第二節

 始めは、孤独な戦いだった。


 アーシェが連れ去られてからの一月。エルゥはその間ずっと、寝台から出る事さえ叶わなかった。

 元々が、蒲柳の質である父に似て虚弱な体質だった。頑健な母に似ればどれほど良かったか、と健やかに育っていく二つ上の従兄弟を眺めながら、発達さえ遅れている自分を半ば諦め気味に放り投げていた。仕方がない。それが口癖だった。

 だけど、その諦めが自分から、大切な少女を奪っていった。

「強くならなきゃ、だめだ。……だめなんだ」

 そうでなければ、何一つ守れない。

 微熱の続く、自分の思う通りには少しも動かせない身体に焦れながら、寝台の中で痛いほどそう思った。

 アーシェ。三つ年下の、天真爛漫なただ一人の従姉妹。

 初めて出会ったのは、彼女が三才、自分が六才の頃だった。その時既に、エルゥは王太子である自分に倦んでいた。

 宮廷は口さがない雀たちでかしましい。

 たった一人の王太子がこんなに虚弱で大丈夫なのか。あの蛮族の王妃が産んだから出来損なったのだ。そんな声は、耳を澄まさずとも聞こえてきた。

 それなのに皆、顔を合わせると恭しく機嫌を取ってくる。誰の何を信じたら良いのか、それとも、誰も信じないでいろとでもいうのか。身体の発達こそ遅く、いつも痩せて身体付きは貧相だったが、エルゥの内面は大人びて聡明だった。王族に生まれた自分を諦めるのに、そう時間はかからなかった。

 僕は、皆の望む通りに王子としてそつが無く振る舞っていればいいんだ。僕の気持ちなんて、誰にとっても関係のない、どうでもいいものなんだ、と。

―――それを全て、覆したのがアーシェだ。

 三才のアシュレイは、もう既に物怖じしない子供だった。出会った最初からきらきらした、汚いものなど世界にないと言いたげな瞳で、おそれげなくエルゥにぶつかってきた。

 エルゥ。舌っ足らずの甘い声が、語尾を丸めるようにして自分を呼ぶ。機嫌が悪ければ膨れ、悲しければ泣き、ちょっとのことで理不尽に怒ったりする。そうして、いやなものだめなものを臆さず口に出し、声を上げて全身で笑う。そんな彼女の姿は、エルゥにとってまさしく、混じりけのない光そのものだった。


 その彼女、を。


 奪われた。自分に力がなかったばかりに。諦めて何もやろうとしなかったばかりに。

 身体の弱さを諦めて、ユージィンのように剣を取ることもしなかった。せめて帯剣していれば、せめて剣を振るえたら。警備兵が来るまで、アーシェを守れたかも知れない。少なくとも、彼女に自分を庇わせるなんてことにはならなかった。

 強く。……強くならなくちゃ、だめだ。

 動けない寝台の上、開け放たれた窓からは初夏の匂いを風が運んでくる。湿った土と、青い葉の清々しい匂い。その匂いの中で一月、エルゥは熱にうなされながらただ後悔の日々を過ごした。……だから今でも、初夏の緑の匂いは苦手だ。

 そうして、やっと起き上がれるようになった時、カータレットが彼女を諦めたことを知った。

 僕のせいだ。僕が王子だから。ただ一人の、国王の世継ぎだから。

 なりたくもなかったそんなもののせいで、アーシェを奪わせた。カータレットの家からも、あの愛情に溢れた家族からも。なんて―――なんて罪だ。小さな背中には負いきれそうにないほど、重く、大きい。

 強く、ならなければ。

 そうして、あの子を取り戻さなければ。それは誓いとなって、それからの彼を支えた。

 寝台から離れられるようになってすぐ、エルゥはカータレット公爵アナステシアスの元で、剣の指導を受け始めた。

 最初の頃は疲労で寝つくこともあったが、十二才を過ぎると、身体の成長によって体力がついたのか、人並みに健康にもなってきた。そのおかげで、稽古に充分励めるようになった。

 そうして、身体が健康になり始めたからこそ、今度は自分を守る術を身に付けなければならないと考えた。アーシェが奪われる以前にも、それ以降も。月瑛宮では毒味役が何人か死んでいた。もう自分のために、誰かを死なせてはならない。だから身体を毒に慣らす訓練を始めた。もうある程度の毒では、そう簡単に死んだりしない。

 そうして時が過ぎ、アーシェが連れ去られて四年。

エルゥが十四才になった頃には、アーシェのことはもう完全に過去の事として葬られていた。誰もが彼女はもう死んでいる、と思っていた。だけど、エルゥだけは諦められなかった。

 やれることはまだあるはずだ。剣も修めた、毒殺の危険もだいぶ減った。そろそろ、ラヴィニアの足取りを調べ始めなければ。そう思うのに、王太子であるが故に、エルゥには身の自由がなかった。……








「食欲もお戻りになったようですね」

 夕食を終えたエルゥの皿を見て、ウィルフがいつもの無表情な、それでいてどこか安堵したような声で呟いた。

 どうにか寝台からは離れたものの、まだ全快には程遠い。それでもエルゥはこの月瑛宮に、王都に居る限りは王太子としての職務を果たさなければならなかった。ここ二、三日は少しずつながら、既に公務に復帰している。

