第四節(前)

「―――当時、ダンクワース子爵は多額の借金を抱えていた」

 月瑛宮、王太子イーニアスの寝室。

 今回の事件と過去との話に決着をつけるために、そこにはユージィンとアーシェが招かれていた。

 月瑛宮襲撃事件からは、既に五日が経っている。アーシェはその前日にようやく寝台から降りることを許可されたが、エルゥは未だ上半身を起こすのがやっとだった。それなら彼がもう少し回復してからでも、とアーシェは申し入れたが、それはエルゥ本人が許さなかった。

……事件から、十年。アーシェ本人はその記憶をすっかりなくして平和に生きてきたが、エルゥやユージィンはそうではない。一刻も早く決着を着けたかったのだろう。

「これは後々の調査で解ったことだ。ダンクワースは元々貿易業に携わっている家で、子爵ながら身代は大きかったと聞く。一方、夫人は男爵家の出身で、こちらは爵位を維持するのが厳しいほど困窮していたらしい。有り体に言えば、ラヴィニアは金で買われた花嫁だった」

 静かな声で語るのは、寝台に身体を預けたままのエルゥだった。アーシェとユージィンは寛げるように、と用意されたソファに身体を埋めている。

この三人ならば、そう気を遣って疲れることもない。

「二人が結婚して、少ししてから……かな。ダンクワースの出資した商船が沈没した。運悪く、その時の取引に彼はかなり資金を投入していたらしい。そこからは坂道を転げ落ちる勢いで、ダンクワースの身代が傾いていった。まずは、それが前提といったところかな……」

 ふ、とそこで、エルゥが一旦口を噤む。その間を見計らったのか、ウィルフが慣れた手つきで二人の前にお茶を運んでくれた。

 あまいにおい。エルゥがいつも、アーシェにいれてくれたお茶だ。

「それから暫くは夫婦二人で頑張っていたらしいんだけど、段々、ダンクワース自身が落ちぶれていってね。最後の方は、乳母として勤めるラヴィニアの報酬だけで暮らしていたようだ。夫婦仲も冷え切ってしまって……、凋落する自分に比べて、カータレットなんて大貴族に気に入られたラヴィニアを妬むようなこともあったみたいだ。……苦しい時にこそ、人間性が出るよね。そこに、彼は付け込まれたんだ」

 さわ……、と、風が流れた。

 開け放した窓から、春の心地良い風がふわりと入ってくる。薄い紗のカーテンを膨らませて、春の匂いを運んできた。

 湿った土と、少し青いような緑の匂いだ。

「あの日。……ユーグや叔母上が来なかったのはまったくの偶然だったけど、ラヴィニアは夫に迫られて、彼がこの宮の庭に入れるよう手引きをしていた。もう一度やり直したい、その為に一度でいいから殿下にお目に掛かりたい、と言っていたらしいよ。そうすれば夜会や茶会で、僕をだしにして有力な貴族に顔が繋げると。そうしたら、そこからまた人脈が築けるからと。ラヴィニアは中々承諾しなかったらしいけど、やっぱり夫に立ち直って欲しい気持ちもあったんだろうね。結局は、自分がここを訪れる日時と、護衛兵に見付からず庭まで入って来られる手順や抜け道を夫に教えたんだ」

―――何せ彼女はいつも、ちょっと目を離すとすぐにどこかに行ってしまう子供を三人も見てきたからね。そう続けて、エルゥは少しだけ懐かしそうに笑った。

「僕たちがすぐに隠れてしまう茂みとか、警備兵の目を掠めて逃げてしまう森までの小道とか、そういうのを知ってるのはラヴィニアだけだった。つまり、そこが警備の穴だったんだよ」

……ああ、憶えている。

違う。思い出した今は、記憶の中にある。

いつも物静かなエルゥの手を引いて、アーシェは至る所へ駆けていった。ユージィンは茂る草や木を掻き分けてくれたし、ちょっと高い場所でも両脇に手を入れて持ち上げて、難なくアーシェを上らせてくれた。そうやって三人は鬼ごっこのようなつもりで、きゃあきゃあと幼い声を上げながら庭や、その後ろに広がる森を走り回っていたのだ。

