第三節(後)

 振り返れば、随分と豪奢なドレスを身に纏ったご令嬢が口元を扇で隠しながらアーシェを睥睨している。

 周りを気にせずに話し込んでいたのが良くなかっただろうか。アーシェは咄嗟に淑女の礼をとって、姿勢も低く彼女に向かって一礼した。

「お騒がせして申し訳ありません」

 くすくす、と辺りから小さな笑い声が聞こえて来る。好奇の視線が、そこら中からいくつもいくつも突き刺さるようにアーシェへ向かって伸びてきた。

 ご令嬢の目がにんまりと弧を描く。きっと彼女は、既に結論を得た上で話しかけてきたのだ。口調だけはやわらかに、声だけは甘くやさしげに装いながら。

「いいえ。ただお見かけしないお顔でしたものですから、気になってしまって……。こちらにいらっしゃるということは、先月の、王宮主催の夜会でもお会いしているはずですわよね。お名前を伺っても宜しいかしら?」

 これは、自分を主役にした見世物が始まった、ということだ。アーシェはぎゅ、スカートの陰に隠して手を握った。それでも、まずは彼女らの望む通りに振る舞うしかない。

「これは失礼致しました。わたくし、アーシェ・ゲニアと申します。夜会には残念ながら、招かれておりません」

……目の前にいるのが、エルゥやユージィンたち奇特なひとたちばかりだったから、忘れていた。伏せた顔の中で、アーシェはこっそりと唇を引き結んだ。

 そうだ、そもそも貴族とは、異物をもっとも嫌うのだ。狭い閉じた社交界の中で人間関係を、立場を築き上げ、それに則って生きる。そうして庶民は、人間とも思われない事が多い。

 身分と権力とで相手をはかる―――それが階級社会というものだ。

「まあ。あの夜会には、今年この学舎に集うを許された者なら全員が招かれたはずですよ。でしたらあなた、ここには場違いというものじゃなくて?」

「―――アダレード嬢。この娘だけではない、この男もそうだ。お前、名は何という?」

 更に追撃が来た。今度は、やたらと身なりの派手やかな少年だった。きっと貴族の中でも、階級が上の方にある家の子息なのだろう。うしろに取り巻きまで連れている始末だ。

「君に名乗る義務があったかな?」

 しかし、エルゥは動じない。にこにこと微笑んだままで、そんな物言いをしている。

「答えろ、この腰巾着め! 貴様、いつもトリストラム卿について回っている男だな。卿がお優しいのをいいことに、ご迷惑だと解らないのか」

「ああ、……何だ」

 勢いよく罵倒し始めた子息を、エルゥはなんと鼻で嗤った。最近では、笑顔以外の顔も少しずつ見る事が増えてきたけれど、エルゥがこんなに意地の悪そうな顔を作れるなんて。アーシェにはむしろ、その方が驚きだ。

「君はあれだね、彼と仲良くなりたいのに僕がいるせいで近付けないから、嫉妬してるのか。そうかぁ。でもそれなら、こんなくだらないことをするよりも、剣の腕でも磨いたほうがいいんじゃない? 君、ドーキンス伯のご子息だったよね。えーと次男の……フレデリック? 確か領地には騎士団もあったよね、修行でもしてきたらどうかな。あいつ剣馬鹿だから、強くなればきっと食いつくよ」

「貴様! 言うに事欠いて馬鹿とは……卿に何たる侮辱を!!」

 ざわ、と、辺りが一気にざわめいた。気付けばホールに居た子息、ご令嬢たちが足を止めて、アーシェたちに注目している。これだけ騒げば、当然かも知れない。

 嘲笑があちこちから聞こえて来る。ホール中の空気が、針となって突き刺さってくるように刺々しかった。

「何よ。それならあなたたち、二人とも、ここにいる資格がないんじゃない。……ここはわたくしたちの為のまなびやよ。さっさと出ておいきなさいな」

 それまでの取り繕った物言いさえ不必要だと判断したのか、アダレードというご令嬢ははっきりと蔑んだ態度で扇をぱちん、と鳴らした。

……だけど、それでも。アーシェはきゅ、と唇を引き結んで、顔を上げる。

「ご気分を害されたなら申し訳ありませんが、それは出来ません」

「何ですって?」

 もしも、今までなら。

―――これが、あの村で起こった出来事だったら。

 自分は這いつくばって許しを乞うしかなかっただろう。それが身分差というものだ。だけど今、アーシェはそうしようとは思わない。自分は招かれてここにいる。ちゃんと、ここで学ぶことを許されている。その権利がある。

