第七章
さあ、宣戦布告だ
第一節(前)
見付けた、君が僕の探していた姫君。
王子様はそう言って微笑み、蹲る少女に手を差し出す。
―――そうして貧しい少女は、ドレスを身にまとって別人のように美しくなり、王子様と恋に落ちてしあわせに暮らしました。
灰被りの少女。それとも、塔の上のお姫さま? 茨の城の眠り姫。毒林檎を食べた森の王女。
いつだって、幼く報われない少女たちが夢見るのはそんな姫君の話だった。つらいことがあっても、いつか君だけの王子様が助けてくれるよ。そこからは、まるで別の世界だ。きれいなドレスに輝く宝石、贅沢なご馳走と毎夜の舞踏会。何も心配することなんてもうない、あとはただ、愛されて幸福におなり。
―――アーシェはクス、と小さく笑った。
現実はそんなに甘くない。めでたしめでたしのあとには、ちゃんと地続きの「その先」がある。
「本当にこんなものを着させるつもりなの? あの子ったら!」
エルゥから贈られてきたアーシェのためのドレスを手に、母アレシアが憤慨していた。今日も妖精のように可憐だというのに、きりきりと吊り上げた眉が印象を裏切っている。
「だめよ、やっぱり私が用意するわ。あなたが主役なのよ、一番綺麗にならなくちゃ」
「母さま落ち着いて。でも私は、エルゥがそれを贈ってくれて嬉しかったのよ」
母がその手に握り締めているドレスは、かなり大胆なものだった。エルゥの瞳の色と同じ、夜空色の深い紺のドレス。縫い取られた真珠が星のように浮かび、その間を月光のように繊細な銀糸の刺繍が渡る。
そうして、成人したとはいえ未婚の少女が着るには珍しく、背中がほぼ切り取られたように開いているデザインだった。上からマントが被さるようにはなっているが、アーシェの傷が誰の目にもあらわになるものだ。
「……私ね、この傷は崖から落ちてついたものだって言われてたの。自分バカだなーって思ってた。そのせいで、好きな人が出来ても結婚なんて出来ないんだなーって」
それは、何もかもを忘れてあの村に暮らしていた頃の、少しだけの感傷。
「でもね。思い出した今は、凄く誇らしいのよ。あんなにちっちゃい頃から私、ちゃんと自分のしたいことが出来てたんだわ。ちゃんと守れたのよ、大事な人のことを。この傷は、何よりも確かなその証拠なの。素敵でしょう」
「……アーシェ」
「だから、恥じるんじゃなくて勲章だねって言ってくれるみたいなこのドレスが、とても嬉しいの。さすがエルゥよね。いつもいつも、私のことなんてお見通しなんだもん」
それなのに、私の気持ちにだけは少しも気付いてくれなかったけど―――それがおかしくてくすくすと笑う娘に、母は少しだけしんみりと溜息をついた。
「そう。……あなたとあの子は、ちゃんと通じ合っているのね。悔しいわ。せっかく戻って来たのに、こんなにすぐお嫁に行ってしまうだなんて」
「母さまったら」
アーシェは笑って、母の細い肩を抱き締めた。
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気持ちを確かめ合った、翌日。
王家からカータレット公爵家へ正式に、王太子イーニアスと一女イフィゲニアの婚約について申し入れがあった。
当主たる父はこれを了承。ただし、これまで死んだものとされていたイフィゲニアを急に表舞台へ上げるのははばかられる、として、公式発表の場までその事実は伏せられることとなった。
「―――大公は、まず、君を狙うよ」
それは、あの夜に居間へ場所を移したエルゥがまず、兄と自分を前に言ったことだ。
「僕はこれまでにも、度々命を狙われてきた。それは知ってるね。だけど僕たちの婚約が知られたら、連中の優先度は君の方が上になると見ていい。……時間が限られている分、激化すると僕たちは考えてる」
時間が? どういうこと? と尋ねたアーシェに、教えてくれたのは散々エルゥに締め上げられたあとの兄だ。
「要するは王位継承権、その継承順位の問題なんだ」
セスイール国の王位継承権は、基本的に直系子孫が優先される。
現在、王位継承権の第一位は勿論王子であるエルファレット―――イーニアス・ベイリアル、世継ぎの太子である彼だ。
