第一節(後)
「……聖別、という」
カッ、カッ、ガッ。
蹄の音が響く。上下に揺られながらユージィンに身体を預けて座り、アーシェはただ、鞍を掴む手に力を込める。
「王位継承権を持つ者だけが、生誕一月後に受ける神殿の儀式の名前だ。その時、神の祝福と共に、家族と愛する者だけに与える名前を授かる。王の名は、王自身のものではない。それを呼んで縋る、民草のためのものであるからだ。……王とは、王族とは、名前すら自分だけのものにすることは出来ないんだ。だからせめて、……愛する者にだけは、与えるものがあるようにと願ってその名前を受ける」
「じゃあ、……ユージィンさまも」
「そうだ。俺はトリストラム・ユージィン・カータレット。カータレット公爵家の第一子で、母上は現国王アダルバード陛下の実妹イーディス殿下だった御方だ。それによって、俺の王位継承権は第四位と定められた」
カータレット公爵家。さすがに、アーシェでもその名前は知っていた。いや、国民なら余程でない限り、誰しもその名前を知っているだろう。
カータレット公爵家は代々、国軍を預かる武人の家だ。並ぶ者なしと言われる大身代の公爵家で、その血筋は第二の王家と言われるほど王族に近いのだという―――。
「……黙っていて悪かった」
「いいえ」
……いいえ。アーシェは首を振ることしか出来なかった。
―――僕は君に、本当の事しか言わないよ。アーシェ。
それは何度も、エルゥが口にした言葉だった。
そうね、エルゥ。あなた嘘なんか何ひとつ、私に対して言わなかった。だけどそれと同じくらい、沢山のことを隠していたわね。
知っていた。隠されていることを。気付いていた。それでも解らない。
何故、世継ぎの王子があんな田舎に護衛をウィルムひとりしか連れず、わざわざやって来ていたのか。そしてどうして、こんなにも自分に与えるだけ与えて、その上、ここまで連れて来たのか。
勿論、他にもいっぱいある。だけどその疑問は殊更、何度も何度もアーシェの中を巡って、大きく膨れあがっていくばかりだ。
馬は、どんどん駆けていく。本宮の前を横切って大きく回り込みながら、その背後へ。
「……エルゥは自分の宮にいる」
背後の深い森へ溶け込むように建てられたのだという、その宮の名前を、アーシェも聞いた事があった。
月瑛宮。
―――王太子宮の、その別名。
「もうすぐだ、あと少し……!」
ユージィンの鐙が馬の腹を蹴った。ドカカッ、と足音が重くなる。既に本宮を背中に、深い森へ向けて馬はその足を進めていた。
けれどそこから少しして。
「! 掴まれ!!」
ユージィンの腕が、ぐっ、と強くアーシェの身体を自分に押しつけた。刹那、ヒヒィーッ、といななきを上げて馬が前足を振り上げる。棒立ちになる。
ユージィンは片手で握った手綱を絞って落馬を免れたが、それは明らかに異常だった。ヒュ、と耳の脇、すぐ近くで空を切る独特の、その音が聞こえた。
―――矢だ。矢を射かけられている。
「頭を下げろ!」
しかし、ユージィンは駆ける足を止めさせなかった。アーシェを自分の胸に抱き込み、背を覆うようにして自分も上体を屈ませながら、馬を操る。ドカカッ。足音は一層重く土を蹴って、月瑛宮に近付いて行く。
やっと入口が見えたその時、アーシェはほっと吐きかけた息を途中で止めた。……王太子宮の入口では、まさに今、激しい剣戟が繰り広げられていた。
「クソっ、……アーシェ!」
ヒィーッ、とまた馬がいななく。前庭で馬を止めたユージィンはそのまま、抜剣しながら馬から飛び降りた。勿論、ここまで来てアーシェも怯みなどしない。ユージィンの背中を追って走りながら、左腰に下げてきた剣の柄を握った。
「閣下!―――お嬢!!」
入口で賊を捌く四、五人の中、中央に陣取っていたのはウィルフだった。彼の口癖が耳に蘇る。我が君。ああそうか、彼も最初から本当のことだけを口にしていた。
「ウィルフ! ここは任せろ!!」
賊は見た所、十人と少しを数えるようだった。ユージィンがその中へ、まるで宙でも駆けるように飛び込んで行く。そうしてあっという間に二人を切り伏せると、足下の屍体を乗り越えながら入口に陣取ろうとした。
その背中に、もう一人の刃が迫る。
「兄さま!」
アーシェは追い縋ったその爪先で強く地を蹴り、宙に飛び上がった。力では敵わない。身体の大きさでも敵わない。だけどそれでも。
「―――ハァっ!」
私は、戦うことが出来る。積み重ねた、意味がないとも思われそうな願いの果てによって。
「アーシェ!」
上段から振りかぶった剣を、そのまま真下に振り下ろす。頭上から斬りかかった剣先は、肉と骨にめり込むいやな抵抗をぐっ、とアーシェの手に腕に伝えながらも止まらなかった。
人を、斬った。―――殺した。
それでも、今のアーシェには躊躇いも後悔も、何一つ微塵も無かった。
「大丈夫です!」
着地と同時に、飛びすさる。距離を空ける。そうして体勢を整え、正眼にかまえをとる。何度も何度も愚直に繰り返した稽古は、今確かに、何を思うよりも早くアーシェの身体を動かしていた。うおおおお、と雄叫びを上げて賊が斬りかかってくる。だけどアーシェに怖れはない。
「ハッ!」
気合いを込めて、その胴を薙ぎ払った。振り抜いた剣先を追うようにくるり、と回り、そのまま次の敵へ。松明の炎に剣先を煌めかせながら、今しもユージィンを切りつけようと迫る賊の肩へざくり、と振り下ろした。
―――私の剣。私の願い。強くなる。
エルゥ、強くなって、私はあなたを絶対に守る―――!
「……アーシェ! ウィルフと共に先に行け!」
そうしてじりじりと切り結びながら前へ進み、入口に陣取ったユージィンがアーシェの背中を押した。
「エルファを頼む! あいつを……死なせないでくれ……!!」
「お嬢! こっちだ!!」
「ユージィンさま! ご武運を!!」
「俺は次代のカータレット、トリストラム・カータレットだ! この名を聞いて尚楽に死ねると思うなら、全員で掛かって来い!!」
ユージィンの咆吼が獅子のように轟くのを聞きながら、ウィルフを追ってアーシェは月瑛宮に飛び込んだ。
―――待っててエルゥ。今行くから。すぐに行くから……!
背中からはまだ、激しい剣戟の音が聞こえてくる。あの時エルゥの教えてくれた敵意と殺意とが、蛇の様に手足に絡みついている。
「……中が安全とも言えん。気を抜くな」
「はい。……あなたも、気を付けて」
白く美しい、その名の通りに月を思わせる建物の中をひた走りながら、アーシェは剣を握る血に濡れた右手にぎゅ、と力を込めた。
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