第六章
貴族じゃなかった若さまがとんでもないことを言い出した件
第一節(前)
ガタゴトと馬車が揺れる。
座席へ敷き詰められたクッションにすっかり埋まって、アーシェは窓の外を眺めていた。
ここへ来た時にはまだ色の浅かった木々の葉が、段々とその緑を深くし始めた。木漏れ日が降る。きらきらと粒のようにきらめく。ああ、あの時に見た森の光とおんなじだ、とぼんやり思った。
「アーシェ」
「……うん」
「アーシェ。隣に行ってもいいか?」
正面に座っていた兄が、少し困ったように微笑んだ。少し迷ってから、小さく頷く。
「ありがとう」
ギ、と狭い馬車の中で腰を浮かせて、席を移る。背の高いユージィンは屈んだままでも天井に頭をぶつけてしまいそうで、ほんのちょっとだけ笑った。
アーシェの笑い顔に、兄も少しだけほっとしたような顔になる。そうして隣に腰を下ろすと、クッションに埋まったアーシェの片手をぎゅっと握った。
先刻、包まれたエルゥの手よりも、もっとずっと大きくて肉の厚い、硬い掌。だけど。
「……兄さま、昔もよく、こうしてくれたよね」
「そうだな。……お前はちょっとだけ、変わったな。膝を抱えなくなった」
「もう子供じゃないもの」
「ああ。お前も俺も、エルファも。もう大人だ」
それでも、あの頃のように繋いだ手が頼もしい。そこだけは変わらない、と考えて、アーシェは小さく微笑んだ。ああ、そうか。同じなんだ。憶えている。
自分がカータレットの公爵令嬢だ、なんて実感は実のところ、あまりない。思い出した今となってさえ。それでも、アーシェ・ゲニアの中にイフィゲニアの欠片がある。別物ではなく、溶け込んで、混じり合って、ひとつになっている。
「エルファと結婚するのは、嫌か?」
覗き込んでくる兄と目を合わせられなくて、アーシェはそっと顔を伏せた。
「わかんない。……だって嫌とか、そういうの以前にエルゥは王子さまでしょ。それに私より三つも年上だわ。もうとっくに婚約者とかそれこそ奥さんとか、いないほうがおかしいと思うんだけど」
「居る訳がない。あいつはずっと、お前しか見てなかった」
「……嘘よ」
「嘘じゃない。解らないか? 誰もがお前をもう死んだものと諦める中で、エルファだけが、お前をずっと探し続けてきたんだ。十年近くものあいだ、一人でずっと。そんなことが、他の誰かを愛しながら出来ると思うか」
「それは……、だって多分、償いとか……負い目とか、そういう、もので。求婚だって、多分」
だって、私は多分、これからも結婚なんて出来ない。誰とも。
この背中の傷は消せないから。貴族の娘だというなら尚更だ。だからきっとエルゥは、その罪滅ぼしのために求婚した。……ああ、そうか。
エルゥはやさしいから。きっとそのためだったんだ。
「責任、を、……とるために……」
ああ、惨めだ。自分で言っていて思った。これほど惨めなことはない。じわ、と視界が滲みかけて、唇を引き結んだ。こんなことで、泣いてなんかやるもんか。
「それは違う。むしろ、お前があいつの罪悪感を否定してくれたから、あいつはやっと言い出せたんだろう」
すり、と親指が、繋いだ手の甲を撫でる。その仕草がやさしかった。そうして、続ける兄の声はとても静かだ。
「……あいつはずっと、お前から何もかもを奪ってしまったと自分を苛んでいたから。お前がああ言ってくれなかったら、その上、お前に何かを望むなんてことは絶対に出来なかったと俺は思う」
「じゃあ、どうして? 他にエルゥが私に求婚なんて、する理由がどこにもないじゃない」
拗ねたような口調で言い返したアーシェに、ユージィンは大きく目を見開いた。
「お前、それ本気で……いや、そんなはずは。どう見たってエルファはお前を、お前だけを愛しているだろう」
「言われた事ない」
「は?」
「好きだとも、あ、愛してる……とかも、言われた事なんて、ない」