 だから。

「わたくしは師の推薦によってここに参りました。既に許可も頂いております。……ここは学び舎だと、あなたも先刻仰いました。学び舎で学ぶ以外の、どんな理由でここを立ち去れと仰るのでしょうか?」

 アーシェはぴん、と背筋を伸ばすと、相手の目を見据えてきっぱりそう言い放った。実際のところは、怖い。とても怖い。階級制度の中で生きているのに、目上の相手へ向かってこんな失礼をするのは震えるほどの恐怖だ。それでも。

 せっかくエルゥが見せてくれた可能性、を、ここで自分から諦めてなんてやるもんか。

 その気持ちが、アーシェの頭を堂々と持ち上げさせる。

「わきまえなさい!」

「お前もだ、下郎! その女を連れて、とっとと出て行け!!」

 アダレードとフレデリックが、それぞれ癇性に叫んだ。そのうしろからも、同じような声が飛んでくる。身の程知らず。恥ずかしい。慮外者め。何と無礼な。その声にエルゥが厳しく眉をひそめて、アーシェをその背に庇おうと一歩、進み出た。

 けれどアーシェは微笑んで、ゆるゆると首を振った。大丈夫。こんなことで負けてなんていられない。

「―――お二方こそ、ここを何処とお思いか! ここは社交場ではありません。より良い国、より豊かな国を作るための学び舎です。そして、ここに集う誰もが、未来の担い手であるはずです。それを損ねることは、即ち国益を害するものではないのですか。あなた方には、いったい何の権利あって国を損ねると仰いますか!」

 その、叱咤は。

 鋭くホールに響き渡った。ぴん、と背中を伸ばして頭をそびやかし、真っ直ぐに相手を見据えるアーシェの瞳の、なんと凛としていることだろう。そこには、侵しがたい何かがあった。若葉の瞳には、確かに炎のような強い光が燃えていた。

 あれほどさざめいていた声が、瞬間、ぴたりとおさまる。しん……、とホール中に沈黙が降りる。

今、この場を圧倒しているのは、間違いなくアーシェだ。

「……フ、……ハハっ」

 痛いくらいに静まり返ったホールの隅から、ひそやかな笑い声が聞こえた。あまりにも場に似合わないその笑い声は、おかしくて仕方ないと言っているような調子で暫く続いた。

「……まったく君は性格が悪いよね。いつから見てたの」

 エルゥがハー……、と嘆息しながら、いかにも面倒そうに首を振る。カツっ、と、沈黙の降りるホールに足音が響き渡った。カツ、……カツ、カッ。

「そうだな、お前が腰巾着って言われた辺りだったかな」

「あれ、結構最初の方だよねそれ。で、この場合、腰巾着の僕としては、君に助けてくれって泣きつけばいいのかな? ユーグ」

「やめろ馬鹿気持ちが悪い」

 そうして姿を現したのは、仕事だと言っていたはずのユージィンだった。カツ。彼が一歩進む度に、軍靴が床を打ち鳴らす。そうして彼はにこ、とアーシェに微笑みかけてから、ゆっくりと辺りを見回した。

 まるで、そこにいて彼女とエルゥを弾劾した者を、全員憶えてやるぞとでも言わんばかりに。

「……だけどまあ、そうだな。お前の言い分は当たっている。何しろ俺は剣馬鹿だからな。君、フレデリックだったか?」

「と、トリストラム卿……」

「君の剣の腕が相当だというなら、是非お近付きになりたいと思う。ちなみに、そこの腰巾着は俺の次くらいには強いぞ」

 ユージィンはニヤリ、と唇の端を持ち上げるようにして嗤った。好戦的な、今にも剣を抜いて飛びかかりそうな獰猛な笑みだった。

 けれどエルゥは、実に嫌そうな顔をして首を振る。

「あのねえ。比べないでくれるかな。君に勝てるようなら、僕が次代のカータレットだ。君には最強でいてもらわないとならないんだよ。僕が困る」

「ハハ。そうだな。俺も譲る気はない。……それに」

 本当は、俺の出る幕でもなかった。そう言って更に進み出ると、ユージィンはとても親しげにアーシェの手を取り、そのまま、その足下へ跪いた。

 あれ、待ってこれ。このパターン知ってる。一瞬、アーシェは頭が真っ白になる。

「君の聡明と高潔に、敬意を表する」

 アーシェに逃げる素振りがないのをいいことに、ユージィンはそう言うと彼女の手の甲にそっと唇を落とした。

 騎士の礼。

……やっぱり親戚だこの二人。行動パターンがまったく同じだ!

