第三節(前)

 その日、月瑛宮は初夏の穏やかな陽差しを受けて、たいそう美しかった。


―――そうだ、初夏の日だった。

 まだ色の浅い葉はきれいな薄緑。陽差しを受けてきらきらと輝く木立ち、その葉の色に、エルゥは―――エルファレットは、君の瞳の色だねとくすぐったそうにアーシェに笑いかけた。

 七才だった。三つ上のエルゥは十才。

 降嫁したとはいえアーシェの母は現国王の実妹だ。兄弟のいない第一王子、王太子である甥を慰めるために、よく子供達を連れて月瑛宮を訪れていた。

王族は、「友人」を作りにくい。だからこうして、地位の高い貴族の子供と早くから親しませることは、それまでにもよく行われていた。いわゆる、王子さまの遊び相手、というものだ。

 ましてやカータレット家と王家とは、代々に渡って血縁を結んできた。カータレットの三代に一度は、必ず王家の血が入る。そうして王族に何かがあった時の為のスペアとも言うべき役割を、カータレットは果たしてきた。

 アーシェが―――イフィゲニア・カータレット、その聖別をアシュレイと名付けられた少女がそうやってエルファレットに引き合わされたのは、彼女がまだ三才にやっとなったばかりの頃だった。

 幼いアーシェは、自分の名前もまともに言えない。エルファ、という愛称で呼ばれていたエルファレットはエルゥに、ユーグ、という愛称で呼ばれていた兄ユージィンはユゥに。そうして自分の名前さえアーシェと縮めて呼んで、えへんと胸を張っている。線が細く、身体の弱かった王子を引き連れて、目を離すとすぐに遠くまで駆けて行ってしまう。そんな強気で、活発な子供だった。

 その日。

 全てが打ち壊された、その日。

 カータレット公爵夫人イーディスは、子供達を連れてエルファレットの元を訪ねる予定だった。しかしその日の朝、十二才になっていた長子ユージィンが赤斑熱を出して寝込んだ。

 この病気は命に別状があるものではない。しかし、幼い子供なら一度はかかることがある。発熱は高く、身体に赤い斑点も浮き出るが、解熱と共にそれも引いていく。そんな、風邪よりは少し重いけれど、あまり心配も要らないような病気だった。

 そのため、母であるイーディスは月瑛宮への訪問を取りやめようとした。重病ではないとはいえ、病気の息子を置いて遊びに行く気にはなれない。

だけど、それにはアーシェが駄々をこねた。アーシェはもう、この頃には、一年の三分の一をベッドに寝て過ごしている体の弱い年上の従兄弟のことが大好きだった。自分たちにしか寛いで接する事が出来ない、王太子としての彼の孤独と苦悩も、幼いながらにうすうすと感じ取っていた。

―――かあさまとにいさまが行かなくても、わたしが行く。だってわたしが行かないと、エルゥはいつまでも寂しいままなんだよ。

 幼い娘のその一言に、母であるイーディス―――その聖別をアレシアという―――も肩を落とした。幼い甥の孤独はまた、王族であった頃の彼女の孤独でもあったからだ。

 結局、アーシェは我が儘を押し通した。ただし、彼女の付き添いには、常に母と兄と彼女の傍に控えてきた乳母、アーシェが生まれた時からずっと一緒にいるダンクワース子爵夫人ラヴィニアが付くこととなった。

「ラヴィニア、お願いね。この子は本当に目が離せないから……殿下に何かしでかさないか心配で心配で。エルファは身体が弱いから」

「心得ております、奥様」

「そうよね。いつも私の代わりに、この子を追いかけてくれるのはあなただものね。安心して任せられるわ」

 ラヴィニアは賢夫人として名高い女性だった。夫のダンクワース子爵はあまりぱっとしなかったが。子を産んだものの一年で先立たれ、入れ替わるようにその頃生まれたアーシェの乳母にと抜擢された。そうしてそのまま、家庭教師も兼ねてずっと、カータレットの家に暮らしていた。

 だから、当然、月瑛宮への訪問にも、彼女は毎回付き添っていた。そのラヴィニアに任せるのならアーシェ一人を行かせるのでも、大丈夫だろうとイーディスは判断した。

……その判断が間違いだったことを、責められる者は誰もいないだろう。








 頬が濡れている。

 静かに閉じた眦から伝った涙が頬を伝い、こめかみを辿って耳の後ろを通り、枕へ広がる髪を濡らしていく。浅い亜麻色の髪はそうすると、ほんの少しだけその蜜色を濃くして、彼女の髪を金色にきらきらと輝かせた。

「……………」

 アーシェはゆっくりと目を開いていった。眩しい。大きな窓から、眩い陽光がいっぱいに差し込んで寝台の上に降り注いでいる。ああ、眩しい。あの初夏の森、月瑛宮の光と同じ色だ。

