第三節(後)
締め付けるような痛みが棘のように胸を刺したその時、もどかしげなエルゥの声がアーシェの目を奪った。
「足りない。足りるはずがない。だって僕は欲しいんだ。君に守られた過去も、君から何もかも奪ってしまった罪も、君の歩むこれからも。誰にも渡したくない、その全部僕のものだ……!」
その、ぎりぎりと押さえつけたような激しさ、は。
アーシェが初めて見るものだった。いつも穏やかで、微笑みを絶やさないエルゥ。それは昔も、再び出会ってからも変わらなかったのに。
「……カータレットは優しいから。皆、言うんだ。アーシェ、君が奪われたのは僕のせいじゃない、僕の罪じゃないって。ああそうだ、君自身もそう言ったよね。だけど僕は、どんなものだって―――君を傷付けた罪、奪ってしまった罪でさえ、誰かに渡したくないんだ。僕だけのものにしたいんだ。アーシェ。僕にとっては君だけが、ただひとつの、……」
「……エルゥ?」
「浅ましいのは解ってる。強欲なのも。許される事じゃないのも知っているよ。だけど君が、他の誰かのものになるなんて嫌だ。想像だってしたくないよ。……だって君は、ずっと僕だけのものだったんだ。離れていた十年の間さえ。諦めずにいる間、探している間はずっと、君は僕だけのものでいてくれたんだ。……僕の姫君」
アーシェ、僕のお姫様。
耳に残るそれは、何度も繰り返された幼い自分への呼びかけだった。だからアーシェは、ほら、やっぱり、と思う。
「それは……だから、……小さなアーシェ、の話でしょう?……」
「違う! どう言えば解る!?」
ほとんど叫ぶように言って、エルゥは強く首を振った。
「全部だ。全てだよ。屈託のない、混じりけのない光みたいだった幼い君も。小さな身体で、僕の前に飛び出して来た君も。毎日、骨惜しみなくよく働いて、くるくるよく笑う君も。剣を握って僕に、どうしようもなく楽しいって顔をしてかかってきた君も。ひとつひとつ、丁寧に考えて、自分で掴み取っていく君も。僕の手なんか本当は必要ないんだ、背中をぴんと伸ばして一人でどこまでだって歩いて行けそうな君も」
全部、全部、全部だ。
「その全部、ただひとり、君じゃないか。どれがどれだなんて知らないよ、その全てが君だよ!!」
「――――――……」
呆然、と目を瞠って、アーシェはただエルゥを見つめた。
……この人は、こんなに激しい人だったのだろうか。こんなに、炎のような人だっただろうか。
これが本当のこの人の姿なんだったとしたら、いったいどれほどの力で、覚悟で、抑え込んできたんだろう。いつも穏やかで物静かな、あの顔をどうやって作り上げていたんだろう。
それを考えると、どうしようもなく胸が痛かった。先刻よりもずっと。……きっとこの人は、自分と正反対に生きてきた。我慢して押し殺して、そうやって周囲を注意深く窺いながら生きてきたんだ。
ただ、王家に生まれた、そのたったひとつのことのせいで。……
アーシェはくしゃりと顔を歪めた。
ばか。ばかだよ、エルゥ。あなたやっぱりばかだ。
「……ねえエルゥ。わたし、聞いてないよ」
「何を?……」
こんなひとを、独りになんてしておけない。忘れていてさえ守りたかった、自分にとっても、ただ一人のひと。
「わたし、聞いてない。エルゥが私を、どう思っているのか。……わざと、言わなかったんでしょう?」
「……言っていいのかどうか、解らなかったんだ。そんなことが、許されるのか……」
「言って」
こんな話をしているのに、アーシェもエルゥも、お互いに気付いたその場所から一歩も動かないままでいた。
その距離の分だけ、きっとお互いに、言わないままでいた言葉が残っている。
「ちゃんと言って。聞かせて」
「……君が、……」
言いかけて一瞬、エルゥはためらうように口を閉じた。視線が迷う。彼のそんな様子を見るのは初めてだった。
こんなに、……こんなに、弱々しく見えるのは。
「……君が、好きだよ。アーシェ。……愛してる、僕の姫君」
まるで叱られるのを待つ子供のような顔をして、エルゥが言った。ばかね。あなた、本当にばかなんだ。
まるで何でも知っているような顔をして、私のことだけ、見えてない。
「エルゥ」
ト、と。
アーシェの爪先が地面を蹴った。二人の間に横たわっていたその距離を、軽やかに、跳び越える。
いいよ。もういいよ。本当はこんなに、単純だった。
結局自分はずっと、彼だけを見てきた。その他の問題など、あとでどうにかすればいいだけの話だった。
この手を離してしまったら、そんな自分はもう、自分じゃない。真ん中に通った、一本の芯。
―――守りたい。あなたを、その心ごと。
「私もあなたが好きよ。エルゥ。……私の、銀色の王子様」
そうして間近から見上げたエルゥの瞳は、皓々と辺りを照らす月光の影になって、アーシェからはよく見えなかった。ただ、その眦に。
「アーシェ、……」
きら、と何か光るものが一瞬、浮かんだ気がした。
「……僕は君を抱き締めても、許される?」
「ばかね。誰の許可が必要なの。許していないのは、あなただけだわ。エルゥ」
「…………っ」
そっと寄り添ったアーシェの身体を、エルゥの両腕がおそるおそる包み込む。指先が、僅かに震えている気がした。
