第一節(後)

 帰宅すると、月瑛宮襲撃事件の事後処理に奔走していた父と母とが二人の帰りを待っていた。顔を見るのも、随分と久し振りだ。

「アーシェ! ああアーシェ、良かった……! 元気になったのね!」

 開口一番、そう叫んでまたも飛び付いてきたのは母、アレシアだった。さすがに今回は受け止めきれないかもしれない、と怯んだアーシェをさっと後ろに庇って、代わりに受け止めたユージィンの動きこそ白眉だ。

「お前じゃないわよユーグ! どきなさい!!」

「母上。アーシェはまだ本調子じゃないんですよ。折角思い出したのに、後頭部を打ってまた記憶が……なんてことになったらどうするんですか。怒りますよ」

「私の娘がそんなにやわなはずないじゃない。お前に怒られても怖くなんかないわよ!」

「俺じゃない。エルファがです」

「えっ」

「それはもう怒るでしょうね。泣いて謝っても許してくれませんよ」

「……わたくしとしたことが、足を滑らせたのね。受け止めてくれて助かったわ、ありがとうユーグ」

 その変わり身と言ったらなかった。……記憶の中の母は女神もかくや、と思う位に美しく、王妹して、公爵夫人として尊敬と崇拝を受けるに相応しい貴婦人だったはずなのだが。こんなに面白い人だっただろうか。

「……ふふっ」

 思わず、アーシェは笑った。ああ、そうだ。こういう人たちだった。私の家族。

 目の前で繰り広げられているこの光景も、エルゥが取り戻してくれたもののひとつだ。やさしくて暖かい、私を包んでくれるもの。

「……アーシェ。話はもう、殿下がお話し下さったと思うが……」

 微笑むアーシェに、しかし父が向けた顔は苦く苦しいものを滲ませていた。

「私は、お前にどれだけ詫びても足りない。……アレシアも、ユーグにも、泣いて懇願された。その上で、お前を諦めたのは私の判断だ。だから、恨むなら私だけにしておくれ」

 こんなことは、頼めた義理でもないのだがね。そう続けた父に、母は首を振る。

「何を言うんです、アーニー。あなただけではないわ。……わたくしも責められるべきです。アーシェ、結局わたくしは母でありながら、お前を護れなかった。王国を……殿下を選ぶしかなかったのですから」