「―――さて、貴公らに問うが」

 アーシェの手を取ったまま満足気に微笑むと、ユージィンはすっくと立ち上がった。そうしてもう一度、辺りを見回す。

「彼女の言うことに、何かひとつでも間違いはあったか」

 応えはなかった。フレデリックなど、顔面を蒼白にして血の気を失わせている。アダレードはユージィンの視線から逃げるように、扇の影へ顔を隠していた。

「ここは社交の場ではない。国の為にひらかれた学び舎だ。貴公らがその本分をまっとうしてくれることを、俺も願う。共に次代を担う身としてな」

「……で、ですが、トリストラム卿」

 震えるような声で、それでも声を掛けたのはフレデリックだ。案外根性があるらしい。

「何だ」

「我々は貴種です。まさしく卿の仰る通り、次代を担う者です。ですがそいつらは」

「……貴公は何か、思い違いをしているようだ」

 やれやれ。ユージィンはいっそう面倒そうに、ゆるく首を振っている。更に追い打ちをかけるつもりなのだろうその仕草に、アーシェはやっと我に返ってユージィンの腕を小さく引いた。

「ユージィンさま。どうかこれ以上は」

「ユゥ兄さま、だろう。アーシェ」

……まだ言うか。

「君、まだそれ言う気なの……」

「俺はこの件に関しては譲らないぞ! 妹ができたら溺愛すると、幼い頃から決めていたんだ……!!」

 うんざりとしたエルゥの台詞に、自分が口を滑らせたのかとアーシェは本気で焦った。この件に関して、どうやら自分とエルゥの気持ちはひとつらしい。ユージィンはおとなげなく肩を怒らせているが、先刻までの凜々しさは何処へ行ってしまったのだろう。だめだこの人残念な人だ。

「一度でも良いんだ、アーシェ。そう呼んでくれないかな」

 ああもう、話が進まない。でれでれの笑顔でそう言うユージィンに、これは自分が覚悟を決めなければならない場面だとアーシェは悟った。いい加減、こんな空気の場所からはさっさと立ち去りたいのだ。

「じゃあ、あの、……ユゥ兄さま。お手柔らかにお願いします……」

「可愛い妹の頼みなら、聞かないわけにはいかないな!」

 途端にユージィンは上機嫌になった。ご令嬢には堪らないだろううっとりとした顔で、アーシェに微笑みかけてくる。

 しかし次の瞬間、くるりと振り向いて、

「まさか学舎がここまで腐りきっているとは思わなかった。これでは、何の為に陛下がここをお作りになったか解らんな」

そう言った時にはまるで別人のような皮肉げな顔になっていた。切り替えが早い。

「き、卿……しかし、我々は身分をわきまえろと」

「まだ解らないのか。この二人は、俺のことを何と呼んだ? それは、貴公らには許していない名前だ。この先、知らせることもない名前だ。しかしこの二人にはそれが呼べる。―――聖別を知らぬなら、それこそ貴公に貴族たるやを名乗る資格はない!」

 低く轟くような一括に、ホールを埋めていた若い貴公子たち、ご令嬢たちは竦み上がった。中には顔中から血の色をなくして、今にも倒れそうになっている者さえいる。

 ユージィンは彼らをゆっくりと見回してやるかたない、と首を振り、今度は厳かに、しかし力強く語り始めた。

「……確かに、我々は貴族と呼ばれる身分だ。だが思い違いをしてはならない。我々が持つのは権利ではなく義務だ。より国を富ませ、民を守る報酬としてこの地位を得ているに過ぎんのだ。それを守るではなく嘲るというなら、もう一度、何故自分が田を耕さず羊を追いもせずに暮らせているのか、よく考えてみるといい」

