第一節(中)

 練兵場に着いたら、まずはバートと共に走り込みだ。襲撃を警戒して、たとえ訓練中でも一人にはなるなと兄が決めたことだった。

「お嬢さま、速度が落ちていますよ」

「はい!」

 バートはただ公爵家の使用人、というだけで血縁もないのに、これが驚くほど強いし体力もある。彼の仕事は兄の領地管理などの補佐のはずだが、さすが乳兄弟といったところだろうか。

「速度を上げすぎても、遅れてもいけません。一定の速度を保つんです。……戦いは一瞬で終わるものではありませんからね」

「はいっ!」

 もう何周、ぐるぐるとこの広い練兵場を走り回っているんだろう。十までは数えた。そこからはもう、足を動かすことと息を継ぐのに精一杯で、余計な事など何も考えていられない。

「そう、その調子です。……いいでしょう、あと五周で終わりにしましょう」

「はい……!」

 それでも、あと五周だ。流れ落ちる汗をぐい、と手の甲で拭いながら、アーシェは落ちかけている頭を持ち上げた。キッ、と前を見据える。

 きつい。呼吸はとうに切れ上がっている。ぜいぜいと喉がいやな音をたてていた。吸っても吸っても空気が足りない。ちょっと気を抜けば足がもたつく。痛い。膝から下に棒でも突っ込まれているような気がするけど、ここでやめてはいけない。この間も、自分だけが倒れたのは基礎体力がないからだ。

「あれ、またやってんのかお姫さまは」

「いい加減、諦めればいいのになあ。女が俺らと同じようになんて、出来る訳がないじゃないか」

 ひそめてもいない声は、あちこちから聞こえていた。

「見ろよ、あのみっともない格好。あれじゃ嫁のもらい手もないぜ」

「萎えるよなあ。おとなしく家で針でも使ってりゃいいだろうに、どうぜ何不自由なく暮らせるんだろうしさあ」

 せせら笑っているのは、同じ練兵場を使っている男たちだ。―――つまりは、国軍の兵士たち。若い貴族の、それも、武勇で身を立てようとしている男たちだった。

 アーシェは小さく笑う。

……ああ、そうだろう。さぞかし滑稽に見えるだろう。それでも。

(これは、私が選んだことだ)

 アーシェは歯を食いしばって、ぐん、と腕を振り抜いた。動きやすいように、とドレープもギャザーも極力減らしたスカートは、それでもやっぱり、足下のブーツに絡まろうとする。

(だから、絶対に負けない)

 アーシェは裾を蹴り上げながら、次の一歩を力強く踏み出した。このやり方を選んだのは自分、願ったのも自分だ。

 エルゥはちゃんと、訊いてくれた。

「君はどうする?」

と。

 選択肢はふたつあった。

 ひとつは、このままカータレット家にこもってその庇護の下でじっと、おとなしく三週間後を待つこと。

僕としてはこっちを選んで欲しいんだけどね、とエルゥは言った。

 カータレットは特殊な家なのだという。

「君のことがあってから、カータレットでは使用人の家族もまとめて召し抱えるようにしたんだ。家族を盾に取られて、主人を裏切ることがないように」

 そのこともあって、カータレット家で働く使用人の結束は固い。これほどの大家だというのに、毒味のいらない食事をとれることからもそれが窺えるのだという。

「だから、これからの三週間、ずっとこの屋敷で匿われているのが最も安全ではあるんだ。ここは警備もしっかりしているし。でもね……」

「もうひとつの選択肢は?」

 そう尋ねたアーシェに、兄と、まるで兄のような恋人はそろって苦笑した。

「お前がするべきだと思う生活をすることだ。王太子の婚約者候補ともなれば、しなければならない支度は山ほどある」

「……私が動き回ることで、誰かの迷惑になったりする?」

 危険があると解っていて普段通りを押し進めようとするなら、そこには必ず支障が生じる。アーシェの質問に、しかし兄は笑って首を振った。

「あまりいないな。もしこれがひ弱なご令嬢なら山ほどの護衛を命の危険に晒さなければならないところだが……、お前自身の腕も立つ。外出には俺が付き添えば、まあ、一個中隊でも寄越されん限り問題はないだろう」

 何とも力強い即答だった。そして、それだけ自分自身の剣の腕も評価されている、という事実がアーシェにはこの上なく嬉しくもあった。

 誰かを守る為には、自分自身をまず守れなければならない。そして兄は、自分にはそれが出来ると言ってくれている。

 それならば。

「じゃあ、お願いがあるんですけど」

 アーシェに迷いはなかった。

「ちゃんとした訓練を受けたいの。もっと強くなりたい」

―――今度こそ、ちゃんと最後まで、剣を持って立っていられるように。それをまず、この先を戦うために叶えようと思った。

 兄トリストラム・カータレットは、齢二十一才にして既に二個連隊四千人を指揮する師団長だった。国軍には三人の師団長がいて、その一角だ。

 これはカータレットの次代、というだけで手に入れた地位ではない。彼自身が十三才で国軍への入軍を果たし、以降分隊長、小隊長、中隊長と順調に武功を上げていった結果でもある。