「だけどね、ダンクワースはその時既に、僕たちの敵に唆されていた。僕を殺してこい、出来ればカータレットの子供も一緒に。その手配をするように。上手く行ったら、自分がお前を引き立ててやるって。そんな甘言に乗ってしまっていたんだ」

「……愚かな男だ」

「そうだね。捨て駒にされる未来しか見えないだろうに、……子爵も追い詰められていたんだろう。同情は、しないけど」

 ユージィンの呟きに、エルゥが苦笑しながら頷いている。二人にはそれは、もう数年前に解っていたことなのだろう。だけどアーシェにとっては、今、初めて明かされるあの日の裏側だ。

「あの日、……あの日は……お庭が、きれいで……」

 それは、今までずっと忘れていた反動だろうか。

 思いだした今、もう十年も前であるはずなのにその時の事が、鮮明に脳裏に蘇る。

「天気が良かった。森の木が綺麗な葉を茂らせていて、凄く気持ちが良さそうだった。エルゥは顔色が悪かったから、きっと気分が変わるだろうと思ったの。だから、庭に、連れ出して」

 早く、エルゥ、早く。きゃあきゃあと幼い声で笑いながら、アーシェは繋いだ手を引っ張って庭を駆けた。

月瑛宮の庭は、王宮の背後の守りであるネントミル山脈の裾野、そこに広がる深い森と繋がるようにして作られている。初夏の木々の足下に腰を下ろして、きらきらと降るような木漏れ日を見上げたらきっとエルゥも笑ってくれるだろうと、そう思った。

「だけど森の、入口のところを少し進んだら、急に何人もの男の人たちが出てきたの」

 暗い色の服を着た男たちだった。明らかに王太子宮で見かけるような者たちとは違う、荒々しい雰囲気の男たちだった。

 思わず足を止めたアーシェと、侵入者に気付いてアーシェを背に庇ったエルゥの二人をじろりと見下ろす。その目が、妙に血走っていた。

『こいつらか』

『そうだ』

 男たちの後ろに、一人だけ、見慣れた服装の男が立っていた。不自然に顔が赤らんでいたのを憶えてる。そうして、その男が。

『見付かると困る。さっさと殺せ』

 と、やけに上擦った声で言ったのも。

「……エルゥは、私に逃げろと言ったの。でも、でもエルゥは体が弱いから、それに王子さまだから、置いて行っちゃいけないって―――カータレットは王の盾だから、私はカータレットの娘だから、だから私が守らなきゃって」

「アーシェ」

 その情景、が、押し寄せてくる。その時の気持ちも、いっそ生々しく。

「見た事のない、蛮刀、だった。木漏れ日がうつってきらきらしてた。エルゥは私を突き飛ばそうとしたけど、でも、でもだめだって。だから私は、その前に飛び出して―――」

 背中、が。

 燃えるように熱かった。火を押し当てられたのかと思った。アーシェ。アーシェ。エルゥの叫び声が聞こえて、大丈夫と言おうとしたのに声が出なかった。そのうち、じわじわと痛みが襲ってきて。息も出来ないような痛みが、背中に。

「アーシェ、アーシェって。エルゥがずっと、……でも、私は……背中が、……っ」

 あつい。あつい。あつい。いたい。声が出ない。いたいいたいいたいこわいあついいたい。なんで、痛いよエルゥ。

「アーシェ、もういい」

 ぎゅ、と力強い手が、アーシェの膝に置いた手を握った。ユージィンだった。その親指が、痛ましげにアーシェの手の甲を撫でる。そうされて初めて、アーシェは自分の手が細かく震えていることに気付いた。

「……アーシェ」

「だ、……いじょう、ぶ、……ごめんなさい」

 それから、ハー……と大きく息を吐き出す。身体中に、じっとりと嫌な汗が滲んでいた。十年も前のことなのに。そう思っても、その光景はまるで今、目の前で起きたかのように生々しく迫ってくる。

