第四節
にしても、あれはあれでこのままにしておけないなあ。
仕事に戻るというユージィンと別れ、アーシェとエルゥは馬車に乗り込んだ。やっと少し落ち着ける、と腰を下ろして馬車が走り始めたところで、そうぽつりと呟いたのはエルゥだった。
「まさか学舎がサロンになってしまっていたとはね。……まだ始めて五年しか経ってないのに、もう意義も意味もなくなっちゃってるよね……」
参った、と溜息をついて天井を見上げている。
「エルゥは通わなかったの?」
エルゥも貴族だ。彼自身がしていた話から考えれば、領地を持たないにしても一定以上の身代をもつ貴族の子弟なら、あそこに通っていたはずではないのか。
「うん、僕はね。あー、ユーグには行って貰ってたはずだけど……、あいつが行けばあいつとお近付きになりたい人たちがこぞって行くだろうから、強制しなくても人集めが出来るし、そうしたら軌道に乗るだろうしって」
あー、でもあいつの場合は周りからちやほやもされるだろうし、そのくせ周りのことになんか興味も持たない馬鹿だから、影で何かあったとしても気付かないよねそうだよね……。
顎先に手を当てて考え込み、ぶつぶつと呟いているエルゥの横顔をアーシェはじっと見つめた。
……エルゥは、貴族だ。
それは最初から解りきっていたことだった。だからそれ以上、アーシェも深く考えてこなかった。
アーシェには貴族社会のことなど解らない。それでも、旅の途中やアーシェにしてくれることを見る中で、相当に位の高い家の若さまなのだろうと予想していた。学舎に、エルゥ自身の権限でアーシェを招聘すると言ったり、王城のある一の殻に屋敷を賜るユージィンたちの親戚で、あれほど親しげであったり。ひとつひとつをエルゥは何気なくしていたけれど、アーシェにだってそれぐらい解る。
だけど、とアーシェはそっと目を伏せた。
……うすうす、気付きかけていた。気付かないでいたほうが良さそうだったから、あえて考えないでいた。そんなことはきっと些細なことで、エルゥや、もっと言えばユージィン、そして彼の家族たちも。彼らがアーシェに向けてくれているのは、本物の親愛だったから。その気持ちの前には、それくらい些細なことだ。そう思っていたかった。
エルゥは、自分の家名を口にしたことがない。
ユージィンたちにしてもそうだ。当主であるアナステシアス卿、令室のアレシア。子息で、おそらくは跡継ぎであるのだろうユージィン。そしてエルゥ自身も。誰一人として、アーシェに自分たちの家名と爵位を名乗ってはいないのだ。
どうやら、ユージィンは貴族たちの中でも目立った存在であるようだった。それも、特に地位が高い。今日の周りの反応や、エルゥの漏らしたことからも解る。だけどエルゥを知っている人は、領地を持つらしい貴族の子息、令嬢たちが集まるあの学舎でも、どうやら一人もいないようだった。いみじくもフレデリックが言っていた通りに、「ユージィンの腰巾着」としか知られていないらしい。おかしなことだ。この国では、十五才で成人を迎える。そうして成人した貴族の若者は必ず、王家主催の夜会に招かれる。そこで交流と人脈を広げていくのが貴族だ。アーシェはそれを、アンセルムとの学習の中で既に学んでいた。それなのに、誰もエルゥがどこの家の何者であるのか知らないという。
アーシェは庶民だ。貴族、平民、という枠組みは知っていても、ではその「貴族」にどんな名前の人がいるか、どんな家があるかなどは少しも解らない。知っているのは常識的なこと―――たとえば、現国王の王弟カーティス大公だとか、庶民の口にも上るような人たちの噂だけだ。だから言われても解らないだろうというのは、解っている。
それでも、こうなってしまっては、それだけではないような気がして仕方なかった。
……フレデリックは、ユージィンを「トリストラム卿」と呼んだ。だからアーシェは最初、彼が誰の話をしているのか解らなかった。
どうして自分に教えられた名前と違うのだろう。だけどエルゥはとても親しげに彼を略称のユーグ、で呼ぶし、ユージィン自体もその名前で呼ばれ慣れている。とても、アーシェを欺くために偽名を使っているようには思えなかった。
その中で、ひとつのヒントが「聖別」だった。