そこから、二位に現国王の王弟であるカーティス大公が。第三位に、降嫁したとはいえ先王の直系である王妹、カータレット公爵夫人イーディスが続く。
その次に子世代だ。カーティス大公には子がいないため、必然的にカータレットの子供達がその下へ連なった。第四位に長子トリストラム、そして二子イフィゲニアが第五位に。そこで先王の直系は途切れ、以降傍系へと流れていく。
「だが、それはあくまでも現在の順位に過ぎない。これが大きく変動する機会がある。それが王太子の即位、もしくは結婚だ」
それはおそらく、より長く健全に、ベイリアル家が王位を継承していくために決められたものだったのだろう。
王太子の結婚と共に、王位継承権は子世代が優先となるよう定められている。
つまり、第一位は変わらず王太子であるエルゥに。しかしそこから下がまるっと入れ替わる。第二位がトリストラムへ、第三位がイフィゲニアへ。そうして彼らに子が生まれるまでの間のみ、第四位にカーティス大公、第五位に公爵夫人イーディスが置かれることとなるのだ。
「……つまり叔父上が玉座を手にしようと思うなら、僕だけを殺せば済む今のうちでないといけなかったんだよね」
そう言ってエルゥは肩をすくめた。まるで他人事のような気楽さだった。
だけど。
「君との婚約は、間違いなく叔父上を追い詰める。今までにも、後顧の憂いを断つために君やユーグに手を伸ばすことはあった。だけどこれからはアーシェ、君も叔父上の直接的な脅威になるんだ。叔父上は積極的に、君を狙ってくるだろう」
そう口にしたその時だけ、怯え、のような色合いがその夜空色の瞳を翳らせたのを、アーシェは見逃さなかった。
「これは最初に言っておくべきことだった。だから、……もしそれが嫌なら、怖いなら、」
「やめないわよ」
やめてもいいんだ、と。
そのあとに続けようとした言葉を、アーシェは言わせるつもりがなかった。もとより、七歳で既に一度、死にかけた身だ。それに自分は、もう戦う力を手に入れている。
―――何より。
こうやってまた、自分の願いを簡単に手放して一人で立ち向かおうとしてしまうこのひとを、もう二度と、独りにはしないと決めていた。
「これでエルゥと半分こになるじゃない。丁度いいわ」
そう。
そんなふうに、この先を戦っていくと決めたのは、自分だ。
「おそらく、彼は死に物狂いでエルファとお前の婚約を阻止しにかかるだろう。その場合、一番に狙われるのはアーシェ、お前だ。王太子の婚約者を殺せばそれは国の問題になる。だが、公爵令嬢を殺してもたかが一貴族の問題にしかならない。その違いは大きい」
兄の言葉に、アーシェはしっかりと頷いた。
「だから公式に王太子の婚約を発表する場まで、お前の事は伏せておくことになるだろう。つまり」
決戦は、婚約発表のその当日、その場。
―――一ヶ月後に王宮で開かれることが決まっていた、毎年恒例の夜会だ。
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「……まだ二週間以上もあるじゃない。それに、婚約してから結婚式までは一年あるのよ。まだもう少し、母さまの娘でいさせてね」
兄とエルゥと、三人で話し合ったあの夜のことを思い出しながら、アーシェは小さく微笑んだ。あれからもう二週間近くが経っている。翌日、王家からの申し入れを受けてからというもの、公爵家は大騒ぎになった。
言うまでもない、カータレットの一女が王家へ嫁入りするのだ。その支度は、どうしたって大掛かりなものになる。アーシェ自身が質素で良い、と言っても、それで済む問題ではなかった。
二週間と少し後にせまった王宮主催の夜会は、毎年この時期に必ず行われる、社交の季節の終わりを告げるものだった。貴族たちはだいたい春の終わりから秋の中頃までを、自分たちの領地で経営に専念する。王都に集って社交が本格的となるのは秋の終わりから初冬、そこで王宮主催の夜会がまた開かれ、社交シーズンの始まりを告げるといったかたちだ。
勿論、領地を持たない貴族や政務、軍務に就く者もいる。そういった者たちは王都に残るが、その間、大規模な行事などはあまり行われないのだという。
