第二節

 初めて王都で眠った翌日、アーシェは朝もまだ暗い内からぱっちりと目が覚めた。

 村に居た頃と同じだ。丘の上の小さな家では、暗い内から起きて火を焚き、家を温めながら水を汲んで、朝食の用意をしなければならない。ここではそんなことをする必要はないのに、むしろさせて貰えないだろうに、と苦笑しながら、ゆっくりと身体を起こした。

 身を包むのは、用意されていた絹の寝間着。しっとりとやわらかな布地は、薄暗い天蓋付きの寝台でも鈍く光沢を放つ。こんなもの、一張羅を仕立てたとしても手が届かない。それが寝間着なのだから、何とも贅沢な。

 驚いたことに、アレシアの手によって調えられたアーシェの部屋には、既に彼女のための着替えが衣装室いっぱいに用意されていた。さすがに盛装用のドレスは少し手直しをしなければならないらしいが、その他のものはリボンなどである程度調節が出来るよう作ったらしい。

「娘にドレスを作るのが夢だったのよ! ああ嬉しいわ、ありがとうアーシェ。堪能したわ!息子の礼服なんか軍人でしょう、軍礼装に勲章をぶら下げるだけなんだもの。つまらないったらないのよねえ。かわいいドレスをいっぱい作ってみたかったのよ」

 固辞するより先にそう言われてしまっては、いりませんとも言えなかった。内心でこっそり、これも出世払いで、とだけ呟いておく。……借金が妙に増えそうだ。

 天蓋から降りるカーテンが、白と淡い桃色なのは昨夜泊まった宿と同じだった。流行なんだろうか。そっと開けて、ひたり、ベッドから足を下ろす。そうしてアーシェは用意されていた革靴ではなく、自分の持って来た布靴に足を通すと、クローゼットではなく木箱へと歩いて行った。

 そこには、アーシェの持ち込んだ荷物が整頓されて入っている。

「……うん」

 アーシェはその中から、いつものブラウスとスカートを取り出した。さすがにコットは着られないな、と苦笑して、手に取ったものの元に戻す。そして素早く着替えると、顔だけを洗って髪を梳いた。いつもの身支度。手間はそれほどかからない。

 寝台にまで持ち込んでいた剣を剣帯に。そしてアーシェは部屋を出るためにドアへ向かった。あの高級宿もびっくりするぐらい広かったが、この部屋は更に広い。その上、衣装室と侍女の控え室までが続きになっている。アーシェには想像もつかない贅沢だった。

 調度品に至っては、言わずもがなというやつだ。飴色に磨かれたライティングデスク、きれいに象嵌をほどこした鏡台に姿見。窓はアーシェの背丈ほども大きく、その全てにガラスが填め込まれている。どっしりとした、ドレスでも作れそうな厚地のカーテン、それをまとめる房飾りのロープ。ひとつひとつ手が込んでいて、いったいどれだけの職人が携わったのだろうと思うと目眩がした。

「……大丈夫、かな」

 そっ、とドアをほんの少し開けて、隙間から廊下を覗く。

 払暁のさきがけが空の端の方をほんのり薄く、淡くしているが、まだ大部分は煮詰めたような紺色だ。夜明けまでにはまだまだ時間がある。

 眠る時には人の気配で賑やかだった屋敷も、今はしん、と静寂に沈み込んで眠りついていた。これなら大丈夫。アーシェはひとつ頷いて、そっと廊下に滑り出た。


 昨日のうちに、もう、訓練場は案内してもらってある。


 どこまでも続いていそうな長い廊下を、ひたひたと歩いた。ただでさえやわらかい布靴な上、足下にはどっしりとした重厚な絨毯が敷かれている。足音を気遣わず歩けるのはありがたい。

 ぐるり、と大回りして、内庭に降りる。外庭と前庭は美しくととのえられていたのに、内庭の一角だけは質素なままだった。ただ、堅い石壁に囲まれて、足下だけを堅く踏みならしてある。そこが訓練場だった。自警団で使っていた練兵場と同じくらいの広さがある。聞けば、ここを使っているのはほぼ家族だけだという。

 自由に使っていいよ、との許可は、夜の内にもらっていた。

「……………」

 まだ、辺りは暗く夜に沈んでいる。だけどアーシェにはほんの僅かな月明かりで充分だった。左腰に手を置く。ぐ、と握った柄がひんやりとしている、その感触に少しだけ微笑んだ。

―――抜剣。

「セイっ!」

 そのまま、鋭く振り抜く。左から右へ。

「……ハッ!」

 剣先が踊るように弧を描いた。右上から左下へ。そうして今度は、正眼の位置でぴたりと止める。構える。

 新調したばかりの剣は、まだ手にしっくりと馴染むとまではいかない。村で使っていたものよりもずっと軽く、ずっと鋭い。早くこの重さに慣れなければ。

「……んっ、」

 そのまま、アーシェは背筋を伸ばして片手での素振りを始めた。三回に一度、大きく踏み込んで突き上げる。すぐさま飛びすさって距離を取る。そしてまた、その繰り返しを。

 単調な動作だけれど、すぐに息が切れて汗が滲んできた。剣を持つ右手が重い。これは両手剣だけれど、利き手でしっかりと持てなければ思うようには使いこなせない。だから、右手だけで振りきれるように訓練する。何回も、何十回も、何千回も。

