第二節(後)

―――いや、違う。

 そこにいたのは、あの子供よりもずっと大きな青年だった。だけど一目で、あの子供が成長した姿なのだと、すぐに解った。

 まるで月光のようにきらきらと輝く、銀の髪。ほの青くさえ見えるほどの輝きは、あの頃とまるで変わっていない。

……あの頃?

「アーシェ、何で、……だめだ、君は」

 苦しげな息の下から、青年が呼ぶ。汗で張り付き、乱れた前髪の間から覗く瞳は、見慣れた夜空の澄んだ色をしていた。

「君は、帰れ。……こんなところに、居ちゃいけない。……」

 そうして、切れる呼吸の合間から、こんな時でもアーシェの事だけを案じているその声は、紛れもなく。

「……エルゥ?」

 アーシェの知っているエルゥ、その人のものだった。

「何で……、だって、でも、……どうして、」

 いつも傍に居てくれたエルゥは、黒いぼさぼさの髪に夜空色の、煮詰めたような紺の瞳をしていて。

 頬の下の方がぽっちゃりと膨らんでいるのが愛らしかった。抱き留めてくれた腕もふかふかしてやわらかく、背は高いものの体型はいかにも裕福なお坊ちゃま、という感じにふくふくしていて。

 だけど、でも、だけど。

「……アーシェ、よく聞いて。……ここにいては、いけない。君だけは……、君だけはどうか、……しあわせに、思うままに、生きて」

 ああ、そうやって自分のことだけを案じるその声は、どう聞いてもエルゥのものだ。こんな時なのに。顔色を紙のように白くして血の気を失い、喘ぐように息を切らして、それでもまだ、自分自身よりもアーシェを案じている。