「さすがにな。食わねばもたない。やるべきことは山積してる」

 エルゥはその儚げな容貌から、未だに体の弱い王子、と周囲に思われている。その細身に仕立てられた衣服の下は、引き絞ったような筋肉がみっしりと詰まっているにしてもだ。

そしてエルゥも、あえてそう誤解させるよう振る舞っていた。寝込んでいる、の一言で人前に出なくなっても、誰にも不自然に思われないで済む。

王太子である自身が暗躍しなければならない、それこそが、彼にとっての苦い現実だった。自分には、信頼できる味方が少なすぎる。

それでも、十五の時にこの側近、専従護衛官となったウィルフに出会ってからはかなり行動の幅が広がった。今のところ、カータレット家のトリストラムを除けば恐らく唯一の、何もかもを信頼して委ねられる臣下だ。

「ご夕食がお済みの後も、働かれるおつもりですか」

「明日はオークリーの大使殿と会食の予定がある。準備をしておきたい」

 非難がましい視線を向けてくる側近に、少しばかり苦笑した。出会ったきっかけを思えば、随分と変わったものだ。

 だが、側近はそんな主君の気も知らぬ気にさらりと続けた。

「私が揃えておきます。そろそろお休みになられますよう、我が君」

「それはありがたいが、……ふふっ、やっぱりお前、随分過保護になってしまったな。僕を殺しに来たはずなのに」

「暗殺者を側近に据える主人には似合いかと」

 だが、ウィルフは動じなかった。しゃあしゃあとそう言ってのける。これにはもう、エルゥも降参するしかない。

 出会いが何であれ、今となってはもう、ウィルフは自分の一部のようなものだ。この五年、彼が行動で示してくれた忠誠がなにものにも替え難いものであれことは、エルゥにもよく解っている。

「……まあ、色々な事があったからね」

「ええ。病弱を装い続けて寝込んでいても不審がられないよう細工したり、その上で寝付いていると装って王都を出たり。まさか国中をしらみつぶしに探すおつもりだったとは、あまりにも効率が悪くて目眩がしました」

「手がかりがなかったんだよ。仕方がないだろ」

「殿下のお目がお悪かったものかと。実際、俺の調査では掴めたのですから」

「ラヴィニアは賢い人だったよねー……本当にねー……」

 必ず殿下にお返しします。あの時、ラヴィニアはそう言った。

 そうして、彼女は約束を果たしたのだ。針の穴に通す糸がごとき細い細い足跡と示唆とを、アーシェに繋がる者にしか気付けないように残していた。

「あの村で、アーシェの名前を聞いた時には虚を突かれた。彼女がアーシェと呼ばれていたことを知っているのは、彼女の家の者だけだ。カーティス叔父でさえ知らない。その上、ゲニアだって? イフィゲニアとアーシェを結びつけられるのは、どうしたって僕たちしかいないんだ。更には、それなら彼女自身にも違和感を覚えさせない。……なんて偽名を考えたのかと思ったよ」

―――お嬢さまは、必ずお返しします。殿下。必ず、この命に替えても。

 それは、或いは、彼女の贖罪であったのかも知れない。

「……………」

 ふー……、と長い息を吐き出して、エルゥは椅子へ身体を預けた。


……始めは、孤独な戦いだった。


 アーシェを探す。絶対に、この手に取り戻す。

 そう誓ってはいたものの、誰も頼れる者はいなかった。カータレットは動けない。そして自分には、味方が少ない。だから自分一人で動けるように、まずは鍛える事から始めなければならなかった。

 そのうちに、ウィルフが来た。そうして、自分の動きを不審がったユージィンが、不在をごまかしたりオントーを拠点に出来るよう手配したり、協力をしてくれるようになった。諦めろとは何度も言われた。だけど、絶対に諦めるものかと歯を食いしばった。それはむしろ、エルゥを生かすただひとつの意味だったからだ。

 叶っただけでも僥倖であるというのに、まさか、その上にだ。

「……恨まれないとは、思わなかったな」

 きっぱりと言い切ったアーシェの姿を思い出す。まさかこの打ち明け話を、ばかなの? という一言で切り替えされるとは思わなかった。

「……僕はこれ以上を望んでも、許されるのかな……」

 それは、応えを待つ呟きではなかった。少し前までは、とても考えられなかったことだ。ただ彼女が生きて、健やかに笑ってさえいてくれればとしか願いなどなかった。それ以上を望む資格など、自分にはないと心から信じ込んでいた。

……でも、今は。叶ってしまった、もう一度彼女に出会ってしまった、今となっては。

「あなたはご自分の為には、何一つ望んだことなどないでしょう」

「それはさすがに過大評価というものだ」

 笑って、エルゥはかたりと椅子から立ち上がった。どうやら今夜、これ以上の仕事はさせて貰えないらしい。

「ごちそうさま。……少し出てくる」

「我が君」

「大丈夫だ。散歩してくるだけだよ。例のところだ。……会えなくても少しだけ、眺めてきたい。気が休まる」

 ここが妥協点だ、と悟ったのか、側近は溜息ひとつで納めてくれた。だが。

「では、外套をお持ちします。まだ夜は冷えますので、お使いください」

 そう続けたものだから、お前はやっぱり過保護だと、またエルゥは笑ってしまったのだった。




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