「アーシェ、きついなら」

 もうやめよう、と。

 自分の手を握る兄の手へ、首を振ってもう片手を重ねた。これは過去だ。現在ではない。

 そしてそろそろ、その全部にけりを付けなければ。そうでなければ、きっと前には進めない。

「……ごめんなさい。私が思い出せたのは、だけどそこまでなの」

 そこからの記憶は飛び飛びだ。エルゥが喉を枯らしながら返して、と繰り返していたこと。何故か自分は、それへ精一杯に手を伸ばしながら遠ざかっていったこと。その次の記憶はもう、何もかも忘れてあの村で母と―――ヴィニーと名を偽ったラヴィニアと暮らしている。

「僕が、憶えているよ。一つ残らず。……忘れるもんか」

 寝台から聞こえたエルゥの声は、これ以上ないほどに苦々しかった。

「あいつらは、まず僕を最初に殺すつもりだった。優先順位的にもね。まずは僕、カータレットの子供は行きがけの駄賃というところだったかな。継承順位から考えても、念の為に消しておこう、という程度だった。だから順番が狂ったんだろうね。それに、アーシェは斬られても尚、僕にしがみついてたんだ。小さな身体いっぱいに、僕を庇って……それで少しの間が出来た。その時に、僕たちを探していたラヴィニアが、やっと追い付いたんだ」

―――何をしているの!

 ラヴィニアは夫に詰め寄った。ご挨拶だけだって言ったじゃないの、これはどういうことなの。夫は元々、この聡明な妻に劣等感をいだいていたんだろう。何をしている、王子を殺せ、と、妻の前で口にすることは出来なかった。

 ラヴィニアは傷付いたアーシェの止血を始めた。不幸なことに、浅いとはいえそこは庭ではなく、もう森の中だった。警備兵が気付くにも、あと少しかかる。

……そのうち、時間がかかりすぎた、と思ったのだろう。

 荒事に慣れた男たちは時間切れだ、と子爵を置いてその場から逃げ出し、そして子爵は。

「お前も来い、とラヴィニアを連れて行こうとした。ラヴィニアは首を振ったよ。でも、手引きしたのはお前だろう、両親がどうなってもいいのか、ってあの男はラヴィニアを脅して……ラヴィニアはね、抱きかかえていた僕の腕から、君を奪っていった」

―――返して。返してよ。

 アーシェを返して。

……ああ、あの泣き声が聞こえる。

「今になれば解るんだ。あの時、ラヴィニアが止血の手を止めたら君の命はなかった。警備兵が駆けつけるまでの数分、何の処置も施さずにあのままあそこにいたら、君は間違いなく死んでいただろう。だからラヴィニアは、君から手を離す訳にはいかなかったんだ。……彼女は去り際に、僕に言ったよ」

―――お嬢さまは、必ずお返しします。殿下。必ず、この命に替えても。

「僕は、……僕は何も出来なかった。攫われていく君をただ見ていることしか、出来なかったんだ……」

「……そこから三日間、エルファは生死の境をさ迷った。元々あの日、こいつは、具合が良くなかったんだ。あの頃のエルファは本当に体が弱かったからな。耐えきれなくて……こいつの泣き叫ぶ声で警備兵が駆けつけた時にはもう、意識を失っていたらしい。そこには、倒れたこいつと賊が投げ捨てていった蛮刀、そしてお前のドレスの切れ端と、おびただしい血の跡しか残っていなかった」

 ただ一人、状況を見ていたエルファはそこから三日間、まともに話せる状態になかった。だから。

「状況から、お前は既に死んだと。そして死体は持ち去られたと……近衛兵はそう結論付けたし、そのせいで初動が遅れた。そのうち、追い打ちを掛けるように接触があったんだ。……お前を返す代わりに、王子を……エルファを殺せ、と」

 エルファにそれ以上は話させたくなかったのだろう。あとを引き取ったのはユージィンだった。苦々しく唇を引き結んで、ギリ、と奥歯を噛みしめる。グ、と喉を詰まらせたような苦しげな呻きが、きつく閉じた唇の隙間からこぼれた。