エルゥはいつもかわいい、とかきれい、とか、歯の浮きそうな褒め言葉をくれたけど、一度だって好きだなんて言わなかった。
思えばあの村に居た時から、そう、出会った時から。
エルゥはけして嘘は言わなかった。その代わり、本当の事も上手に隠していた。だからそういうことなのだと思う。彼の場合、言葉に出さなかったことのほうが、きっと重要なのだ。
だけど、そう言った瞬間。
「何やってんだあいつは!」
急に大きな声を出して、ユージィンが天を仰いだ。お手上げだ、と言いたげに額を手で覆って、そのまま天井を見上げている。ああそうか、でもあいつの性格なら言えないか。ぶつぶつと口の中で独りごちている姿はちょっと不気味だ。アーシェは恐る恐る隣を覗き込んだ。
「に、……兄さま……?」
「いや、ああ、うん。それは一旦おいておこう。……だけどまあ、アーシェ」
俺は、お前の「エルゥはきっとこうだ」っていう話ばっかりで、お前がエルファをどう思ってるのかは、まだ聞いてないぞ。
「誰にも言わない。剣に誓う。だから、素直に言ってごらん、アーシェ」
お前は、いったいあれのことをどう思っているんだい?
間近からじっ、と顔を覗き込んでくるユージィンの瞳は、穏やかな微笑みを湛えていた。
やさしい微笑み。それは幼い頃、記憶の中の兄とまったく同じだった。そうだった。こうやって座り込んでいると、必ず兄が隣にやって来て言うのだ。アーシェ、アーシェ、誰にも言わないから兄さまにだけ言ってごらん。……
「……絶対、言うでしょ。エルゥに。仲良しだもの」
「馬鹿な。可愛い妹と可愛くない親友、どっちを取るかなんて決まりきってる」
親友。
「エルゥは可愛くないの?」
「あいつのどこが可愛いんだ? 全然解らん」
……そうか、兄さまにとってエルゥは従兄弟である前に親友なんだ。……いいなあ。
私も、そうなりたかった。友達が良かった。そうしたら。
「……わかんない」
こんなに悩まなくても良かったのに。ただまっすぐに、大好きよときっと言えた。
「エルゥは特別なひと……なんだと思う。だから剣の前にも飛び出せたの。小さな頃も……この間も。だってエルゥはいつもやさしくて、」
穏やかで、微笑んでいて。
綺麗なドレスも、宝石も、そんなものじゃなくて。羽布団やショール、良い匂いのするお茶、そして取り戻してくれた、この家族も。……いつも、いつだって、身体や心を温めるものばかりをくれた。
そうやって、包み込んでくれる。大切に、大切にしたいと、そう聞こえてくるようなものばかりを、笑顔で差し出してくる。
解ってる、ずっと大切にされてきた。そして何より寒い朝を、ひとりぼっちの夜をいつも温めて、傍に居てくれた。
優しい人。だけど、奥の方に絶対に踏み込めないような強い、芯のようなものを持っている人。曲げない人。だけど結局、一人でばかり戦ってしまう、寂しい王子さま。
―――そんなの、好きにならずにいられるわけが、ない。
「でも、……でも私は、……背中に傷だってあるし。そもそも、ちゃんとしたご令嬢でもないから」
「お前はカータレットのお姫様だぞ?」
「生まれはね。……でも、中身は結局、ただの村娘のアーシェ・ゲニアよ。だってそっちのほうがずっと長かったもの。これが私だもの」
「うーん……」
ユージィンは唸って、ガリガリと前髪を掻き混ぜた。ほら、やっぱり。大事なのは生まれや肩書きじゃない。今どうあるか、なのだ。
そう思ったけれど。
「アーシェ。それは、あいつに直接聞くんだ」
「え」
思いがけず、ユージィンはそんなふうに言って、またアーシェの髪をくしゃりと撫でた。
「それって?」
「どのお前に求婚したのかを、だよ。カータレット公爵令嬢イフィゲニアになのか、自分を庇った幼いアーシェになのか、……それとも、村で暮らしてきて今も剣を離さない、ここに居るお前、アーシェ・ゲニアなのか」