……ああ、まったくこの人たちは。苦笑するアーシェがちらり、と見上げると、兄は同じように苦笑を浮かべながらゆるゆると首を振っていた。

「母上、父上。アーシェに怒られますよ」

「当然だ。この十年、諦めながらも私達は……」

「いえ、違います。ばかなの? と言われます」

「兄さま!」

 何でよりによってそこを!! 精一杯に難しい顔をしていたユージィンはそこで噴き出し、ぽかんとした顔をしている両親に向かって両手を浮かせて見せた。

「俺たちも同じ事を言って、アーシェに怒られました。ばかじゃないの、と。どう考えても悪いのは犯人だろうと。それでおしまい、だそうですよ」

 クッ、と喉の奥を鳴らして笑っている。人の恥ずかしいところを暴露するのはやめて頂きたい。じろり、アーシェが睨んでも何処吹く風だ。

「……大丈夫ですよ、ちゃんと解ってます」

 こほん、とわざとらしい咳払いをしつつ、アーシェは両親に向き直った。

「皆さんのほうが、ずっと苦しんだと思うんです。……だからもう、やめませんか。私、十年間、とってもしあわせに暮らしてきたんです」

「アーシェ……」

 今度は、まるでそっと壊れ物を包むように。

 母の両腕が伸びてきた。今はもう、アーシェよりもずっと小さい母の腕は、儚いほどに細かった。

「ラヴィニアは、あなたをとても大切に育ててくれたのよね。挨拶を見ただけで解ったわ。……あれは、カータレットの女だけに許される礼なのよ」

「え?」

 スカートをふわりと押さえ、広げ、片手を胸に当てる淑女の礼。

「本当はね、女性の礼は両手でスカートを整えるの。片手を胸に当てるのはカータレットだけ。この身は王の剣、王の盾だと誇りを持って示す、仕草なのよ」

 それは、騎士が片手を胸にあて、その心臓を捧げるように。

「エルファが言っていたわ。ラヴィニアは、絶対にあなたを返すと約束したって。命を賭けるって。……あなたが戻ったその先を、彼女はちゃんと見据えてくれていたのね」

「……母さんが……そんなことを考えて……」

 じわ、と目に涙がにじむ。母さん。母さん。慣れない田舎暮らしは、どれだけあの人にとって苦しかったことだろう―――そう考えて、ハッとした。

 目の前のこの人は、十年の間、自分の母であることを取り上げられていた人だ。その人の前で、奪った張本人である人を、母さん、なんて。

「……いいのよ」

 けれど、アレシアは寂しげに微笑みながらも首を振った。

「恨みがないとは言わないわ。それでも、……あなたをこんな素敵な女の子に育ててくれたのは、ラヴィニアだもの」

 そりゃ、私がお母様なのに、と思うわ。天使みたいだったあなたを、取り上げられたのは憎いわ。ずっとあなたの傍に居たことは、妬ましいわ。

「それでもね。……ラヴィニアはあなたの乳母だったけど、私のお友達でもあったのよ」

―――家族と同じように、同じ屋敷に暮らして、一日中顔を合わせていた同年代の女性。自分には解らない何かが、母と母さんの間にはあったんだろうか。

 呟いたアレシアは不意に顔をくしゃり、と歪めた。

「馬鹿ね、ラヴィニア。相談してくれれば良かったのに。……あと二年、生きていれば、もう一度会えたのにね」

 その白い頬にはらはらと涙が零れるのを、アーシェはただ黙って見つめていた。震える彼女の肩を、そっと父が抱いて自分の胸に引き寄せる。

「アーシェ。……お前はとても立派な女性に育ったな。我々よりもお前の方が、よほど前を見据えて歩いている」

「父さま」

「この十年、悔いるばかりだった。だがそれはもうやめにしよう」

 小さく笑って呟いた父の目も、僅かに潤んでいるように見える。兄が少し肩を竦めて、それに笑い返した。

「それが宜しいかと。……私を勝手に可哀相な子にしないで、と言われました。頭を思いきり殴られたような気がしましたよ」

「兄さま!」

 だからさっきから何でそういうところばかりを!

「……ああ。ああ、そうだな。本当にそうだ。お前を侮辱することになりかねないのだな」

「はい。だからこの上は、と俺も思い直しました。それに」

 この子は今、過去など見ているどころの話ではないですからね。そう続けたユージィンの口元が、ニヤリと悪戯に笑う。そうして彼は、今日一番の爆弾をここに至って遠慮なくぶち落とした。

「本日イーニアス殿下より、カータレット家長女イフィゲニアへ、ご求婚がございました。父上、母上におかれましても、お心に留め置きくださいますよう」

「……兄さまのバカ―――っ!!」

 何で! よりによって今!! それを!! 言うのか!!

「うおっ!?」

 自分を包むように斜め後ろへ立っていてくれた兄の足を、アーシェはそれはもう勢いよく踏み抜いた。村で履いていた布靴とは違って、ドレスに合わせた革靴の踵は堅い。ガッ、と鈍く重い音が響いて、瞬間、いつも落ち着いている兄のものとは思えないような声が上がった。

「っ……! 一撃くらうよりも痛いぞ……!!」

「自業自得です何で言うの!? まだわかんないって言ったのに!!」

 もうやだ恥ずかしい! ばか!! 兄さまのばか!! 顔を赤くして涙目になっているアーシェの正面では、父と母が顔を見合わせてやっとか、だの、まだしてなかったの? だのと好きな事を言っている。

「しかし、そうか。……殿下は改めて仰って下さったのか」

父がしみじみと呟いた。

「これから忙しくなるな。……アーシェ、我が家の全力でお前を送り出そう」

 これまで、何もしてやれなかった分を全て込めて。そう続けた父の、寂しさと慈しみとの入り混じった表情といったらなかった。だけど。

「いえあの、まだ決まった訳じゃないので」

 残念ながら実際はまだ、そんなところなのだ。

「―――え? どういうことなの?」

「あの、ですからその、お受けしますとはお答えしてなくてですね」

「……ふむ」

 父はふと、笑うのをやめた。存外に真剣な顔になって、アーシェを覗き込んでくる。

「何かお応えできない問題があるのかね?」

「何でお受けする前提なんですか。もう。兄さまも父さまも母さまも、皆して」

 三人はそれぞれの顔をふ、と見合わせた。そしてうっすらと微笑む。

「迷っているのかね」

「……解りません。いきなりそんなこと、って気持ちのほうが大きいです。だってやっと、色々解ったばかりのところなのに。そんな、け、結婚とか、しかも王太子妃とか」

 あ、でも。

「その……、おうちとしてはやっぱり、結婚した方がいいんですか? 兄さまはいいって言ったけど、その、政略的な何かとか」

「ああ。それは必要ないよ。私の代でアレシアさまが降嫁してくださったからね」

「政治的には、むしろうちの子じゃないほうが望ましいわ。王家とカータレットは近すぎるもの。でも、あの子にそれを言うのは酷よねぇ」

「じ、じゃあやっぱり、私じゃないほうが」

 言いかけて、アーシェは段々と自分の顔が下がっていくことに気が付いた。

―――私以外の、誰か。

 エルゥが、あの真っ直ぐな眼差し、やさしく包み込んで来るような暖かい視線を、私以外の誰かに向けるの……?

