第五章
貴族の若さまが貴族じゃなかった件
第一節(前)
その日、アーシェは一日を読書だけで過ごした。
エルゥが顔を出さなくなって、もう数日が経っている。
この家では、アーシェに出来ることは何もない。
アナステシアスもアレシアも忙しいようで、彼らとはそもそも初日以外、まともに顔を合わせたことがなかった。ユージィンは毎朝仕事に出かけ、それでも帰宅した夕刻以降はアーシェを気遣ったりかまったりしてくれている。
だがやはり彼も忙しい中で時間を作ってくれていたようで、それも毎日とはいかなかった。それにそもそも、アーシェはそうやって彼らの負担になるためにここに来たのではない。
それなら、と下働きの仕事を手伝えないか、顔を合わせた時にユージィンに聞いてみたが、それには厳しい顔で首を横に振られた。うちでは、必要な人数をちゃんと雇っている。だから君が彼らの仕事を奪ってはいけないよ、と。
そう言われれば当然の事で、誰かが代わりに入れば誰かがやめさせられるようなことは、アーシェも村で散々に見聞きしてきた。
……となると、あとはもう、本を読む以外ないというものではないか。
「エルゥ、どうしてるんだろう……」
私は、ここでこんなにのんびりとしていてもいいんだろうか。動きようがないのは解っていても、どうしたって気は急いた。
何か、をやるためにここに来た。そうだ、銀色のあの子だって少しも探せていない。なのにどこにも行けないまま、こうして足踏みをしている。
エルゥは言った。
僕の感情なんて不確かなものだけを頼りにここを出て行ける? それでこの先も生きていこうなんて思えるかな。僕は思わないよ、だから君に手段で告げる、と。
自分の未来を変えたのは、正しくエルゥのあの言葉だ。
……それは、エルゥの「感情」にではなかった。だけど今、結局アーシェの頼れるものは、エルゥ、というたった一人しかいない。
言えばユージィンたちも手を貸してくれるだろう。だけど結局、それもエルゥあってのことだった。エルゥがいなければ何もできない。……だけどそれは、アーシェの一番嫌っていたことではなかったのか。
誰か、にすっかり自分を預けて、寄りかかってしまうこと。自分は自分で生きていく、と思ったはずなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
……甘えていたのかな。
甘えていたんだろうな、とアーシェは苦笑した。これが、学舎に通い始めたあとであったらまた違ったのかもしれない。自分の預け先は学舎になる。そこで学ぶことが、自分を支える。やることがある。
やはりエルゥの反対を押し切ってでも、あのまま学舎に通うべきだったのかも知れない。そんなことを考えながら、何も出来ず終わろうとしている一日を眺めていたその時に、異変が起こった。
「……あれ? どうしたんだろ」
部屋の外が、騒がしい。
アーシェの部屋は、恐ろしいことに客室ではなく家族の部屋が集まる一角に置かれていた。侍女用の小部屋と衣装室を挟んで、隣はユージィンの部屋だ。彼が帰ってきたのだろうか、と一瞬思った。だけど毎日、彼の帰宅でこんなに騒がしくなったことはない。
「……ユージィンさま……?」
「馬を用意しろ! 父上と母上にご連絡を!!……ああ解ってる、騒ぎにする事は出来ない。連絡には父上の執事を行かせろ。手筈は解っているな?」
ドアを開けて、そこからおそるおそる廊下を覗き込んだアーシェの目に飛び込んできたのは、軍装を解きながら矢継ぎ早に指示を飛ばすユージィンの姿だった。顔が険しい。あの学舎で一喝したその時に見せたものよりももっと厳しい顔をして、そして焦っているようにも見える。
「いいか、今日はもう誰が訪ねてきても屋敷には入れるな。陛下の使いだと言われても断れ。そして、誰もこの家から出すな。下働きの一人でもだ!」
上着を脱ぎ、急いた手で放り投げて差し出された上着に着替える。そんな動作も歩きながら、指示を出しながらに済ませ、ギリ、と唇を噛んだところでアーシェと目が合った。
「アーシェ」
「……どうなさったんですか。何かあったのですか」
どう見ても尋常じゃない。緊迫した空気に臆せずアーシェは部屋を出て、ユージィンに駆け寄った。その姿を見て、困ったように眉を下げたのはユージィンのほうだった。
「何でも」
「ない、なんてことはありませんよね。何があったのですか。私に何か出来ることはありますか」
彼の言葉を遮って、アーシェは強い口調でそう尋ねた。何も知らず、何も知ろうとせず、ここでただ安穏と守られているだけなんてそんなのはいやだ。
「……………」
ユージィンは迷っているようだった。何度か口を開きかけ、その度に閉じる。それを何度か繰り返したあと、耐えられない、といったふうにアーシェから目を逸らした。
「クソっ、……俺はどっちの気持ちも解る、どっちも大事なんだ」
「ユージィンさま?」
「だが、……ああ、畜生」
いかにも貴公子然、とした態度を崩したことのない彼が初めてついたその口汚い悪態に、アーシェは目を瞠った。その間に何かを思いきったのか、ユージィンの視線がアーシェに戻る。
「……あいつは、君にだけは知らせるなと言った」
あいつ。彼のその言葉が指すのは、アーシェにとって一人しか居ない。
「あいつの気持ちも解る。……だけど俺は、あいつも君もどちらも、比べようがないくらいに大切なんだ」
「エルゥに、何かあったんですか。もしかしてここ数日、顔を出していなかったのは」
「……エルゥが暗殺されかかった。毒を盛られて、……今、瀕死の状態にある」
ギリ、と奥歯を噛みしめながら、ユージィンが呻くようにそれだけを絞り出した。一瞬、アーシェは何を言われたのか理解出来なかった。
エルゥが、暗殺?
