み、魂を喰らう悪霊と妖怪の狭間のような異形であった。怪夷に喰われた者は、その怨念に飲み込まれるようにして、同じく怪異となり、仲間を求めて増殖していった。
時の帝は怪夷を鎮める為、古来よりの術士を集め、防衛軍を整備。京の都を『
帝により結成された防衛軍及び怪夷討伐軍により、怪夷による混乱は十年程で収まった。
人々は街に結界を張り、怪夷と戦う為にそれまで忘れ去られていた術式を身に着け、以前と変わらぬ生活を取り戻していった。
しかし、怪夷の脅威はなくなることはなく。人々が集まる場所にこそ、怪夷は溢れた。
怪夷とは、人の怨念が妖とあり、怨念を晴らすために人を襲うのだと囁かれるようになる中、逢坂は首都である帝都を護る為の最重要防衛都市としての役割を担いながら、蒸気産業と商業、観光の大都市として発展していった。
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