それでも、構わずに目を閉じる。記憶の中よりもずっと大きく、広くなったエルゥの腕の中は、彼のくれたショールやお茶よりもずっと暖かくアーシェを包み込んでくれた。
「アーシェ……!」
一拍を置いて。
エルゥの両腕が、ぎゅ、ときつくアーシェを抱き締めてきた。苦しいほどだ。熱い。頬を押しつけられた肩口が、思っていたよりずっと硬くて大きくて、どきどきする。
それでも、その力強さが嬉しかった。自分たちはもう、奪われて泣いているだけの子供ではない。
これからは二人で、どこにだって駆けていける。どんな敵にだって、この手にとった剣できっと立ち向かっていけるはずだから。
「……でも、わたし、王妃になんてなれないよ」
「酷いな。それでも、傍に居てくれないの?」
「ううん。……だから、立派な王妃様は諦めて。このままの私でも大丈夫?」
「願ってもないよ。僕はいつだって、君が一番欲しかった。君が、君の望むままにいてくれることが、僕のただひとつの願いだよ」
エルゥの頬が、すり、とアーシェの髪を撫でる。背中を包む腕が、ずり落ちそうなアーシェのショールをそっと直した。
「君はどうしたい?」
「……帯剣してる王妃ってありなのかな」
「いいよ。君らしくて最高だ。……本当はちょっと、心配だけどね」
「そこは諦めて。私は守られるんじゃなくて、守りたいの」
「奇遇だね。僕もだよ。……それなら、背中をお互いに預けられるかな」
「うん。それって素敵ね。それから、……それからエルゥ、私、私はあなたに何をしてあげられる? これじゃ私、あなたから貰うばっかりだわ」
「逆だよ、アーシェ。僕の方が君から貰ってばかりなんだ。どうやっても、返しきれないほどに」
「だめよ。そういうのはいりません。だからちゃんと考えて。私、養われるだけなんて真っ平なんだから。それでいいなら、私、ずっとあなたの傍にいるわ。エルゥ」
「どこに駄目なことがあるもんか!」
ぎゅ、とアーシェを抱き締めたままで、エルゥが歓喜の声を上げる。そうして、そのままいとも軽々とその身体をヒョイ、と抱き上げた。
「嬉しいよ、アーシェ。……ありがとう。本当に、ありがとう。……」
「それは多分、私のセリフだわ。だって本当に色んな大切なものを、あなたに貰ったもの」
同じ高さになった目と目を、見合わせて笑う。ふふ。ハハハ。二人して笑って、こつん、と額を重ね合わせた。
「だからもう、おあいこにしましょう」
「……うん。うん、アーシェ……」
エルゥの瞳が、僅かに潤む。きゅ、と引き締めた唇を見下ろして、ばかだなあと思った。
ばかね、本当にばかだなあ、エルゥ。泣いてもいいのに。だってここには、私しかいないんだから。
私、が、いるんだから。堪えたりしないで、もう泣いたって、かまわないのに―――。
「……アーシェ」
そっと、その精悍な頬を掌で包む。一度でも瞬けばこぼれ落ちてしまいそうな涙を溜めた瞳が、ゆっくりと近付いて来た。紺色の、そうだ、まるで今彼の向こうに広がるような、夜空色の瞳。表面がとろり、と溶けたようなその瞳を、何よりもきれいだとアーシェは思った。
「アーシェ……」
唇に吐息が触れる。そして、静かにエルゥの顔が傾いて―――
「……あー……すまないが」
―――きたところで、非情にばつの悪そうな声が、ごほん、といういかにもわざとらしい咳払いと共に少し離れた場所から聞こえてきた。
「妹と親友の逢い引きを直視するには、まだ俺の修行が足りていない。また今度にしてくれないか」
「―――兄さま!?」
べちん、と。
思わず手が出た。間近に寄せた顔と顔の間に差し込んだ手はとてもタイミングがよく、距離もばっちりで、見事にエルゥの顔の正面をとらえて叩いた。
「やだ、ねえ待ってどうして、いつからそこにいたの!? どこから見てたの!!?」
「……聞かない方がいいと思うぞ、お互いのためにな」
「やだそれ余計に怖い!! ちゃんと教えて兄さま!」
「アーシェ、人には言って良いことといけないことがあってだな……」
「……勿論それは、言わなければいけないこと、の部類だよね? ユーグ」
しまった。容赦なくやってしまった。
と、気付いたアーシェがおそるおそる手をのけると、鼻先を少し赤くしたエルゥが、それは良い顔でにっこりと―――笑っていた。
なにこれこわい。
「さあ、詳しく聞かせて貰おうか。ユーグ。じっくりね。何なら一晩中かかってもかまわないとも」
「い、いやエルファ、俺は明日、一日中演習があってだな」
「いや、なに。音に聞こえたトリストラム卿のことだ。一晩眠らなかったぐらいで何の支障もあるまいよ。さあ行こうか。いつまでもここにいてはアーシェが冷える。行こう。すぐに行こう」
「エルファ!」
……そんな悲喜劇を演じつつも、エルゥの両腕はアーシェを大切そうに両腕へ抱えたままだ。アーシェはくすくすと小さく笑いながら、抗いもせず、そのままエルゥの腕に身を委ねた。
もうすぐ初夏が見えてくるとはいえ、夜風はまだ冷たい。だけどここは、これまでいたどんな場所よりも暖かく、アーシェをすっぽりと包んでくれていた。
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