「……………」
「答え次第では、今度こそすっぱりお呼びじゃないと言ってやりなさい。何なら、俺が二、三発くれてやってもいい」
「そんな。……だって王太子にそんなことをしたら、……あ、あれ? もしかしてエルゥが私にその、き、求婚したのって……政略結婚とか?」
「そんなもの!」
からり、と兄は笑う。
「アーシェ、我が家はカータレットだ。そんなものをする必要はどこにもない。何せこれ以上、上り詰めようがないからね。それにさっきもエルファが言っていただろう、お前の王位継承権は俺に次ぐ第五位だ。解るね? お前も、ある意味では王族なんだ。つまりこの国の誰も、陛下だって、お前を無碍にはできないんだよ」
「ちょっ、えっ、あ、そういえば……!」
顔を青ざめさせたアーシェに、ユージィンはおや? と不思議そうに首を傾げた。
「やっぱり聞き流してたのか。以前、言っただろう。俺は王位継承権第四位だと。一位が王太子であるエルファ、二位が王弟カーティス大公、三位が母上、……そして第四位が俺、第五位が妹のお前だ。陛下にはご兄弟が大公と母上のお二人しかいないからな」
「そんなの無理! 絶対、絶対に無理! 継承権とか王族とか別の世界!! いらない!!」
「いらないと言って返せるものでもないがな。ハハ、でもまあ、建前だけだ。俺たちの代には、エルファがいる」
あいつより王に相応しい者など、どこにもいない。
そう続けた兄の横顔は、誇らしげでさえあった。そうか、兄さまは信じているんだ。エルゥを絶対の主君として、親友として、剣を捧げるに足ると―――信じているんだ。
「あいつはいい国王になる。そう思わないか」
「……うん」
でも、だから。
「余計に無理だよ。私に王妃なんて」
「そうかな」
ユージィンは幾分晴れやかな顔で、ハハ、と軽く笑った。
「案外、向いているかも知れないぞ。……一人で考えるのはやめなさい。そして、エルファにちゃんと聞くんだ。二人のことなんだから、一人で結論を出してはいけないよ」
「うん……」
「大丈夫だ。どうしても嫌なら、兄さまが連れ出してやるからな。二人でしばらく、国境警備にでも行こうか。お前にきちんとした稽古をつけてやる」
そんな、公私混同な。アーシェは苦笑したが、それが兄の優しさであることは勿論解っていた。だから、兄の逞しい肩に、こてん、と初めて、頭を落として寄りかかった。
「……ありがとう、兄さま」
「俺はいつでも、お前が一番幸福であるように祈っている」
勿論、いざとなったら実力行使も辞さない。そう続けて額に、やわらかな口付けを押し当てる。
台詞の物騒さと仕草のやさしさが、酷くちぐはぐだ。とうとう声を上げて笑ったアーシェに、ユージィンもやっと、ほっとひとつ、安堵の息をついた。
「今日は大変だったな」
「うん。……知らなかったことばっかりだった」
誰よりも当事者のはずなのに、自分だけが何も知らず、しあわせに生きてきた。そのギャップが何だかおかしいし、それだけ、ずっと大切にされ続けて来たのだとアーシェは思う。
「逆に申し訳ないくらい」
あ、でもひとつだけまだ、解らない事がある。
「何で皆、最初に教えてくれなかったの? まあ私は全部忘れてたんだけど、それにしたって」
逗留先、にカータレット家を選んだエルゥも、それを受け入れた家族も。誰一人としてアーシェに本当の事を話さなかった。今日から家族よ、あなたの家よ。それは受け入れ先が親しみを込めて言う台詞として何ら不自然ではない、ように思える。まあ、確かに、最初から異様に歓迎されているとは思ったけれどそれだけだ。
首を傾げるアーシェに、ユージィンはちょっと肩を浮かせて苦笑した。
「……エルファがな。憶えているか、前日、オントーで俺と顔を合わせただろう」
「あ、うん。そう言えば」
