第三節(前)
父と初めての散策を楽しんで以来、アーシェは毎晩、寝る前に中庭を訪れるようになった。どうにも色々と去就を考えてしまい、中々寝付けなくなってしまったからだ。
お断ります、とは言ったものの、あれで終わりに出来るとはアーシェ自身思っていなかった。だがエルゥへの気持ちと、もし応えればいずれ王妃にならなければならないという重圧と、そもそも自分は公爵令嬢として生きるのか、それとも無理だと別の道を選ぶべきなのか。その全てが絡み合ってぐちゃぐちゃに混じり合って、何を考えたらいいのかもそもそも解らなくなってきていた。
「どうせ眠れないなら、せめて気分転換くらいはしたいよね……」
今夜も、寝間着にショールを巻き付けて部屋を出る。
毛織りの、深緋のショール。それはあの村で、エルゥが初めに贈ってくれたものだった。結局は毎晩、彼のくれたものがこうして自分を温め続けてくれている。
夜の中庭は、夕刻、眺めたあの華やかさとはまるで別の場所のように静謐に満ちていた。
青くさえ光るような、冴え冴えとした月光。まるでそれ自体が静けさを生み出しているかのようで、荘厳ささえ感じさせる。
……月の光は美しく、汚れない。だからこそ峻厳だった。甘さや妥協を許さないような、そういう種類の美しさだ。
その中を、ゆっくりと歩く。青味を帯びた銀色のその光は、どうしたって、たった一人のそのひとを思い出させた。
記憶を失っていてさえ、忘れられなかった人。繰り返し何度も、夢に現れたひと―――。
そのひとはこの月光と同じ、青味すら感じさせるような、銀色の髪をしている。
そうして、瞳は透き通った夜空のような紺色で。一見すると、妖精の王子さまのように儚げなのに、いつだってその眼差しは、強引なほどに力強い。
とろけるようにあまい微笑みを浮かべるくせに、時々、底が知れなくて。本当のことしか言わないくせに、大事なことはきれいに隠してしまう。
そうして、いつだって優しい、甘い声で、……どこか、何かを乞うような声で自分を呼ぶのだ。
「―――アーシェ……?」
そう、こんなふうに。
アーシェ、と、他の誰も真似できない、唯一の響きでその名前を。
ざあっ、と夜風が吹き抜けた。下ろしたアーシェの長い髪を、ふわりと宙に舞い上げていく。
アーシェは一瞬、ぎゅ、と強く目を瞑った。そうして。
「……エルゥ?」
再び目を開けたそこには、まさに今、思い描いていた通りの人が、まるで月光から抜け出してきたかのように淡く輝きを放ちながら、冴え冴えと光る庭に佇んでいた。
月の光に冴え冴えと輝くような、白いシャツ。
いつもきっちりと飾られている襟元を少し崩し、淡い灰色の外套を袖も通さず肩に羽織っただけの姿で現れたエルゥの髪で、青銀の光がきらきらと踊っている。
その姿はまさしく、月の妖精のように浮世離れしていた。このまま背中に羽でも生えて、どこかへ飛んでいってしまいそうだ。
―――だけど。
「……驚いた。こんな夜中にどうしたの」
そう呟いて、くしゃり、と前髪を掴んだその表情は、どうしてか今までになかったほどどきり、とアーシェの胸を跳ねさせた。
「あなたこそ。どうしてこんなところに」
「ああ。……君は知らなかったかな、王城からここには、緊急用の脱出路が続いていてね」
「え」
それじゃあ、また何か危険な事が。そう目を瞠ったアーシェに、エルゥは肩を竦めてクス、と笑う。
「月瑛宮からじゃなかったのは残念だけど。奥宮からね。危急の場合には必ずここでカータレットと合流できるようになっている。……とは言っても、最近じゃ僕も父上も、単に息抜きのために使ってるんだ。だから心配しなくても大丈夫だよ」
今夜もそう。
「……実は、結構頻繁に、ここに来てたんだ。ここからは、君の部屋の灯りが見えるから」
「部屋の……?」
「うん。ほら」
そうして指差された先を見上げると、そこには確かに自分の寝室、その窓辺に置かれた小さな灯りがあった。
「あんなの見てどうするの。夜は冷えるのに、風邪ひいちゃうよ」
「あんなのって。酷いな」
エルゥはちょっと眉を下げて、肩を浮かせる。
