第一節(後)

「あのねえ、そろそろそのかわいいかわいいアーシェが限界だと思うよ、あなたたち。まったく本当に一家揃っておとなげないよね、ちょっとは落ち着きってものを学んだらどうかな」

 いやそれあなたが言うかな。と、思わず言いそうになって、アーシェは口元を押さえた。エルゥがやれやれだ、と聞こえてきそうな仕草で首を振っていたからだ。大元が何を言う。

 しかし、それで一家は我に返ったようだった。ハッ、と一斉に戸惑うばかりのアーシェに視線を集中させて、その反応を伺っている。

いやそれどっちにせよ両極端です。引き攣りそうになりながらもアーシェは愛想笑いを浮かべた。好機だ。ス、と姿勢を正す。

背中は真っ直ぐに。そのまま、膝を折って肩と腰とを少し落とす。カチ、と剣先が床に当たって鞘を鳴らした。

ただでさえ長いスカートの裾が床にわだかまり、少しだけ持ち上がって膨らんでいる。なるほど、片手でそれを押さえるのは、動作につれて形の崩れるドレスを少しでも美しく見せるためなんだ。母の教えてくれた作法の意味を、やっと実感した。

そうして、もう片手は胸へ。

「―――お初にお目に掛かります。ユージィンさまには、またお目にかかれて光栄に存じます。ご挨拶が遅れて申し訳ございません、わたくしアーシェ・ゲニアと申します。これからお世話になりますが、何分田舎育ちですので、至らないことばかりかと存じます。どうぞご指導のほど、宜しくお願い致します」

 体重を感じさせない動きでふわり、と一礼し、アーシェはそのままの姿勢で彼らからの返答を待った。やっとまともに挨拶が出来た。何だろう、こんなのは最初の最初にやっておくべきもののはずなのに、やたらと達成感がある。

「……………」

 やりきった、と感慨に浸っていたが、いつまで経っても反応がない。あれ何これ私やらかした? えっ? ちょっと何この沈黙コワイ誰か何か言って何でこんなことになってるの!? ねえ!

 焦るアーシェの耳に、ふ、と苦笑の気配が届く。エルゥだ。だけど作法上、顔を上げるわけにはいかない。次の手が思い浮かばず、アーシェは冷や汗をかく思いでじっとしていた。と、その肩に柔らかな手がそっ、と置かれた。

「素敵なご挨拶ね。どなたから習ったの?」

「ありがとうございます。無作法でお恥ずかしい限りですが、母に」

「……そう。……さぞかし、あなたを大切に育ててくださったんでしょうね。挨拶ひとつでも、とてもよく解るわ」

 アレシアだった。小さな手、仕事などひとつもしたことのないような白い指先が、やさしくアーシェの肩を撫でる。

「さあ、もう顔を上げて。かわいいアーシェ。ここはあなたの家よ、わたしたちは家族よ。畏まらないで、あの不肖の甥と同じように気楽に接して頂戴ね」

「勿体ないお言葉にございます。……ありがとうございます」

 良かった、どうやら失礼はしていないみたいだ。ほっとして顔を上げたアーシェに、アレシアはそれは愛らしい微笑みをにっこりと浮かべた。

「剣を使うのね、アーシェ。勇ましいこと」

「……はい。女の身で、お恥ずかしい限りですが」

「どうして? 少しも恥ずかしくなんてないわ。うちは武人の一族なのよ。ねえあなた」

 振り返る妻に、アナステシアスは嬉しそうに顔をほころばせる。

「そうだとも。数は少ないが、一族には女騎士も数名いる。良ければ今度引き合わせよう。……己を鍛え、守る力、苦難を打ち破る力を得ようとすることに、何を恥じることがあるものか。むしろ私は嬉しいよ、アーシェ」

―――守る力。

 苦難を打ち破る力、と、当主は言った。

 アーシェにはそれが嬉しかった。そうだ、私が欲しかったのはいつでも、守る力だった。

 剣は人を殺す。傷付けもする。それはウィルムの言った通りだ。だけどきっと、それだけじゃない。……そう信じたい。

「我が家には訓練場もある。あとで案内しよう」

……だいたいの話は、もう聞いているよ。頑張ったね。そう当主はぽつりと続けて、それから、僅かな感傷を振り切るように両手を広げた。

「さあ、我が家の娘、我が家にようこそ! 長旅で疲れてはいないかね。まずはお茶でもどうかな?」

 当主のその姿は大仰ではあったけれど、アーシェの身の上に深く同情し、歓迎してくれていることがはっきりと解った。そうか。そうだ。この人たち、いい人たちなんだ。……ただちょっと、色々行きすぎてるだけで。

