第四節(後)

「え、」

「アーシェ……?」

 思いも寄らない呟きに、エルゥが目を丸くする。思わず、といったふうにユージィンが顔を上げた。

「ばかなの? って聞いてるんです。私ちっとも解らないんですけど。だって、それって全部しょうがないことでしょ! ばかみたい!! 俺が悪いとか僕のせいだとか罪悪感を奪い合ってどうするの? 決まってるじゃない、悪いのなんか犯人一味よ。それ以外にないじゃないの!!」

 あなたたちの中で、悪かった人なんて一人もいないわ。

「関わった全員が、自分の責務を果たしただけの話でしょ。悪いのは犯人!」

 はいおしまい!! とアーシェは立ち上がって、勢いよくパァン、と手を打ち鳴らした。その高い破裂音は、その室を重く埋めていた空気を打ち払うかのように、一瞬で見事に塗り替えてしまった。

 窓からは、どんなに悲壮な話をしていた時でも変わらず、春のきらめくような陽差しが降りそそいでいる。いっぱいに、燦々と。

「……ハ……、」

 あはは、はは、はははははは。まるで堰を切ったようにエルゥが笑い出した。あまりの唐突さにぎょっとして寝台を振り返ると、エルゥは腹を抱えて身体を折り曲げながら大笑いをしていた。

「アーシェ、本当に……っ、き、君って人は……! ハハ、あはははは!」

「……アーシェ、」

「何よ! 本当のことでしょ? 勿論、気持ちが簡単に割り切れないのは解ります。でも私本人がそう言ってるんだから、それでいいの!」

 そうだ、それでいい。こんなにやさしい人たちが、もう十年近くも苦しんで生きてきた。そんなのおかしいじゃないか。だって当の私は、こうしてしあわせに生きてきたのに。

 もういいよ。もういい。誰も言わないなら私が言う。そもそも、その敵とやらが変なちょっかいをかけなければ私たちには何も起こらなかった。どう考えたって原因が一番悪いに決まってる。

―――だから、もう、終わりにしよう。もう、苦しむ必要なんてないんだよ。

 えへん、と胸を反らして見せるアーシェに、ますますエルゥは笑い転げた。笑って、笑って、涙が滲むほど笑って、そして。

「……ああ、アーシェ。やっぱり君は、……」

 僕の、光だ。

 その呟きは、けれど寝台を覆う天蓋に籠もってアーシェの耳には届かなかった。ふー、とひとつ大きな息を吐いて、力尽きたようにぼすん、とクッションへ埋まり直すエルゥのたてたちょっと大袈裟な音が聞こえて来ただけだ。

「本当に、敵わないな」

 それでも尚、しばらくエルゥはくつくつと喉を鳴らして笑っていた。そこまで笑わなくても。そう思って比較的静かな兄をちらり、見てみると、兄は兄でがっくりと落とした肩の中に顔を埋めている。二人とも酷い。

「あのね、」

 二人とも。そう言おうとしたアーシェの台詞を、寝台からの声が遮った。

「アーシェ。……敵はこれからも、君と僕を―――君たちと僕を、狙うよ」

 不意に突きつけられた現実に、息を飲む。アーシェにとってはやっと真相を知り得た過去でしかなかったものは、けれどしっかり現在に繋がっていた。

「黒幕は毎回同じだ。現国王アダルバート陛下の実弟、大公カーティス。継承権第二位の叔父上が、王位を狙って第一位の僕と、第四位第五位の君たちを狙っているんだ」

「カーティス……大公」

 村暮らしをしていたアーシェですら知っている名前だった。武人として臣下にくだり、近衛軍を束ねているカーティス大公。先王陛下によく似ていると噂されるその人は、穏健な現国王とは正反対な強硬派でもあった。

「……叔父上は昔から、陛下がお嫌いでね。残念な事に、王宮内にも叔父上を支持する一派がある。現宰相を筆頭とする派閥がそうだね」

「そんな……」

「父上は僕よりずっと身体がお弱いからね。僕も小さな頃は、虚弱体質だったでしょう? 父上は今でも、あまり無理が利かない」

「でも、陛下は賢王と名高いおかたじゃない。隣国との戦争だってもう随分起こってないし、」

「うん。でも、それこそが面白くない、っていう連中はいるんだよ。そういう連中が叔父上を支持してるんだ。好戦的な人っていうのは一定層、いるんだよね」

「……前線に出るわけでもない奴に限って、戦争ごっこが好きなんだ。自分が殺されるわけじゃないからな」

 苦笑しつつ言い添えた兄の台詞に、アーシェは顔を歪めた。―――なんてこと。そんな事の為に、誰かを殺してまで成り代わろうとしているのか。

「ユーグは比較的、簡単なんだ。ことが起きたら暗殺者の一個分隊でもつけて前線に送り込めばいい。あっさり殺せる。その上隠蔽も簡単だ……と思われてる」

「まあ、思うだけはタダだからな。殺されてやる義理もないが」

「君の場合はね。そしてあっさり死ぬだろうと思われていた僕だけど、これが案外しぶとい。油断していたら、のうのうと成人を迎えて今も生き残ってる。焦ったんだろうね、それが今回の襲撃に繋がった。今度こそ毒で弱っているだろうから、寝込みを襲えってね。……でもそれも、失敗した」

