第三節(後)
いくら実情が従兄弟同士、しかも幼い子供たちの遊ぶ約束、という気軽なものであっても、臣下である一貴族が王太子宮を訪れるためには様々な手順を踏む必要がある。
政治の場でもあり、開かれている本宮と違って、王太子宮や奥宮といったものは王族の私的な空間だ。おいそれと足を踏み入れられるものではなかった。
だからアーシェたちも、エルファレットに会うためには事前にその旨を申し入れ、王族の私的な部分を管理する侍従長、もしくは女官長からの許可と指示を得る必要があった。
それには、元王族とはいえイーディスも従わなければならない。訪問は事前に申請され、あらかじめ許可された日時を必ず守らなければならなかった。
「エルゥ!……じゃなかった」
月瑛宮。
エルスは私室の長椅子にゆったりと寝そべって、静かに目を閉じていた。本当なら客人の訪問はきちんと身なりを整え、王太子として客間のみで相対しなければならない。だからこれは、カータレットの子供達に対してだけの特別な対応だった。
「おまねきいただき、ありがとうございます。殿下にはごきげんうるわしゅう。イフィゲニア・カータレット、御前まかりこしてございます」
教えて貰ったばかりの、少し大人びた言葉遣い。お作法通りの一礼をしたアーシェに、エルファレットは苦笑しながら目を開けた。
「アーシェ、そういうのはやめて。僕が寂しいから。……おいで、僕のお姫さま」
寝そべったまま、やんわりと両手を広げる。アーシェはそのまるい頬にいっぱいの笑みを浮かべて、大好きな優しい王子の腕の中へ飛び込んでいった。
「エルゥ! わたし、来たよ!」
「うん、いつもありがとう。アーシェは今日も元気だね。それに何だか甘い、いい匂いがするよ?」
「クッキーとミルク、食べて来たからかな」
「そうか。たくさん食べたの? 美味しかった?」
「うん!」
アーシェは僅か七才だったが、エルファレットが王子だということを、ちゃんと知っている。自分たちが命を賭けて守らなければならない人だ、ということを。それは難しい言葉で「ぎむ」というのだと、父母から厳しく教えられていた。
だけどそれとは別に、アーシェ自身がこの年上の、やさしい従兄弟が大好きだった。
「エルゥはまたへんなにおいする。おくすり飲んだの?」
「うん。ごめんね。そんなに臭いかな……」
この頃、いつもエルファレットは具合が悪そうにしていた。元々があまり身体の強いほうではない。よく熱を出して寝込んだりもしている。ユージィンとは二才ほどしか違わないはずなのに、ずっとひょろひょろと痩せていて、顔色が悪かった。アーシェは幼いなりに、そのことをいつも心配していた。
「くさくはないけど。……エルゥ、最近おそと出た?」
「そういえば……出てない、かな」
ちょっと困ったように笑う。アーシェは、エルファレットのこの笑いかたがあまり好きではなかった。アーシェたちと遊んでいる時は心から楽しそうな顔もするのに、そうでない時は、いつもこんな顔だ。
「だめだよ」
もっと笑って欲しかった。やさしい従兄弟、大好きなエルゥ。
「だから具合が悪くなっちゃうんだよ、毎日おひさまにあたらないとだめだってかあさまも言ってたもの。ね、エルゥ、お庭にいこう!」
「お嬢さま、殿下は」
傍に控えていた女官が、アーシェを引き留めようと慌てて手を伸ばした。けれど。
「そうだね。……たまには日光にあたらないと、根っこがはえちゃうかな」
アーシェの頭をぽんぽんと叩きながら、そっとエルファレットが首を振って制する。女官は迷ったようだが、自分の仕える主の選択を尊重したようだった。
「根っこ? はえるの?」
「どうだろう。はえちゃうかもしれないね。足が段々溶けていって、根っこになって、土の中ににょきにょきって」
「そんなのダメーっ! 行こうエルゥ、お庭にいこう!」
ぽん、と長椅子に寝そべる少年の身体から降りて、アーシェは彼の細い腕をぐいぐいと引っ張った。幼い頭の中には既に、怪物のように足がぐずぐずにとけて、木の根をはやした少年の姿が描き出されていた。大変だ!
「ふふ。うん、行こう。アーシェ、手を繋いでくれる?」
「うん!」
エルファレットはくすくすと笑うと、まだ子供であるのにまるみのない手を差し出した。ぎゅ、とその手を握る。
「行くよぉ」
わたしが連れて行ってあげなくちゃ。それは幼いアーシェに取って、妙な使命感と、少しの誇らしさに満ちていた。いつもそうだった。エルファレットは兄とは違って物静かで、穏やかで、アーシェがついていてあげないとこうして外にも出ないのだ。
わたしが、エルゥを守ってあげなくちゃ。王子さまなんだもの。
教え込まれた「義務」を幼い解釈でちょっと勘違いもしつつ、アーシェはいつもそう考えていた。
「わたくしが参ります」
その後ろで、おろおろしている女官へラヴィニアがそっと微笑みかけている。乳母の彼女はこんな時、常に駆け出す子供たちの後を追い、けして目を離さず見守ってきた。彼女の乳母としての仕事ぶりは、雇い主であるカータレット夫妻は元より王太子宮の女官にさえも一目置かれていた。
だから、あの時。
掃き出し窓から庭に出る子供たちを追って外に出た大人は、ラヴィニア一人だけだった。
一人だけだったのだ。
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