「……っ、エルゥ、エルゥ、……あなた、……」

「僕は……、もう二度と、……」

 ぐら、とエルゥの身体が揺れた。クッションにもたれて辛うじて起こしていた上半身が、頼りなく傾ぐ。

「……もう二度と、君から奪わせない……!」

「エルゥ!」

 思わず手を伸ばしたアーシェの身体の下、エルゥの手が、それ、を握り締めた。

「その為なら、……僕は、……っ」

 あの、いつも腰に下げていた、白銀の剣を。

「やめてエルゥ!」

「……僕は、どんなことだってやり通してみせる……!」

 引き留めるアーシェの手を受けながら、それでも、よろよろとエルゥは立ち上がった。もう、まっすぐにも立てていない。当然だ、彼は瀕死のはずなのだ。

 部屋に残っていた侍従と侍女が、青い顔でエルゥを留めようとした。殿下、殿下、どうか寝台へ。ここはわたしたちがお守り致します。

 しかしそれらの声を聞いても尚、エルゥは口元に薄く微笑みを刷いたまま、首を横に振るだけだった。

「……僕が君から奪った年月は、……もう、返せない」

―――返して。返してよ。

 夢の中の、あの声が響く。銀色の子供が泣き叫ぶ、あの声が。


―――返して。返してよ。―――アーシェを返して。


 子供は繰り返し、繰り返し、喉が潰れそうになっても叫んでいた。返して。返して。アーシェを返して。

 僕が代わりに行くから。そう続けて。

「だからもう、……これ以上は、絶対に君から、奪わせない。何も、何も、……何一つもだ!」

 呆然と見つめるしかないその先で、エルゥは肩で息をしながらもしっかりとその両足で立ち、すらりと剣を抜き放った。

 刹那、ドンっ、と扉に衝撃が走る。そうして、その白く塗られた扉の真ん中から。

「ヒっ……!」

 血を滴らせた槍の穂先が、木材さえをも貫いて、こちら側に飛び出していた。

「あ、ああああああああ!」

 侍従が悲鳴を上げる。侍女は声さえ上げられずにその場にへたり込んだ。エルゥは彼らを優しい視線でひと撫ですると、苦しげに眉をひそめながらも微笑みを浮かべてみせた。

「……怖い思いをさせて、すまない。お前達は、……そこの、衣装部屋の木箱の中へ、隠れておいで。いいね。……」

「で、殿下……!」

「……今は、このなりだ。……かばって戦えるだけの、余力が、ない。……隠れていて貰った方が、助かる。解るな?」

「殿下……! 殿下、ですが、盾にぐらいは……!」

「不要だ」

「殿下!」

 頑なに首を振るエルゥに、侍従たちは動けない。けれど、そうしている間にも、扉は外側からドン、ドン、と、何か重たいものを打ち付けられていた。

……おそらく、ここはもうあまり持たないだろう。

「殿下……! どうかお逃げを!!」

「この身体では逃げられない」

「殿下!」

「頼む。隠れてくれ。……僕にこれ以上、近侍の死を見せるな」

「……殿下……!」

 泣き崩れた侍女の肩を抱いて、年老いた侍従が立ち上がった。

「……殿下がお逝きになれば、儂もお供しますぞ」

「そうならないよう、隠れろと言っている」

「御意。……さあ、行きましょう。殿下のお邪魔をしてはいけない」

「カータレットの嬢さま。……殿下を、どうか殿下を……!」

 侍女が泣き濡れながらこいねがう。そうして侍従たちは、まだ幼さの残る少年をも引き連れて、続きになっている衣装部屋へと逃れていった。

 扉を打ち付ける音は、激しさを増している。うわん、と木がしなって膨らんでいる。……もうすぐ破られる。

「エルゥ、……あなた、」

「アーシェ。君も隠れてくれていると嬉しいんだけどな」

「いやよ」

 細く引き締まった体躯。きりきりと引き絞ったような背中は、だけどあの、ふっくらとふくよかだった頃よりもずっと大きく、広く見えた。

「……いやよ」

 アーシェは繰り返した。エルゥがふ、と苦笑する。

「そう言うと思った。……本当に君は、守らせてくれないよね。今も昔も」

 守られてしまうのは、いつも僕の方だ。

「……だけど今度は、僕も引けない。いいねアーシェ。僕が死んでも、絶対に君だけは生き残るんだ。約束して」

「いやよ!!」

 守りたい、と思ったもの。その為に強くなった。振り続けた剣に手へまめが出来ても、破れて血を流しても、それでも絶対に諦めなかった。


 銀色の子供。―――あれは、あなただったのね、エルゥ。


「頑固者」

 くす、とエルゥが笑う。こめかみから流れた汗が、つう、と頬を伝って、その精悍な顎先からぽたりと落ちた。

「いいよ。今度は、今度こそは、やり通してみせる。君を守るよ、アーシェ。……アシュレイ・イフィゲニア・カータレット。……僕の姫君」

 ドンッ、というひときわ大きな音と共に、めりめりと木の割れる嫌な音が響いた。鍵が弾け飛ぶ。そうして。

「死ね、王子!」

 打ち破られた扉を蹴り開けて、賊がなだれ込んでくる―――。

「ハイそうですかとは死ねないな……!」

 瀕死の床にあった身体だ。毒に、今も侵されている身体だ。

 よろよろと足下さえ覚束なく立っていたというのに、飛びかかって来た賊を迎え撃つエルゥの剣技は、見事の一言に尽きた。

 白銀の切っ先が弧を描く。描いて、まるで吸い込まれるように賊の喉を切り裂いていく。

「ぐっ……!」

「この……!!」

 アーシェはすかさず前に出た。扉だ。自分の身体で、扉を塞がなければならない。そうしないと、一度に大勢の相手をしなければならなくなる。扉を守るなら、せいぜいが一人か二人ずつしか掛かってこられない。