「……………」

 黙り込んでしまったアーシェにやれやれと肩を竦めて、ユージィンが少し笑う。

「アーシェには突然すぎるようですよ。無理もない。我々にとっては十年を経てやっと決着のついた話ですが、この子にしてみればこの騒動は、まさに今始まったこれからの話なんです。それにこの子の中身はね、村娘のアーシェ・ゲニアなんだそうですよ」

少なくとも気持ちはね。

「出自がそうだったと思い出したところで、急に公爵令嬢などになれるものでもないでしょう。ずっとそうやって育った訳でもないのですから」

「ふむ。そうもそうだな。……」

 父はつい、と顎先に手を当てた。少しの間、考え込む素振りで沈黙が降りる。

「アーシェ。お茶でも飲むかね?」

「今はいいです」

「そうか。じゃあ、良かったら私と、散歩でもしないかね。私にも、父親の気分を味あわせておくれ」

 この人がこんなことを言うのは初めてだ。

「はい」

「良かった。これで長年の夢が叶う」

 夢?

 首を傾げる間もなく、ス、と手を差し出してくる。

「娘をエスコートするのは、全ての父親の夢だ。さあ、お手をどうぞ。私の可愛い娘」

「はい」

 アーシェはちょっとだけ笑った。そうして、差し出された手に手を重ねる。

「ああ、ユーグ」

 そうして歩き出す直前、父は気懸かりそうに佇む兄を振り返った。

「今回ばかりは、お節介はなしだ。殿下のところへは行かないように」

「父上」

「これは二人の問題で、お前の問題ではない。いいね」

「……はい」

 そうして頷いた兄の顔を、アーシェは見る事が出来なかった。その前に、父がすぐさま歩き出してしまったからだ。

「え、あの、公爵さま」

「うーん、まだ堅いな。昔は歌うような声で、父さま、と言ってくれたものだがなあ」

「あっ、す、すいません」

「いや、いい。仕方のないことだ。追々慣れて貰えればいい。私は、お前が帰ってきてくれただけで充分だと思っているよ」

―――奪われてしまった時間は、もう二度と、戻ってこない。

 父にいざなわれて向かった先は、美しく手入れのされた中庭だった。いつも自室の窓から、見下ろしていた場所だ。

 もうじき初夏を迎える時節、中庭は草花が瑞々しく生い茂っていた。

早咲きの薔薇がふっくらと、その花弁を広げている。つるばらはまだ蕾のまま、それでも葉がアーチを鮮やかな緑に染めていた。

「……あの、」

 その中を、父娘は歩く。公爵の歩みはゆっくりと穏やかで、けれど何ものにも揺るがず力強かった。

「父さま……」

「無理に話す必要はないよ、アーシェ。ごらん、若葉が綺麗だろう」

「……はい」

「だが、無言というのも味気ないか。いかんな。私には経験が足りない。七年ほどしか、娘の父親だった経験がないんだ」

「……………」

「……すまないな。だが、お前はこうして帰ってきてくれた。殿下が取り戻して下さった。だからまたこれから、経験を積んで行こうと思うのだよ。我々には、失った時間よりもこれから先に広がる時間のほうが多い。そうだろう?」

「はい」

 公爵は悪戯に片目を瞑って見せた。敵わないなあ、とアーシェは思う。さすがの貫禄とでも言おうか、この人は、どっしりとしていて少しも揺るがなかった。その空気が、とても安心する。

―――わたしのお父さん……。

「……あの、父さま」

「うん? 何だね、娘」

「その……、さっき、生き方の問題、って仰ったでしょう。私、どう考えても自分が公爵令嬢とか、ま、ましてや王妃なんて、想像もつかないんです。だって私はやっぱり、ただの村娘だから」