主立った貴族のほとんどが顔を出すその夜会以外に、発表の場に相応しいものもないだろうとは国王、公爵、王太子、三者揃っての考えだった。
「実際のところ、それで一旦社交シーズンが終わるからね。翌日から大騒ぎ……なんてことも領地へ戻るまでの短期間で済むし、それに」
その後面倒なごたごたになっても人が少ない分、口止めしやすい。そう言ったエルゥは「王太子」の顔をしていて、彼がどうにかこの件を穏便に治めようとしているのがアーシェにも伝わって来た。
その分、発表までの準備期間が短くなってしまったが、それはしょうがない。むしろ短い方が、苛烈な日々を長く耐えなくて済む。
―――そう、結局は隠しきれないのだ。王太子の結婚は、国家の一大事業でもある。政府高官にまったく知らせないわけにはいかない。
そうして、現セスイール王国宰相ディズリー侯爵こそが大公派の筆頭である以上、アーシェへの襲撃は避けられないものであった。
「……仕方ないわね。じゃあ、夜会にはこのドレスで行きましょう。それにしても、」
ドレスを撫でつつ嘆息した母に、アーシェは微笑む。今日はここまでずっと、こうして彼女と共にお披露目ともなる夜会で身に付ける物の支度をしていた。
動きにくくなるからあまり着たくない、とはいえ、そこはアーシェも年頃の少女だ。綺麗な衣装それ自体が嫌いなわけではない。やっぱり嬉しかったりもする。
「まったくそつが無いわねあの子は! 首飾りに耳飾り、手袋に宝冠まで用意して一式送ってきたわ!! これじゃわたくしは何にも選べないじゃないの」
エルゥが用意したのは、ドレスに合わせた真珠の耳飾りに、大きな緑柱石とこまかな淡水真珠を組み合わせた首飾りだ。緑柱石はアーシェの瞳の色だった。きっと大切に、ひとつひとつ選んでくれたのだろうことが解る。
「あ、でも母さま、リボン、リボンとかその、髪型と髪飾りはまだ決まってないですから」
「勿論よ、そこまで指図されるいわれはありません! この宝冠をつけるなら、繊細なものがいいわね。髪型もよく相談して決めておかないと」
意気込む母の姿に、もはやアーシェには、自分のことなのに口が出せないことを悟った。でも貴族のご令嬢の髪型やその流行などさっぱり解らないから、これでちょうど良かったのかも知れない。
「……でも、豪華すぎてちょっと不安。似合わなかったらどうしよう……」
「何を言ってるの。あの手この手で似合わせるのよ。ドレスなんてそうやって着るものよ」
さすがの一言だ。子供を二人も産んだとは思えないほど可憐な母は、今日も淡い山吹色のドレスを見事に着こなしている。黙って座っていれば、非の打ち所がない貴婦人だった。
「―――お支度中失礼致します、奥様。お嬢様」
広げたドレスを侍女たちが片付けて行く中、開け放していた衣装室のドアを、コン、と軽く叩く音がした。出入り口を見ると、そこにここ数日で見慣れた青年が申し訳なさそうに立っている。
「バートさん」
兄の近侍、乳兄弟でもあるバート・アイフィルだった。主に公爵家後継としての兄の補佐をしている、カータレット家の使用人の一人だ。
「そろそろお時間でございます。馬車を用意しても宜しゅうございますか」
「えっ、もうそんな時間ですか!? ごめんなさい、すぐに着替えます!」
「いえいえ。大丈夫でございますよ。どうぞごゆるりと」
「すいませんー!」
それじゃあ母さま、あとお願いします! 一声叫んで、アーシェは慌ただしく衣装部屋をあとにした。
婚約が決まってから頼み込んで、先日やっと許可が下りたところだ。今日で三日目になる。毎日午後、時間に合わせて参加させて貰うようになった。
―――兄の指揮する国軍第二師団の訓練に。
とは、言っても、午後の自由訓練の時間にほんの少し、練兵場を間借りするような形だ。これからエルゥと共に歩んでいくために、もっと強くなりたかった。帯剣を許して貰えた、ということは、自分も戦える人間のうちに数えて貰っている、ということだ。足を引っ張りたくない。
そのためにここ連日、バートと共に王宮内の練兵所へと通っているのだった。
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