お世話になる先に、たった一度でも顔を合わせた人が居ると知ってちょっと安堵もしたのは確かだ。頷くアーシェに、ユージィンはますます困ったように微笑んだ。
「先に手紙で知らされてはいたんだ。お前が何も憶えていないと。それでも、やっぱり俺たちにはエルファほどの覚悟はなくて……まず実際に目にしてなかったから、というのも大きいが。あの時、釘を刺されたよ。絶対に思わせぶりなことをするな、とな」
「どうしてそこまで」
「エルファも悩んだらしい。でもな」
殺されかけた記憶なんて、ないほうがずっといいじゃないか。
「……あいつはそう言ったんだ。心理的瑕疵になっていてもおかしくないのに、お前は全部忘れていた。それはおそらく、幼いお前の心を守る為でもあったんだろうと。だから無理に思い出させる必要はないし、もう何一つ、つらい思いもさせたくないと言っていた」
「でも、それじゃ、……エルゥも兄さまたちも、余計につらかったんじゃ」
「俺たちは、お前の為ならどんなことでも耐えきろうと思っていたよ。エルファこそ耐えていたしな。……そのエルファが、お前を一番に考えているんだ。アーシェはアーシェだけど、アシュレイ・イフィゲニアじゃない。彼女には新しい彼女の人生があるんだ、僕たちの浅ましい願望を押しつけてはだめだ、と。それ以上、俺たちには何も言えないよ」
ハハ、それにな。と肩を浮かせて、思い出し笑いをする。
「後から知ったんだがな、父上も母上も、随分絞られたらしいぞ。ほら、お前を部屋に案内している時に」
「あ、先にお茶をって言ってた時?」
「そうだ。案内した後、俺は先に戻っただろう? あの時な、あからさますぎる! と散々に怒られたらしい。母上が涙目になっていた」
「そんなに?」
「あいつ、怒ると容赦がないんだ」
「ちょっと想像出来ないなあ。……」
アーシェにとって、エルゥはいつも穏やかで優しい人だ。敵に対しては苛烈なのかも知れない、と最近は解ってきたが、身内にまでそういう顔をするところは想像がつかなかった。
「想像が出来ないっていえば、エルゥの姿もだよ! 何なのあれ!? まるで別人じゃない!」
変装をやめたエルゥは、どこからどう見ても出会った時の彼とは別人だ。
あの妖精のような母の甥に相応しく、妖精の国の王子さま、といった風貌をしている。細身なのに鍛えてあって、銀色の髪はさらさらしていて、夜空色の瞳は相変わらずきらきらだ。
ちょっとアーシェなどは正視できないくらいだった。兄といい母といい、とんだ美形家族じゃないか。自分に同じ血が流れているとは思えない。そうか自分は父似か、いや公爵も渋いおじさまだけど。普通に人間の範疇だ。なるほど納得した自分が平凡な訳だ!
「あれはお前用に、というんじゃなくて、まあ、あいつのお忍び用の変装だな。カツラだけじゃ顔でバレるからと、試行錯誤の結果らしい」
「まさか体型まで変わるとか思わないよね!?」
「最初に見た時は大笑いしたが、あいつ、そこまで笑われるくらいなら成功だねなんて飄々としててなあ……思い切りが良すぎるんだ、色々と」
あの村を出てから、まだ、一月さえ経たない。
だけどその間に、なんとめまぐるしいことだったろう。知らなかったこと、忘れていたこと。早朝、朝焼けに照らされて朱に染まる緑の絨毯を眺めながら出発した時には、想像さえできなかった現在がここにある。
……ああ、私は、本当に何も知らなかったんだな……。
もう一度そっと目を閉じて、アーシェは嘆息した。知るということ。そこから広がる選択肢。沢山の可能性。
(……先生)
アンセルムは、いったいどこまでを見越してアーシェに学問を授け続けていたのだろうか。ふと、そんなことが気に掛かった。
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