 そして君だ、アーシェ。と、エルゥは苦々しい声で続けた。

「……君が生きていることは、誰よりも一番、敵がよく知っていた。だってダンクワース子爵は殺せたけど、ラヴィニアは君を連れて逃げた。殺せなかったんだよ。敵も一枚岩じゃなかったからね。その中の一派が、数年前から君を探し始めた」

「私を……?」

「そう。君を取り込んで、都合のいい道具にしようとする一派がね。出てきて」

「……っ、バカにしないで!」

 ぞっ、と背骨に悪寒が走る。あの小さくのどかな村も、では、いつかは見付かっていたのだろうか。そう考えた時に、ふと気付いた。

―――変わらない日常。だけど急に、有無を言わさず、自分をここまで連れてきたエルゥ。あの強引さは、君の思うように、と口にするいつもの彼とはまったく違っていて……。

「もしかして……、私をここに連れてきたのも、そのせい?」

 一瞬、エルゥは口を閉ざした。ふっ、と苦い笑みが唇を歪める。

「そうなのね」

「……あの時は、本当にギリギリだったんだ。追っ手がもう近くまで迫って来てたから。本当はもう少し時間を掛けて、君に選んで欲しかったんだけど」

「宿に泊まらなかったのもそのせい? 朝、暗いうちから夜遅くまで、一緒にいたのも。私の家の周りで、ずっと見張っていたの? 誰かが来たら、すぐに解るように」

「……………」

 エルゥは答えなかった。ただ、困ったようにへにゃりと眉を下げて笑うだけだ。

「……エルゥ、あなた」

 アーシェはぎゅ、と膝の上でスカートを握り締めた。

 しあわせな思い出しかない、村の暮らし。そこからここ、王都へ向かう旅路も、ここに来てからの数日間さえ。いつでも、自分にはまっさらな希望しかなかった。心配なんて影は少しもささなかった。そうしてくれていたのはエルゥだ。その裏で。

「いったいどれだけ、私のために、……っ」

 無理をしてきたんだろう。神経を削って、周りに気を張って、どんな些細なことさえ気付かせないように。そんなふうにずっと、彼は自分を守ってきてくれていたのだ。

 だけど、エルゥは首を振る。

「アーシェ。そうじゃないよ。そうじゃない。……全部、僕がしたくてやったことだ。僕の我が儘だよ」

 エルゥの口調は淡々としていた。その分、彼が心底からそう思っているのだということをアーシェによくよく理解させた。

ばかじゃないの、とアーシェは思う。

 一番悪かった犯人を差し置いて兄と二人、俺が悪い、僕が悪いと言い合っていた、先刻とまるで同じだ。

「もういい」

 だから、その告白を受けて一番に湧き上がった感情は。

「……そうだよね。ごめん」

―――怒り、だ。

「何がそうだよね、なの? 私さっき言ったよね。罪悪感の奪い合いなんてしてどうするの、って。エルゥは全然解ってない!」

「え、」

「もう、誰が悪いとか、恨むとか憎むとか、そんなのいらない!! どうして皆、私の十年間をつらいものにしたがるの?」

「アーシェ、」

「もうやめてよ……。勝手に私を可哀相な子にしないで。罪の意識なんか持たないでよ。私は、楽しかったの。つらくなんてなかった。普通に、本当に普通に、生きてきたのよ」

 第二の王家、と言われるほどの大貴族や、ましてや王族から見ればそれはつましく苦労の多い生活に見えるかも知れない。不憫にすら思うのだろう。それでも、哀れまれるのは嫌だった。あの村で過ごした十年を、勝手に不幸なものにされたくない。

「……ごめん」

「悪かった」

 エルゥと兄はそれぞれに頭を下げた。

彼らの気持ちも解らないではない。それでも、アーシェにはどうしてもそのことだけが、許せなかった。

「……ね、もう、こんな話は終わりにしよう。これからの話をしようよ。だってもう、私はここにいるんだよ。それでいいじゃない。これ以上何か言う事があるとしたら、あとはもう、ありがとうってだけだよ」

 探し続けてくれてありがとう。諦めないでいてくれて、ありがとう。……大切にしてくれて、ありがとう。それだけだ。

「……………」

 ふー……、と長い溜息をエルゥが吐いた。溜め込んでいた何かを、全て吐き出すような吐息だった。肩を落としていた兄がハ、と顔を上げる。

「エルファ。お前はもう休め。……すまなかった、長居をしすぎた」

「いや、……」

「無理をするな。そうしていると、俺もあの頃を思い出す」

 いつも寝台で、ソファで、顔色を悪くして横になっていた銀色の子供。幼い頃のエルゥ。

 兄の言葉に、アーシェもそれを思い出した。……そうだ、あの日も。

 そうやってエルゥは、長椅子に横たわっていた。ぐったり力なく寝そべっていた青い顔と、飛び込んだ胸元から漂ってきた、薬の苦い匂い。

「エルゥ、やだ」

 いつもためらいなくその腕に飛び込んではいたけれど、エルゥの身体は兄と比べて折れそうに細く、薄くて、そしてひんやりと冷たかった。いつか目の前から消えてしまうのではないかと、幼心に心配で心配で―――だからあの日も寝込んでいる兄と看病している母に無理を言ったのだ。見に行かないと。私が、見に行かないと。