「ああ。そうだね」

 全てを言い終える前に、アーシェが言おうとしていることを理解したようだ。公爵はふむ、とひとつ頷いて足を止め、ゆっくりとアーシェを見下ろした。

「アーシェ。まずお前は、『普通の公爵令嬢』ではないな」

「……はい」

 背中に傷もある。その上、貴族としてはまともな教育を受けてこなかった自分だ。そう思って頷いたアーシェの顔に、そっと大きな手の影がかぶさる。

「っ、!」

 刹那、ぴん、と額を突いて、公爵の手は離れていった。

「そういう意味ではない。あれも言わなかったかね? カータレットは『普通の公爵家』ではない、ということだよ。我が家に並ぶ家はない。これ以上の力も財も、我が家には必要がない。だから我が家に産まれた子供は皆、ある程度は自由に生き方を選べる。勿論、寄り添う相手も」

 ユーグを見なさい、と続けて、公爵はおかしそうに笑った。

「もう子供の一人もいていい歳だというのに、まだ意中の姫君の一人さえおらんのだからね。まったく……、お前や殿下の世話を焼いている場合かね、あれは。まず自分をどうにかせねばならんだろうに」

「父さまったら」

 アーシェはくすくすと笑った。そうか、兄さまが。意外だった。兄はもう、カータレットの次代としてしっかりした足場を築いている。その上、あの容姿だ。きっとご令嬢がたにも、随分人気があるだろうに。

「力というものは、アーシェ。そういうもののために使うのだ。誰かを動かすためではなく、自らを貫くために」

「自分を?」

「そうだ。……お前が奪われたのは、敵がお前を自由にしようとする力に、我々の守る力が及ばなかったせいだ」

「それは……」

「だが、瀕死の殿下を救ったのは、殿下を殺そうとする敵の力にお前の守ろうとする力がまさったからだ。違うかね?」

「……はい」

 では、結局、力の勝負になってしまうのだろうか。ただ強い方が勝つと、そんなふうに。

 顔を曇らせたアーシェの頭を、大きな肉の厚い手がぽん、と撫でた。

「カータレットは、とても大きな家だ。それは解るな」

「はい……」

「だから我々は、常に問わなければならない。その力は、いったい何の為のものなのかを。……アーシェ」

 力は、炎と同じものだ。

「誰かを温めることもできれば、誰かを焼き殺すことも出来る。炎同士の大きさを競っても詮ないことだ。大きな火が小さな火を飲み込もうと、結局火は火のまま変わらない。いつかは自分自身を燃やし尽くして消える。ただそれだけのものでしかない」

 そう続けて、じっ、と公爵は娘の目を覗き込んだ。

「お前の炎は、とても強い。誰かを温めることも、焼くことも、自分を燃やし尽くすことも。そのどれも出来るだろう。だから選びなさい。考えなさい。自分がどんな炎になりたいのかを」

 優しい瞳でふっ、と微笑む。そこには確かに、父の慈愛が込められていた。

 けれど、刹那。

「……そして私は、一族に誰かを燃やそうとする者が出るなら、より大きな炎を持ってその者を焼き尽くす。カータレットの当主が誰よりも強くあらねばならぬのは、そういうことだ」

 並ぶ者のない大きな家だからこそ。第二の王家、とまで呼ばれる強大な一族だからこそ。そのための力だ、と続けた父は、これまでに見た事がないほど厳しい目をしていた。思わず背中が震えたほどだ。

 口元を引き締めたアーシェに、再びふっ、と口元を緩める。

 そうして父は、いかにも愛おしげにアーシェの頬を撫でた。

「お前が未だ実感出来ていないことは解っている。無理もないことだ。それでも、お前は私の娘だ。私達はお前が選ぶなら、それが何であっても全力で支えよう。だからよく考えなさい」

 自分に何が出来て、何が出来ないのか。本当にしたいことは何なのか。そしてそれは、誰のためのものなのか。

「お前は間違わないと、私は信じているよ」

「本当に、そうでしょうか。間違えないで出来るのかな」

「出来るとも。アーシェ。お前は私の、自慢の娘だ」

 またくしゃり、とアーシェの髪を撫でて、それからゆっくりと、再び公爵は歩き出した。

「さて、堅苦しい話はここでおしまいだ。庭を楽しもうじゃないか。夕暮れのここはとても美しいのだよ。夜も中々に風情があって良い」

 赤く空を染め始めた夕陽に、まだ若い緑がうっすらと染まっていく。確かにその風景は、見入ってしまうほど鮮やかだ。

「わあ……」

「夜は夜で、月光がとてもよく映える。考え事をするには良い場所だ」

「はい。ありがとうございます」

 それから二人は、空がすっかりエルゥの瞳の色に染まってしまうまで、少しの間散策を楽しんだのだった。




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