ユージィンがホールに集まる人々を叱咤した時の、あの一言。彼らには教えずにいる名前、だけど自分たちには許されている名前。その答えが恐らく、彼の言った「聖別」にある。
それはいったい、何なのだろう。
……だけど、聞いても良いんだろうか。だいたい、彼らにはアーシェを騙さなければならない理由などない。アーシェはただの庶民だ。小さな田舎の村娘だった。ただ関わらずに、放っておけば良いだけで、騙してまでどうこうするような手間を掛ける理由も意味もない。
だから解らない。
彼らが何をしたいのか。エルゥが、何をしたいのか。
「……………」
小さな馬車を、沈黙が息苦しいほどに埋め尽くした。
―――『見つめた先に何があるのか、その目で確かめることだ』。
言われたその言葉に従うなら、その答えは決まっていた。自分の目で、確かにずっと見てきたもの。それなら、アーシェはエルゥを信じる。彼が今までにしてきてくれたこと、差し出してくれたものを知っているからだ。
それでも。
……彼の隠したい何か、に目を瞑り続ける事は、果たして正しいことなのだろうか……。
「ねえ、エルゥ」
「うん?」
「……エルゥは、私にどうしてほしい?」
アーシェの問いかけに、弾かれたようにエルゥが顔を上げた。考えに沈み込んでいた目が、じっとアーシェを見つめている。
少しの間。多分二、三回の呼吸を繰り返す程度のそれが流れたあとに、エルゥはふ、と小さく、口元に自嘲を浮かべた。
「そうか。……そうだよね。君は聡明だ。……」
アーシェのいだく沢山の問いに、エルゥも気付いたのだろう。ゆるゆると首を振って、嘆息する。
「……アーシェ、僕が君に望むのは」
それでも、その一言を口にする時、エルゥは目を逸らさなかった。こわいくらいに真剣な眼差しで、ひたりとアーシェを捕らえる。
「君が、君の思うように生きてくれることだよ」
泣き出しそうな顔だ、と、思った。……エルゥの言う事は、してくれて来たことは、一貫している。今までに一度も、そこからずれたことがない。
そうして今も。
だから。
「私、あなたを信じてるわ。エルゥ」
もうそれでいい、とアーシェは思った。自分の目で見てきたことを、信じよう。
「……ありがとう」
短く呟いて、そのままエルゥは窓の外へと顔を背けた。だからアーシェには、彼がどんな顔をしてそう言ったのか解らなかった。
「……学舎の件は、もう少し待ってて。急がせてここまで来たのに、ごめんね。何かもっといい、……ちゃんとしたことを、考えるから」
「私は改めて、このままあそこに通うのもいいと思うよ」
「だめだ。君を潰しかねない。……それに、君があんな扱いをされることは、僕が許せない」
「そう。……」
それきり、二人はもう何も喋らなかった。
馬車はすぐに、アーシェたちを屋敷まで運ぶ。そうしてアーシェだけをそこで下ろして、エルゥを乗せたまま、すぐに去って行ってしまったのだった。
―――それから、数日。
エルゥは姿を現さなかった。
エルゥだって王都にいれば、色々とやらなければならないこともあるのだろう。自分だけにかまけていられる訳じゃない。アーシェはそう自分を納得させた。別れ際の彼の様子が気になってはいたが、誰かにそれを聞くことも出来ない以上、ただ待つ事しかアーシェには術がない。
だから。
「くそっ、最近はなかったのに……!」
ユージィンの馬に相乗りし、夕刻の一の郭を今、こうして必死に駆け抜けていることが、アーシェにはまだ信じられなかった。
「アーシェ、大丈夫か。悪いが余裕がない。このまま行くぞ!」
「平気です! だから早く……!! お願いします!!」
供も連れず、ユージィンは屋敷を飛び出した。連れて行って欲しい、と追い縋ったアーシェに、君も来た方がいい、と頷いたのはユージィンだった。
―――エルゥが、暗殺されかかった。
毒を盛られて、今、瀕死の状態にある。
ウィルムからもたらされたその伝えに、アーシェは歯を食いしばる。今はただ彼の無事を祈りながら、一刻も早く彼のもとへ、と、馬を急がせることしか何も出来なかった。
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