「アーシェ。……アーシェ、目を覚ましたのか。アーシェ……」

 ふ、と横たわったまま顔を横向けると、目を真っ赤に腫らした兄の姿があった。掛布の外に出された自分の右手をしっかりと握って、その手を頬に当てている。

 その姿は、まるで祈るようだとアーシェは思った。

「……ユゥ兄さま」

「ああ、……アーシェ。良かった。アーシェ……」

 俺はまた、お前を失うのかと。そう呟く兄の肩が、小さく震えている。

……幼い頃から、次代を継ぐと言われていた兄だった。十二才で既に頭角を現しているような、強い兄だった。

カータレットは王の剣、王の盾。それ故に、当代一の騎士と認められた者でなければ跡目は継げない。父アナステシアスも、そうやって養子になりカータレットの爵位を継いだ。元々は一族であるバギンズ伯爵家の次男だったと聞いている。

 その兄が、これほど無防備で頼りなげに見えたことはなかった。そうだ、幼い頃でさえ既に、十二才の兄は見上げるほど強く大きな人だった。

「アーシェ。……アーシェ。……」

「兄さま」

 ユゥ兄さまと呼んでくれ。その言葉を、彼はいったいどんな気持ちで言っていたのだろう。

ユゥ兄さま。それは幼いアーシェの、アーシェだけの呼び方だった。ユゥ、エルゥ。年上の二人は、まだ舌っ足らずなアーシェが語尾を丸めるようにしてそう呼ぶのを、殊の外気に入っていたのだ。だからアーシェが七才になり、もうちゃんと略称を呼べるようになっても、そのままにしてくれと笑って言っていたのだった。……

「兄さま、わたし」

 言いながら、頭を持ち上げる。起き上がろうとしたその動きに、しかし身体がついてこなかった。くらり、と目が回る。腹と腰に力が入らない。

「……おとなしく寝ていなさい、アーシェ。あれだけの大立ち回りをしたんだ、毎日訓練していた俺たちとお前とでは消耗が違う。それに、……思い出したんだろう?」

 言い難そうに続けられたその一言に、アーシェは目を閉じたまま、小さく頷いた。そうだ、思い出した。夢だと思っていたもの、やさしく厳しい、あんな田舎にあっても教育を与え続けた母。その真実を。

「……医者が言うには、そのせいで、頭にも衝撃を受けているらしい。これから暫くは、記憶や意識が混濁することもあるだろうと言っていた。だからゆっくり眠って、落ち着いてから、色々話そう」

「でも、わたし……どのくらい、寝ていたの?……」

「たった一日だよ」

「一日も、でしょ。……エルゥは?」

「あいつも寝てる。……峠は越えたよ。回復に向かってる」

「そう……」

 良かった。……じゃあ、今度こそ、私はエルゥを守れたんだ。守り切ったんだ。

「アーシェ。お前は俺の誇りだ……お前はまさしく、カータレットの娘だよ」

 あの夜、アーシェが打ち倒した賊は二十数名にも及んだ。たった十六才の、正式な訓練を積んだわけでもない娘が、荒事に生きる男たちをそれだけ圧倒したのだ。それはこの悲惨な襲撃において、カータレット家の人々を熱狂させるに足るただひとつの朗報だった。

「お前の使う剣は、まさしくカータレットそのものだった。……忘れていても、憶えていたんだな。俺にくっついて、父上から指南されていた事の全てを」

「そう、なのかな……」

 誰にも相手にされなくても。

 繰り返し、繰り返し。愚直なまでに積み重ねていった、基礎の基礎。そうか、それを与えてくれていたのは、記憶になかった幼い日々だったのか。

「……エルゥに、会える?」

「会えるよ。ただしあいつもお前も、もう少し回復してからだ。……さあ、もうお休み。話しすぎた。これだけでもお前の身体に障る」

「平気よ。だってずっと寝てたんでしょう?」

「そう言うわりには、先刻からずっと目を閉じたままだな。開けている体力も無いんだ。……お前は昔から強情だったけど、今くらいは言う事を聞いてくれ」

 兄の手が、思い出したよりもずっと大きくて暖かな兄の手が、ゆっくりと髪を撫でる。そうされると、本当にうとうとと眠くなってくるような気がした。

「……妹が出来たら溺愛するって、小さな頃から決めてたの?」

 その温かさがくすぐったくて、くす、と小さく笑いながら言ってみる。ハハ。兄が肩を持ち上げて笑ったような、気配がした。

「そうだ。……お前が母上の腹に入っていると知った時からな」

 だから俺は、生まれて来る前からずっと、お前が可愛くて仕方がないんだよ。アーシェ。……

 兄の優しい声色が、子守歌のように聞こえる。そうしてまた、アーシェの意識はゆっくりと眠りの底に沈んでいった。




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