「相手は私よ!」

「アーシェ!!」

 飛び出したアーシェの意図に気付いたか、エルゥもその後を追って扉の前に陣取った。

 廊下の向こうからも、剣戟の音は聞こえてくる。……味方が全滅した訳じゃない。

「ハァッ!」

 襲いかかる賊の振り下ろした剣をかいくぐって、アーシェは深く踏み込んだ。両手で握り締めた剣を、鋭く突き出す。ぐぶ、と肉を貫く手応えがして、とどめとばかりに剣身を捻った。一人。

 その背中に、トン、と誰かが触れる。エルゥの背中だった。飛びかかってくる敵を一振りで鮮やかに斬り伏せて、もう次の相手を見ている。

……大丈夫。

 どんなに敵が襲いかかって来ても、背中だけは、斬らせない。

「まだまだ!」

 腹の底からそう叫んだ。背中合わせの戦いは、絶対に譲れないものをお互いに抱き締めるような戦いでもあった。

「……っ、しつこい!」

 滑り込んでくる敵の真上から、今度は剣を振り下ろす。払う。そしてまた次の敵が来る。負けない。絶対に守り通す。それでも、ああ、これはいったいいつまで続くんだろう……。

「っ、」

 初めての戦い。初めての実戦。

 その中にあって、そろそろアーシェには限界が訪れようとしている。そもそも、女性であるが故にアーシェは男たちよりも持久力がない。その上、これほどまでに切り結んだ腕は痺れて少しずつ力を失っていた。それでも。

「負け、ない……!」

 ただのその思いだけを糧に踏みとどまる。だが、それから二人の賊を打ち倒した、その直後。

「っ、アーシェ!」

 とうとう、その足下ががくん、と崩れた。

「あ、」

 背中に、鋭い痛みが走る。いつものような、すぐに治まる痛みではない。ずくずくとまるで脈動するように熱を持って、痛んでいる。

「アーシェ!!」

 叫んだエルゥが、庇うようにその足下に片膝をついた。そうして、腕にアーシェを抱え込んで、その前に剣をかまえる。

「だめ、……エルゥ」

 だめだよ、エルゥ。捨てていって。私は、あなたを守りたくてここまで来たのに。そのつもりで、ままならない呼吸の下から告げてみても、エルゥはむしろ抱きかかえる腕に力を込める始末だった。

「いやだ!!」

 ああ、……さっきと逆だなあ。悔しい。悔しいよエルゥ。何で私は弱いの。こんなに、最後まで立っていられないほど、弱いの。

 涙が滲む。その向こうに、剣を振り上げる賊の姿が見えた。

「―――っ!!」

 アーシェは最後の力を振り絞って、エルゥの腕から逃れた。そうして、振り下ろされる剣の前に、自分の身を投げ出す。

「アーシェ!」

 エルゥの悲痛な叫び声が聞こえた。……ごめん、エルゥ。私はまた、あなたを泣かせてしまうんだね。……

―――しかし。

「……無事かエルファ! アーシェ!!」

「我が君!」

 どさ、と床に倒れ込んだのは、自分の身体ではなく斬りかかってきたはずの賊の身体だった。見上げた視界に、血濡れた剣を下げた兄と、懐かしい仏頂面の従者が飛び込んでくる。

「ユゥ兄さま、……ウィーさん……」

「よくやったアーシェ!! もう大丈夫だ、父上も来た!」

―――現、カータレット公爵。

 王の剣、王の盾が、ここに来ている。

「良か、……った……」

 ほっ、と詰めていた息を吐き出した瞬間、目の前が暗くなった。

「アーシェ?」

 ああ、だめだ。まだ終わってない。まだ残党がいる。

……だけど間に合った。私は今度こそあの子を、……エルゥを守れたんだ。

「アーシェ!」

 ああ、……目を開けていられない……。


 エルゥの呼び声を聞きながら、アーシェは意識を手放した。

 その目蓋の裏側で、ほんの一瞬。

何年間もずっと泣き続けていたあの銀色の子供が、一度だけ、涙を拭いてにこりと笑った姿を、見たような気がした。




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