 アーシェは愚直に、ずっとそれを繰り返して来た。踏み込む動作も、飛びすさる動作も含めて数え切れないくらいに。

 そのおかげで、姿勢を崩すことなく剣が振れる。体勢がしっかり取れているから、少しの攻撃では崩されない。

 この愚直さこそが、アーシェの強さだった。

「……いい剣筋をしている」

「っ、!」

 アーシェは息を止めて振り返った。勿論、剣を構えるのは忘れない。

 誰の気配もなかったそこ、無人だったはずの訓練場に、いつのまにか一人の男が立っていた。随分と線の細い男だ。薄暗くてはっきりとは解らないが、アナステシアス卿と同じ位の年頃に見える。

 足首までを覆うようなゆったりとしたローブ姿は、その男を学者か医者かと思わせた。だけどそれだけじゃない、とアーシェは思う。男からは、あの日、エルゥに向けられた威圧のようなものがはっきりと漂ってきていた。

「……ここをお使いですか」

「いや。寄ってみただけだ。こんな時間に人が居るのが気になってね。……」

 ふ、と短く、男は笑う。

「いい目をしているね。それに、私の気配も解るようだ。そうだ、私は警戒している。だけどそれ以上に、君に興味もある」

―――君の話は、アニーから聞いている。

 と、男は言った。エルゥと同じ呼び方だ。

「ご当主のお知り合いですか」

「ああ。古い友人だ。あれがまだ、バギンズの姓を名乗っていた頃から」

 バギンズ? 何の事だろう。だけど相当、古くからの友人なのだろうということは伝わって来た。

「……邪魔をして悪かった。稽古中だったんだろう。ああ、そうだ」

 思いついたように、男は左腰へ手を伸ばす。咄嗟にアーシェは身構えた。

 きらり、薄暗がりの中で硬質な光がきらめく。ほんの僅かな月光を反射して輝くそれ。

……抜剣された、その、剣先。

「邪魔ついでに一戦、お相手願おうか」

 すらりと構えられた剣先は、その真正面にアーシェをしっかりと捕らえていた。圧倒される。この気配は何だろう。あの時、エルゥは殺意と敵意、と言った。あれとはまるで違う。だけどもっと、恐ろしい。

「来なさい」

 それでも、否やは言えなかった。アーシェはグっ、と柄を握る手に力を込めると、踏み出すための爪先に体重を掛けた。

「―――お言葉に甘えて、参ります」

 言った瞬間に、矢のように飛び出す。

「ハァアアア……っ!」

 アーシェの身上は身軽さと速度だ。相手に全く、飛び込める隙なんか見えない。でも、だとしたら、素早さで相手の虚を突くしかない!

「……悪くない」

 ひっそりと、その人は呟いた。そして、刹那。

「だが、まだ甘い」

 キィンっ、と金属の弾かれる音がした。アーシェの剣が、たったの一合を打ち合っただけで絡め取られ、巻き上げられて宙を飛んでいく。

 アーシェは呆然と痺れる右手を押さえ、買ったばかりの剣が地面へ落ちていくのを目で追った。そんな馬鹿な。たったの一度で弾かれるなんて。

「真っ直ぐな剣だ。君の気性をよく表している。それは良い事だ」

 その人は、悠然と剣を鞘に戻しながらそう言った。しかし、だが、と続ける。

「世の中には、それだけでは立ち向かえない相手もいる。良く見ることだ。見つめた先に何があるのか、その目で確かめることだ」

―――剣には、人生がそのまま乗るものだからね。

 その人はそう言って少し笑った。そうすると、もうあの身震いしてしまいそうな恐ろしい気配はすっかりなくなってしまった。

「邪魔をした。頑張りなさい」

 そうして、音もなく母屋の方向へと立ち去っていった。白いローブの影だけが目の裏に残って、ゆらりと消える。

「……何だか、夢を見ていたみたい」

 右手はまだ軽く痺れている。それでも、目の前からすっかりいなくなってしまったあの人はまるで白い影のようで、夢だと言われたら納得してしまいそうに存在感がなかった。

 近くに居た時には、あれほどに圧倒的な気配があったのに。……まるで飲み込まれそうなほど、ぶわり、と覆い被さって来た。力尽くで押し潰そうとするような、そんな気配だった。

「……訳わかんないなあ」

 アーシェは首を捻りつつ、飛んでいった剣を拾うために歩き始めた。

 謎の人。夢のような、あやふやな出来事。

 だけど何か、大切なことを言われたような気がする―――忘れないでおこう、とそっと胸に手を当てて、静かに一度、目を閉じた。

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