初陣は十四才。分隊長として九人の部下を率いての戦闘は、国境地帯で起きた小さな紛争だった。そこで敵中隊長の首を討ち取り、五十人を指揮する小隊長に昇格している。彼はまさに、叩き上げの兵士でもあった。確かにその身分によって、出世の速度は年齢に見合わない早さであったが、それを黙らせるだけの実績もまた、積んできた。

「……いいんですか、言わせておいて」

 走り込みを見守るユージィンに問いかけたのは、副師団長のサディアス・ピアソンだ。彼とは小隊を預かっていた頃からの付き合いで、気心が知れている。

 アーシェに向けられる野次は、心ないものばかりだった。兵士たちは、アーシェが何者かを知らない。一族の娘だ、とも言わず、ただ見習いだと連れてきた。それはアーシェ自身の希望だった。

「だって敵が私の家名を考慮して、手加減してくれる訳じゃないでしょう?」

 それが彼女の言い分だ。まったく、我が妹ながら大したものだ、とユージィンは頬を緩める。

「俺に庇われるような娘なら、そもそも剣など持たせないさ」

 妹の走る姿へじっと視線をそそぎながら肩をすくめた。

「まあ、野次を飛ばしている奴らの品位には問題があるが。ここにいる時点で、あれは女であろうとなんだろうと、護国の戦士だ。同輩に敬意を払えないようでは、常駐軍に相応しくないとも言える」

 戦時には近隣の農民などから兵を募るが、今、ここにいるのは騎士たるを望まれる国軍の兵士だ。剣の腕だけではなく、入団にあたっては、その人品卑しからぬことも求められる。

 彼らの大半はまた、貴族の子弟たちでもあった。彼らの品位の低いことこそが問題だと、ユージィンには思える。

「あとで絞めておきましょう」

 さらりと言う副官へ、けれど静かに首を振った。

「言わせておけ。どうせあとで恥じ入ることになる」

「それは……ご令嬢が何者であるか判明した時に、ということですか」

 サディアスは眉を顰めるが、それには笑って再度首を振った。

「違う。あれが本物だと、誰の目にも明らかになるからだ」

 言いながら、ユージィンはすっと片手を上げた。

「よし、走り込みが終わったな。ここからは俺が相手をしてやろう」

 視線の先では妹と近侍が、ようやく走るのを終えてゆっくりと歩調を緩めているところだった。あれは相当堪えている。見ているだけで、ユージィンにはそれが解る。

聞くところによると、アーシェは長い間、一人で鍛練を積んできたらしい。おそらくは才能もあったのだろう。剣の腕は、中隊長たちと比べても遜色がない。

 だが、それでは足りないのだ。

 もしアーシェが王太子妃となり、それでも剣を振るうことを望むのなら、国軍としては彼女に師団長、もしくは大隊長程度の実力を望む。

 王族の出陣は、兵士たちの士気を上げる。だがそれが、お飾りであるようではむしろ迷惑だ。守られて後衛に落ち着くだけの王族なら必要ない。護衛に数を回さなければならなくなる分、戦況次第によっては不利になる。兵士たちは、仰ぎ見る錦の御旗が欲しいのだ。足手まといはいらない。

……アーシェが選んだのは、そういう道だった。彼女は気付いているのだろうか。より困難なほう、困難なほうへと歩いていることに。そういう道を、自ずと選んでいる。

 兄としては、それが不憫にも思えた。これまで彼女は、本来なら持っているべきはずのもの一切を不当に奪われて生きている。だからこれから先は、ただ甘やかされて、やさしいものだけに囲まれて生きればいいのに、と。

 だけど他でもない彼女自身が、それを良しとしないであろうこともまた、知っていた。彼女の選ぶ道は茨の道だ。だが貫き通せれば、だからこそそれは誰よりも美しい道になるだろう。

……純粋に、兵を束ねる立場としても欲しい人材だ、と思う。あの月瑛宮の襲撃において、妹の上げた戦果はけして小さなものではなかった。

「師団長自ら、見習いの訓練ですか」

「いつもやっていることだ。あれが特別という訳でもない」

 お前もついでに、バートに稽古をつけてやってくれ。ユージィンは笑って、副師団長をけしかけた。バートにも気晴らしになってちょうどいい。

「さあ、剣を取りなさい。疲れているからといって、敵はお前に斬りかかるのを待ってはくれない」

 そうして妹を、わざと厳しく煽りたてる。

……誰よりも誰よりも、可愛い妹。たったひとりの、いとおしい子。だから自分は、たとえ恨まれようとも彼女の望むものを、ただ差し出そう。

 はたしてアーシェは、肩を大きく上下させて息を継ぎ、顔中から汗を滴らせていても無言で左腰に手を伸ばした。

 無骨な皮の剣帯に通された、白鞘の剣。

 それがあの時、彼女の望んだただひとつのものだった。

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