「二日前だ。それほど酷い状態じゃなかった。だから君には伏せていた。……だが、たった今ウィルフから使いが来たんだ。容態が急変したと。……クソっ、」
どうしていつも、あいつだけが。そう呟くユージィンの身体の脇で、握り締められた拳が、その激情をそこだけで堪えるようにぎりぎりと握り締められていた。
「俺はすぐにエルゥの元に向かう。アーシェ、君は」
「私も行きます。連れて行って下さい!」
エルゥが、死ぬ? 誰かに殺される?
―――そんなこと、させるもんですか!!
ほとんど反射的にそう叫んで、アーシェは自分の部屋に飛び込んだ。そうして掴んで来たのは、自分の剣帯と白鞘の剣だ。
自分は、守る為に強くなろうとした。それはあの、銀色の子供のためだった。
……だけど今は。
(それだけじゃなかった)
エルゥも、ユージィンも、アレシアもアナステシアスも村長も仕立て屋のおかみさんも自警団の皆も。
全てを守りたいと、守れる自分でありたいと。そう思わずにはいられない。
「ユージィンさま!」
剣を掴み、剣帯を腰に巻きつけながら戻って来たアーシェを、ユージィンは目を丸くして眺めた。それから少し、くしゃり、と顔を歪める。
「危険だ、アーシェ」
「それでも行きます。連れて行って下さらないのなら、走ってでもついていきます!!」
「……ハハ……」
……それでこそ、我が妹と言うべきだな。力なく笑いながら、ユージィンはそんなふうに言ってアーシェの肩を抱いた。
「解った。行こう。……このまま行けるな?」
「はい。今すぐに!」
「……何事もないとは思う。思うがもし、あいつの宮に辿り着くまでにも妨害があったら」
「戦います。その為の剣です」
迷いなど、ひとつもなかった。きっぱりと言い切るアーシェを、ユージィンはとても嬉しそうに目を細めて間近から見下ろしていた。
「では行く。―――お前達、委細全て俺の先刻言った通りに」
「お任せ下さい。……坊ちゃま、お嬢さま、どうかご無事で」
家宰だろうか、あの日アーシェを出迎えてくれた初老の男が頭を下げる。ユージィンはちょっと笑って、アーシェの肩を抱いたままその脇を通り過ぎた。
「無事に帰ってきたら、今度こそ坊ちゃまはやめてもらおう」
―――そうして二人は馬に飛び乗り、一の郭をひた走る、今に至る。
一の郭は、他に比べてそれほど広くない。薄暗がりの中、ユージィンは見事な手綱捌きで馬を操り、あっという間にあの広大な屋敷が見えなくなるまでを走り抜けた。
そうして、その建物、に向かってどんどん近付いて行く。
……王城。
三の郭にあっても見上げることの出来た威容を誇る、この国の王宮、その本宮へ。
「……エルゥは」
自分たちが何処へ行こうとしているのか、聞かずとも解った。そうして、どうしてそこに、エルゥがいるのかも。そうだ、やはり彼は、身分の高い人だったのだ。―――それも、アーシェの想像など超えて遙かに。
家名を言えなかったのも、こうなってみれば解る。だけどひとつだけ解らないのは名前だった。いくらアーシェたち田舎の庶民でも、自国の王とその跡継ぎの名前くらいは知っている。
「ずっと私に、偽名で呼ばせていたんですね」
「それは違う」
ふと漏らしたその呟きを、ユージィンはすぐさま否定した。
「君の考えていることは、恐らく正解だ。だが我が家の誰も、あれをイーニアスなどとは呼ばない。俺を、トリストラムとは呼ばないように」
ああ、やっぱり。アーシェはグ、と唇を噛みしめた。
イーニアス・ベイリアル―――それは、それこそがこのセスイールを統治するベイリアル王家の、世継ぎたる王太子の名前だった。
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