第三節(前)

 今日は元々、学舎へ向かう予定を立てている。

 剣の稽古を終えたアーシェは何食わぬ顔で部屋に戻り、メイドたちの手を借りて着替えを済ませた。朝食の席には既にエルゥがいて、ちゃっかり自分も食事にしていたのには笑ったものだ。

「俺は今日、仕事があるから付き添えないんだが……大丈夫か? エルファ」

 ご当主とご令室は忙しいようで、朝食の席には現れなかった。心配そうにそう言ったのはユージィンで、既に軍装をまとっている。

 ぴしりと詰まった立て襟、身体をぴったりと押し包むような上着はいかにも禁欲的だった。昨日はご令嬢たちの憧れである貴公子、といった風情だったものが、こうして見ると軍人にしか思えない。そんな厳しさがある。

「何で僕に聞くかなあ。大丈夫だよ、君は心配性だね」

「お前だから心配なんだ」

「言ってくれる」

 エルゥはむすっとして不機嫌そうに答えていた。何だか可愛いな、子供みたいだな、と思ってしまったのは彼には内緒だ。

 それから、二人で馬車に乗り込み王宮の敷地内にあるという学舎へ向かった。アーシェが首を傾げたのはその時で、今日の御者はウィルムではなかった。

―――彼とは、お屋敷の前で馬車を降りて以来顔を合わせていない。

「さて、アーシェ。ここが学舎だよ。広いから迷子にならないように、僕にちゃんとついてきてね」

 そうして訪れた建物は、学舎、と聞いてアーシェが想像していたよりもずっと広く、開放的で、清潔だった。

 アンセルムから聞いた話では、学舎とは学者それぞれの研究室が集められた建物だったはずだ。清掃も入っているが、汚す人数の方が多いので掃除が追い付かない、とも。

ただ、書庫だけは一見の価値がある、と。天井までを埋め尽くす書籍の数々はどれも貴重な物ばかりで、それだけはいつかお前さんにも見せたいもんだ、と笑っていた。

―――だが。

「エルゥ……」

「うん? どうしたのアーシェ」

「ここ、本当に学舎なの……?」

 連れて来られた建物はむしろ、サロンかと思うほど美しかった。

 足を踏み入れたホールには、あちこちに着飾った貴公子やご令嬢の姿がある。彼らはそれこそ、お茶会か何かにやってきたのかと思うほど華やかな様子で、社交に励んでいるようだ。

「ああ……、そうか。メイベンから聞いていたのかな」

「うん。先生、もとは学舎にいらっしゃったんでしょう?」

「んんーいたって言うか住んでたっていうか。難しいところだけど」

 エルゥは軽く肩を竦めた。

「五年ほど前にね、子息ご令嬢の受け入れを始めたんだ。それもメイベンが以前に提唱してた施策でね。……ねえアーシェ、国家の運営で大切なことは何だと思う?」

 突然の問いかけに、アーシェは首を捻る。その手の話は、アンセルムから散々叩き込まれたものだ。

「一言では言えない。色々な要因が絡み合ってることだから。でも先生は、一番は『平和』だって言ってたわ。それも、できるだけ長くの。……戦争は、国を疲弊させるから」

「ああ、そうだね。その通りだ。ごめん、質問が悪かったな」

 エルゥは苦笑して、後頭部をガリガリと掻いた。んー、と顎先に手を当てて、ちょっと考える。

「説明が難しいな。……そもそも、領地制はまったくもって効率的じゃないんだよ。領主ごとに施策も能力も違う。例えばだけど……、この国の食糧庫って言われてるヘッグワーズ丘陵地帯、……そうだね、君の村があったところだ。もしあそこの領主が手の付けられないバカで、領地を荒らしたらどうなると思う?」

 ヘッグワーズは実に、セスイール中の麦と小麦の大半を作っている。それがなくなってしまったとしたら。

「……飢饉が起きる……?」

「そう。大打撃だ。でも、そういう危機はヘッグワーズだけのものじゃない。牧羊の盛んな地域だとか、それこそ国境地帯だとか。全ての領地が健全に機能していないと、国力は下がる一方になってしまう。ここまでは解るね」

「うん」

「だけど、領主の教育というのは各家の裁量に任されている。どれだけ優秀な教師を招けるかだとか、領主自身がどれだけの知識を次代へ伝えられるかだとか。それじゃ勿論、領地によって差が出ちゃうよね。教師だって全員が同じ力量を持ってる訳じゃないんだし」

 そこで、メイベンは国王に提言したんだ。

「まず、優秀な教師たちを研究員として迎える。まあ、教師はほぼ食い詰めた学者の仕事だったからね……。知識や研究の散逸を防ぐという意味合いもあったんだけど。そしてそこで、次代を担う子息令嬢たちに学舎を開放したんだ。絶対通えとは強制できないけど……、優秀な教師はほぼ集めたから、一定以上の教養を求めるならここで学ぶしかない。そういう仕組みを作ることで、領地経営の能力に極端な差が出ないようにできるんじゃないか。そんな試みをしてるんだ」

 もっとも、メイベンがこれを提唱したのは十年以上も前のことだった。そう続けて、エルゥは眉をしかめた。彼がこんな厳しい顔をするのは、滅多に見ない気がする。

「先王陛下の時代の戦争で疲弊して、そこからの復興が遅れた地域のための策だったと聞いてる。なのに実現には、ここまでの時間が掛かった。……メイベンが呆れて王宮を去るのも当然だね」

「そんなこと。簡単に始められるようなことじゃなかったんだと思うけど」

「うん。そもそも難航したのだって、……いや、やめよう、それは今する話じゃなかったよね、ごめん。まあとにかく、今学舎はそういうふうになってるんだ。だから君も、ここで存分に学ぶといいよ」

 学長には話を通してあるし、メイベンからの推薦状もある。

「君は彼の専門を学んできたみたいだから、その手の講義をいくつか受けてみようか」

 そう言われてみて、アーシェは再度、首を傾げた。そういえば、ただ漫然と教えを受けていたけれど。

「先生の専門ってなあに?……私、てっきり旧帝国の歴史かと思ってた」

「ああ、うん。近いんだけどね。……まったく小憎らしい。メイベンの専門は」

 国家の興亡だよ。

「そこには勿論、国家運営だの経営だのの話も含まれてる。政治や経済にも手を出して、しかも誰よりも造詣が深いんだ。まったく憎らしいよね!」

 随分朗らかにそう言い放って、エルゥはハ! と短く嗤った。よく解らないが、手紙を見付けた時といい、彼はアンセルムに思うところがあるらしい。

 これはつつかないほうがいいかな、とアーシェは無言を押し通すことにした。世の中には、言わなくても良いことの方が結構多い。

「まあ、それはそれとして。……行こうか。アーシェ、この間ちょうど旧帝国の本を読んでたよね。旧帝国を例にとって徴税の話をする講義があるから」

「あ、面白そう。先生に渡された本が役立ちそうね」

「……面白そう、って言っちゃえるのが君の強みだよね……うん、君が楽しそうで良かったよ……」

 何故かエルゥは力なくハハ……、と笑った。そうして、アーシェにスイ、と手を差し出す。もう慣れた仕草で、アーシェもその手を取った。

……けれど。

「お見かけしないお顔ですこと。あなた、どちらのご令嬢でしたかしら?」

 不意に、二人の背中からそんな声が掛かった。

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