 冷ややかに言い切る。そうして、億劫そうに深い溜息をついた。

 こんなことをさせられるとは、と、彼自身とても不本意なのだろうことが見て取れる顔をしていた。

「……どうしても気になって、様子を見に来て良かった。行こう、アーシェ。仕事を抜けてきたところだが、せめて馬車までは送る」

 いやあなた、お仕事抜け出して来たんですか。お気遣いはありがたいですけど、それはそれでどうなの。

 ぶち壊しだ、とアーシェは天を仰ぎたいような気持ちになった。だがそれを今、ここで口に出すほど愚かでもない。無言のままふわり、とスカートを摘まんで一礼する。

 それを微笑ましそうに眺めてから、ユージィンは打って変わった厳しい目で、じろり、とエルゥを睨んだ。

「エルファ。解ってるな」

「解ってるよ。やれやれ……、ここの始末はあとで僕がつける。アーシェ、ちょっとここじゃ君の勉強は進みそうもないね。他の手段を考えよう」

 とにかく、今日はもう帰ろうか。

「家まで送るよ。……嫌な思いをさせてごめんね」

 そう言うエルゥのほうが、よほど疲れたような顔をしている。そのことが、妙にアーシェは気になった。

「私は大丈夫。仕方ないよね、色々と」

「だめだよ。仕方ないなんて言わないで」

 だが、軽く返したつもりのその言葉に、エルゥはむしろ必死になって食いついた。

「君にはもう何一つ、諦めてほしくないんだ。アーシェ。君は今までだって沢山、そうやって飲み込んできたんだろう。だけどもう、そんなことはさせない。僕が絶対にさせない。だって、……だって僕は、僕こそが君から」

「エルファ」

 がっ、と両手を掴んで言い募るエルゥの肩を、ユージィンが押さえる。ハ、と目を見開いて動きを止めたエルゥにゆっくりと首を振って見せたが、ユージィンはそれ以上何も言わなかった。

 エルゥがアーシェの手を離す。そうしてだらり、と力なく肩を落として、何かを振り払うようにかぶりを振った。

「……ああ。……ああ、すまない。……助かった」

「いや。お互い様だ。……もう行こう、ここに留まる必要なんかないんだからな」

 ユージィンがエルゥの背中をぽん、と叩く様子は、心からの労りに満ちていた。僕は、僕こそが君から。エルゥがそのあとに何を続けようとしたのか、いったいそこには何があるのか、アーシェには解らない。それでも、二人の間に確かな友情があることだけは、こうして見ているだけでも充分に解る。

……今更、エルゥが腰巾着、などと呼ばれたことに心底から腹が立った。いったいこの二人の何を見て、あんなことが言えるんだろう。

『良く見ることだ。見つめた先に何があるのか、その目で確かめることだ』―――

 早朝、出会ったあの夢のような人の言葉が蘇った。剣のこと、だけじゃない。きっとあの言葉には、そういう意味も含まれている。

「……エルゥ、それでも私は、ここに来て良かったよ。本当に」

 アーシェは心からそう言った。エルゥが目を瞠る。その顔にちょっと笑った。

それは、どうしようもない本心だ。あの小さな村にいては解らなかったこと、見られなかったこと、知らない世界がここにはある。そうして自分は、もっと色々な新しいものに、これから触れていくんだろう。

 アンセルムの言っていた、知る、ということ。それはきっとこういうことだったんだ、と、今ならとてもよく理解出来る。

 だけど、だから。

 知らない、ということに気付きもできないその人たちが、哀れだと思った。知らなければ、知らないままでそこにいるなら、きっと彼ら彼女らは、そこからどこにも行けないのだ。

 立ち去ろうと促してくるユージィンの手をそっと押し留め、アーシェはくるりと振り返った。立ち去ることさえ出来ずに三人の様子を窺っているホール中の人々を、ゆっくりと見渡す。そうして。

「……アダレードさま、フレデリックさま。そして皆々様も。お騒がせして申し訳ありませんでした」

 今や取り巻きからすらも目を背けられているその二人に向かって、深々と一礼した。

「アーシェ」

「お二方のご身分に対する誇りは、尊いものだと思います。そこへ突然、わたくしのような者が現れては、守るべきを侵されたとお思いになっても仕方のないことだったでしょう。考えが至らず、申し訳もございません」

「アーシェ、もういい」

「……ですが」

 引き留めようとするエルゥの手に、そっと手を重ねる。エルゥ、私を連れ出してくれた人。私の可能性。

 私にとってのあなたが、どうかこの人たちにも現れてくれますように。心から、そう願う。

「どうかご覧になってください。未知は、おそろしいだけのものではありません。わたくしはお二方にここで出会えたことに、心から感謝致します」

 あなたたちに出会わなければ知らなかったこと、気付けなかったことも、きっとあるから。

「お騒がせ致しました。どうかみなさまが健やかであらせられますよう、お祈り申し上げます」

 もう一度頭を下げてから、アーシェはにっこりと微笑んだ。重ねた手をぎゅっ、と握る。

「行こう、エルゥ」

「……アーシェ」

 君って人は、本当に。顔を歪めるエルゥに笑いかけて、アーシェは歩き出した。

 静まり返ったホール、痛いほど突き刺さる視線の中を、それでも堂々と顔を上げて歩く。

そのまっすぐに伸びた背中へ、先刻までとは違う意味での熱量を持った視線が混じって向けられていることに、アーシェは少しも気付かなかった。



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