「アーシェ、……アーシェ。俺は、俺たちは……、父上は、母上は」

「ユーグ」

「いや。……アーシェ。お前は、俺たちを許さなくていい。憎んでいいんだ。……俺たちは、カータレットは」

「ユーグ。言わなくていい。全部僕のせいなんだから」

「違うエルファ。これは俺たちの罪だ。……アーシェ、カータレットは、お前を見捨てたんだ。世継ぎの王子とたかが公爵家の姫ひとりを、秤に掛けるなどできないと。……」

―――ああ、そうか。

 それが彼らの負い目だったのか。

「……俺たちは、接触してきた男を捕らえて尋問にかけようとした。だけどすぐにそいつも、殺されてしまって……全ては失敗に終わった。公爵家は情よりも忠誠を選ぶ、と示すために、お前の捜索もそこで打ち切りになった。……後々にまた、お前を取引材料に使った脅迫を行わせないためだ。何があろうとも、カータレットは王を守ると。その決意の揺るがなさを、誰の目にも解るように示すためだった」


……俺たちはそうやって、全員でお前を見捨てたんだ。


「―――――……」

 血を吐くような、悲痛な告白だった。がくりと肩を落としたユージィンは、両手で顔を覆っている。

 いつでも大きな兄だった。太陽のように力強く、見上げればいつでも輝くような微笑みをくれるような、そんな兄だった。

 その彼が、こんなふうに頼りなく弱々しく、今にも崩れそうになる姿など想像もしたことがなかった。

「……あの頃、僕も含めて―――カータレットは、君を中心に回っていたんだよ」

 ぽつり、と、寝台からエルゥが呟いた。

「君は無邪気で、いつもころころと楽しそうに笑って、思いきり泣いて。すごく頑固で、よろよろしながら剣を持ってアニーに食いついていったり、その頃にはもうカータレットの第一子として注目を浴びていたユーグを、惜しげも無く馬にして乗っかってみたりね。ふかふかであまいにおいがいつもしてる、世界中のやわらかであたたかくて素敵なものをいっぱいに集めたような姫君だった。皆が君を心から愛して、君を中心に僕たちの日常は回ってた。あの鬼元帥のアニーが、娘の馬になるためにって毎日、定刻にいそいそ帰宅してたんだ。君たちは、そういう家族だったよ」

―――だから。

「……彼らがどんな血を吐くような思いで、君を諦めたのかだけは……知っていて欲しい。そして出来れば、恨まないでくれればと……。全部、僕のせいなんだから。国王ただ一人の正嫡なんてものである、僕のせいなんだから」

「エルファ」

「だから君は、僕だけを恨んで、憎んで。言ったでしょう、アーシェ。僕は君の運命の王子だよって。こういうことだよ。……君の幸福な運命を奪い取った、憎むべき王子だ」


―――『僕はエルゥ。……君の、運命の王子だよ』。


 出会いのあの時、エルゥは、いったいどんな気持ちでそう口にしたんだろう。アーシェは胸元をぎゅ、と押さえた。痛い。あの時痛んだ背中よりも、ずっと、そこのほうが痛い。

 十年近く。

 何も知らずに、アーシェはしあわせに生きてきた。生活はけして楽じゃなかった。食事と言えば粗末な堅いパンに具の少ないスープがほとんどで、燻製肉が手に入った日はごちそうだった。蝋燭もそんなに沢山は買えなくて、陽が落ちるとすぐに眠るようなつましい暮らしだった。

 でも、母がいた。本当の母ではなかったけれど。彼女が母だということを疑ったことなど一度もないほど、愛情たっぷりに育てられた。今、ここに連れられてきても一度も困ったことがないくらいに身に付けられた作法や教養は、全て彼女が与えてくれたものだった。

……彼女自身、苦しかっただろうに。声を荒げられたことなど一度もなかった。母はいつも忍耐強く、穏やかで、慈しみ深かった。

そうだ、確かに自分は、その約十年間ですら確かな愛情に包まれて過ごして来たのだ。

「……あなたたちは、ばかなの?」

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