「アニー、先に部屋へ案内してあげて。荷物も置きたいだろうし、オントーから馬車に揺られてきたんだ。アーシェだって一息つきたいでしょ」

 エルゥの顔からは苦笑が消えない。それでも、そう言い出してくれてアーシェはほっとした。いい人たち、なのは解るが、最初からこれではちょっと強烈に過ぎる。少し落ち着きたい。

「ああこれは失礼した、そうですな。どうにも気ばかり逸ってしまう。……ユーグ、部屋に案内してあげなさい。私達は一足先に居間へ行っていよう」

 アニー、と親しげに呼ばれた当主は、照れくさそうに笑って息子を見た。ユージィンが頷く。

「じゃあ、またあとでねアーシェ」

 しかし、エルゥまでがそう続けたのにアーシェは目を瞠った。

「……エルゥは?」

「僕は先にお茶を頂いてるよ。無駄に喉が渇いた……まったくここの一家ときたら、はしゃぎすぎなんだから。ついでにちょっとお説教してくる」

 お説教とは。

……まあ確かに、この調子でずっともてはやされるのも困る。本当に困る。とてもとても困る。エルゥがどうにかしてくれるなら、それは何ともありがたい。

 だけど知らない家で彼とこんなにすぐに離れてしまうのは、少しだけ心細い。……

「大丈夫だよ、アーシェ。ユーグは自由に使っていいからね」

「お前な。……でもまあ、エルファの言う通りだ。俺で良ければ好きに使ってくれ。さあ、行こう」

 馬車から荷物を下ろしたらしいフットマンが、いつの間にか開け放したままの玄関に佇んでいた。とは言っても、アーシェの荷物など麻袋にひとつしかない。

 主人一家の狂乱する姿からいたたまれなさそうに目を逸らす若いフットマンの姿は、あまりにも哀れだった。どうやら、早くこの場から退散したほうが良さそうだ。

「では、お願い致します。ユージィンさま」

 一礼するアーシェに、ユージィンが首を振る。

「ユゥ兄さま、だよ。アーシェ」

 それはいい笑顔でにっこりとそう告げられたのには、さすがに耐性の出来てきたアーシェも絶句した。

「エルファがエルゥ、なんて親しげに呼ばれているのに、俺が様付けなんて悲しいだろう」

「いえ……あの、それは……」

「さあ、言ってみて。ユゥ兄さま」

 そのご立派な格好やいかにも貴公子、といった姿ばかりに目がいって気付かなかったが、ユージィンはよく見るととんでもなく顔が良かった。エルゥは頬が下ぶくれしていてぽちゃっ、と可愛いが、こちらは紛うことなき正統派の美形だ。精悍に引き締まった頬も、涼しげで切れ長の瞳も、落ち着いて大人っぽい薄い唇も、いかにもご令嬢がたに騒がれそうな顔立ちをしている。なるほど、あの妖精のような女性から産まれただけはあった。

 その顔がにっこり笑って、ぐいぐい容赦なく迫ってくるところを想像して欲しい。正直本当に勘弁だ。庶民には荷が重い。

 その後頭部に、すこーん、と良い音がして何かがぶつかった。

「言った傍から困らせてどうする。本当に君は馬鹿なんだな、ユーグ」

 エルゥだった。見れば足下に、携帯用のペンが無残にもぽっきり折れて転がっている。

「……お前な」

「アーシェが君をどう呼ぶかは彼女の自由だけどね。無理強いは騎士の精神にもとるんじゃないかな」

「だからって投げる奴があるか!」

「投げられるまで自制出来ないお前が馬鹿だ!」

……ああもう、本当に勘弁して頂きたい。

 ぎゃあぎゃあと喧嘩し始めた二人を、当主とその妻は微笑ましく見守っている。何でニコニコ笑っているのか、こっちもちょっと意味が解らない。

 アーシェは天を仰いだ。

 あの最初の街で出会った、軽妙なウィルムのからかいがここにあれば、どんなに助かったことだろう。惜しい人を亡くした……と嘆息して、とうとう剣の柄にまで手をかけ始めた二人の間へ飛び込む準備をした。



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