 そのまま、あっさりといなくなってしまいそうだったから。

「やだよ、エルゥ。ちゃんと寝て」

 思い出したばかり、だからだろうか。気持ちまでがあの時に戻ってしまったような感じがする。へしょん、と眉を下げたアーシェの様子に兄が眉をひそめ、エルゥが僅かに苦笑したのが解った。

「……アーシェ」

 する、と衣擦れの音がする。ふと顔を上げると、エルゥがよろよろと寝台から起き上がろうとしていた。

「エルゥ! だめだって、ちゃんと横になってないと」

 思わず立ち上がったアーシェに、アルゥはゆるゆると首を振った。そして笑う。

「大丈夫。……アーシェ、僕はもう、小さな子供じゃないんだよ」

 立ち上がった足下がふらついている。寝間着だろう、ゆるい下衣と襟元を着崩したシャツにはいつもぴしりとしている彼らしくなく、くしゃくしゃと皺が寄っていた。捲った袖から、力強そうに引き締まった腕が見える。ぱつん、と皮膚が張っていて、筋張った腕が。そして崩した襟元からはあの夜、そこだけ妙に生々しかった喉に浮き出た小さな骨も。

「アーシェ。ちゃんと見て。僕はもう、君より背だってずっと高いし、手だってこんなに大きいんだよ。もう、何も出来なかった子供じゃないんだ」

 ひや、と少し冷たい手が、アーシェの手をふわりと包んだ。骨張った大きい手。皮膚がごつごつしているのは、剣を使う者特有の堅さだ。アーシェの手がすっぽり入ってしまうほどの、手指の長い大きな手だった。

それでも、アーシェはいやいやのように首を振る。

「でも、……だって、同じ匂いがするもの。……」

「ああ、そうか。……そうだね。君はこの薬の匂いが嫌いだったよね」

 呟いたエルゥの口元が、小さく笑っていた。そうしてぐらり、とその身体が揺れる。

「エルゥ!」

「ううん、違う。大丈夫だよ。……アーシェ、ちゃんと立って。でないと言えない」

 アーシェの片手を包んだまま、エルゥはその足下に跪いていた。こめかみにひとすじ、つう、と汗が流れる。それなのに、澄んだ夜空色の瞳と口元は涼しげに微笑んでいた。

「アーシェ。解るかな。……僕はもう、子供じゃない。そして、君も」

「……エルゥ?」

「その上で、言うよ。……アーシェ。その……、もし君が、本当に、僕を恨まないというなら。僕がもう、許されているというのなら」

「またその話? いい加減にしないと怒るわよ」

「ふふ。そうだね。……それなら、これからの話をしたい。君が言ったように」

「うん……?」

 首を傾げたアーシェの手の甲に、そっとエルゥが唇を押し当てた。あまりにも唐突な出来事に、一歩だけあとじさる。視界の隅、ガタ、とソファを蹴飛ばす勢いで兄が立ち上がったのが見えた。

「我ながら厚かましいと思うけど。それでも僕は、君と一緒にいたいんだ。だから、」

 エルゥの目、乱れた前髪の隙間から覗く夜空色の瞳が、まっすぐにアーシェを射貫く。

「……どうか君の聖別を僕に賜りたく。そして僕の聖別を君に、君だけに捧げたい」

「聖、別? それってだってその、名前、」

「セスイール王国王太子イーニアスの名の下に、あなたに求婚する」

 どうか、アーシェ、この先も君と。もしそれが―――望んでも、許されるのであれば。

汗の滲む顔でそう言ったエルゥは、いつもあれだけ浮かべていた微笑みをすっかり消して、怖いほどに、真剣だった。

……そうだ、こわい。

「……お、」

 こわい。やだ、知らない人みたいな顔をしないで。

 そんなの、だって、……まるで男の人、みたいだよ。エルゥ。

「お?」

 重ねた手が熱い。いやだ、じんわり汗までかいてきた。だってこんなにすっぽり、包まれるなんて思わなかったから。エルゥの手がこんなに大きくてしっかりしてるなんて、少しも思ってなかったから。

「お、おお、おとこわりしま―――じゃなかったお断りします! エルゥのばか!!」

 もう耐えられない。アーシェは脱兎の如く駆け出した。

「こらっ、アーシェ! 待ちなさい!!」

 すまんエルファ、またあとで改めて。ばたばたと後ろから兄が追いかけてくる。どうせ一緒の馬車で帰らなければならないことは解っているけれど、今だけは捕まりたくなかった。

……エルゥは、今もあの床に跪いたまま、ぽかんと自分が出て行ったほうを眺めているんだろうか。随分疲れているようだったのに。またそれで、余計に具合を悪くしなければいいんだけど……。

 彼から逃げている最中だというのに、そのことが気懸かりで仕方なかった。



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