「君にとってはただの灯りかも知れないけど、……あの暖かい光のあるところに君がいると思うと、それだけで僕は安心するんだ。大丈夫。君はちゃんと安全で、寒くも冷たくもないところにいる、ってね。そう思うだけで、僕はずっと頑張れるんだよ」
まるで自分に言い聞かせるように呟いたエルゥは、ゆっくりと持ち上げた片手をぎゅ、と握った。それはとても静かで、……けれど何か身体の中央にしっかりとした核、みたいな揺るがないものを持った人特有の力強さがあった。
「……エルゥは、まだ頑張るの? もう沢山、頑張ってるじゃない」
「ふふ。ありがとう。でも、まだだよ。まだ全然足りない。足りないから、……君の十年を奪うことになったんだ」
「それは違う、って言ったでしょ」
だってあんなに、幼かった頃のことなのに。
武器を持つ大人を相手に、子供二人が何ほどのことをできるだろう。それでエルゥが自分を責めるのはお門違いだ。
そう思うけれど。
「でも、君は僕を守ったよ。……不甲斐ない話だ。僕は君から家族も、幸せも、安全も、何もかもを奪って生きてきたんだ」
エルゥは首を振る。その影を落とした横顔が遠くて、アーシェは胸の前にぎゅっと自分の手を引き寄せた。
「……エルゥは」
そこ、が、ぽっかりと穴が空いたように寒い。
「だから私に求婚なんてしたの?……責任を取るために」
「え?……ちょ、ちょっと待って。どうしてそういう話になるんだ!?」
「だってそうじゃない。他に理由なんてないでしょ」
「誤解だ! どうしてそうなる!? 君はいつもびっくり箱みたいだけど、こんな驚きは求めてないよ!」
「だってエルゥは―――」
以前から、時折得ていた違和感。
両脇に腕を差し入れて持ち上げてみたり、顔を寄せて微笑みながら頭を撫でてきたり。それは全部、思い出した今となっては彼にとっても自分にとっても、懐かしいもので。
「―――私のこと、小さなアーシェって思ってるでしょう?」
そう、全部。あの閉ざされた宝石箱のような月瑛宮で、幼いエルゥが、幼いアーシェにしてきたことだった。大人になった、と口ではお互いに言うけれど、どうしたって、あの頃の続きにしか思えない。
「それは……、うん。……ないとは言えない……な」
「ほら、ね」
エルゥの中に居るのは、今の自分ではない。兄と二人、きっと彼にとっては一番に輝いていたのだろう季節の中にいた小さなアーシェだ。
それは確かに過去の自分だった。けれど、もうその子供は、アーシェの中のほんの小さな一部でしかない。まるきり違う、とまでは多分言えないのだろうけど、それでも。
「だったら、無理だって解るでしょ。……全部思い出しても、ここにいても。私はやっぱりただの村娘で、ただのアーシェ・ゲニアのままだよ。公爵令嬢のお姫さまには、もうなれないの」
―――そうだ。やっぱり結論は、そうなってしまうんだ。
エルゥのことは好きだ。できるなら一緒にいたい。他の誰かがこんなふうに優しく、エルゥに包まれてしまうのは絶対に嫌だし、もう自分はそうしてはならないと思うと胸が潰れそうになる。それでも、自分はお姫さまになんかなれない。
私は、私で生きていく。その気持ちだけはずっと変わらずまるで芯のように、アーシェの身体の真ん中を走っている。
「だから、もういいよ。責任なんて、感じる必要はないんだよ。むしろ誇ってよ! あなたは、あんなに小さな女の子にさえ守られる価値のある人なんだって。それだけ大事なんだって。それで充分じゃない」
自分へ言い聞かせるために、アーシェはそう続けた。エルゥには、やさしくて暖かいものを沢山、両腕には抱えられないほどにもう貰った。
もう誰もいないと思っていたはずの家族、温かいお茶、包み込んでくれるショール。まなざし、大切だよと囁きかけてくるような仕草。きっとそんなに大切なものばかりを贈られる子なんて、そうそういない。
それは物語に出て来るどんな豪華なドレスより、宝石より、ずっとずっと尊い物だ。それがあれば、これからだってずっと、自分の足で立っていける。
それに。
(エルゥが、この先誰かを王妃に迎えたとしても)
私は、ずっと彼の幼馴染みで、妹のような存在で―――それだけは、誰にも変えられないから。
「……全然、足りないよ」
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