第二節(後)
そうしてエルゥに連れられて入った部屋は、部屋というより家だった。
建物の四階部分全てがひとつの部屋扱いになっているそうで、アーシェの暮らしていた小さな家なら五つぐらいは余裕で入ってしまいそうなほど広い。階段を上がりきるとドアがあって、エルゥはそこを上着の内側から取り出した鍵で呆気なく開けた。
聞けばここは彼の幼馴染みの一族が経営している、上流階級向けの宿らしい。その最上階は全て、エルゥとその幼馴染みのための部屋になっているそうだ。スケールが違う。
ドアの向こう側にはすぐに小さな部屋があり、そこは使用人が主人との取り次ぎをするための部屋だと聞いた。それでもまだ、アーシェの家の居間より広々とした部屋だったが。
そうして、そこを抜けると大きな居間と、その並びに食堂。その向こうには長い長い廊下があって、見れば途中途中にドアが四つほど並んでいる。そこが各個室になるのだそうだ。
食事は、その二人で使うには広すぎる食堂で取った。
「戻りました」
「あ、お帰りウィー。君も何か食べる?」
その途中で、ウィルフが帰ってきた。その態度は、主人であるエルゥをからかって遊んでいたあのウィルフと同一人物だとはとても思えないほど恭しく、そして硬質だった。これも役割、ということなんだろうか。
「私のことはお気になさらず。お連れして参りましたが」
「うーん、まだご飯が途中なんだよね。でもまあ、仕方がないか」
汚れてもいない口元をナフキンで拭いつつ、ちょっとだけ面倒そうに眉を寄せてから、エルゥはアーシェに向き直った。
「アーシェ。僕はちょっと人と会う用事があるから、ここで失礼するよ。君は食事が終わったら、ウィーと一緒に買い物に行っておいで」
「買い物?」
そんな予定はないし、特別何かを買おうとも思っていない。目をぱちくりとさせるアーシェに、エルゥはちょっとだけ悔しそうな顔をする。
「本当は君の物は、全部僕が見立てたかったんだけどね……。そうもいかないみたいだ。ウィー、アーシェに普段着用のドレスを二、三枚と、訪問用を二枚程度。それに合う靴、アクセサリー、手袋、その他必要なものを彼女と一緒に一式揃えてきてくれ」
「畏まりました」
「ドレス!? 私、そんなの買えない!」
恐ろしい単語を聞いた。目を剥くアーシェに、エルゥは笑って応える。
「勿論それは僕が出すよ。ああでもね、これは贈り物じゃない。制服貸与みたいなものだと思って」
買って貰ういわれもない、と続けるつもりだったアーシェの台詞を、エルゥは言わせないまま封じてしまった。
―――制服。
「これから、君は国の最高学府に行くんだ。逗留する場所も、それなりの格式があるところになる。時と場合と場所に相応しい格好を調えることは、礼儀の一つでもあるね。だから今日、揃えて貰うのは、そこに行くための制服か―――もしくは戦闘服みたいなものなんだ。君を学舎へ招聘したのは僕なんだから、それは僕が用意して当然だと思わない?」
お屋敷の女中さんだって、お仕着せの制服は主人が一括で用意するでしょ。そう続けられては、アーシェにもう拒む言葉は残っていなかった。何だか上手くまるめこまれてしまった気がする。
「……出世払いでいいですか。いつか絶対、お返しします」
それでも、たとえ強がりでも、アーシェはそれを言わずにはいられなかった。灰被りの少女。おとぎ話のお姫様。王子さまからの贈り物はいつも、綺麗なドレスに輝く宝石だ。
アーシェはそれをずっと、いらない、と思い続けてきた。だから今、これを喜んで受け取ってしまっては、自分が自分でいるために大切な何かが変わってしまう。
きっとエルゥもそれが解っているから、制服、なんて言い方をしたのだろう。……エルゥはいつも、本当にやさしい。
果たして、エルゥは笑いながら立ち上がると、アーシェに向かって悪戯に片目を閉じて見せた。
「期待して待ってるよ。君ならきっとそれ以上のものを、僕に返してくれると思うからね」
そうしてひらり、片手を振って、応えも待たずに慌ただしく食堂を出て行った。
……一人入って、一人出て行った空間。人数の増減は結局なかった事になるのに、なんだか急に、がらんとした気がする。
ウィルフはエルゥが出て行っても尚、席には着かず、食卓の後ろへ控えるようにして立っている。ただでさえ給仕の男性たちに見守られながらの食事はアーシェには不慣れなものだった。気後れしてしまう。
「ウィーさん、あの……座りませんか」
「お気になさらず、ご令嬢。主と同じ食卓を囲む栄誉は、また後ほど」
「あ、主って。だってエルゥはもういませんよ」
それに私はご令嬢では。そう言いかけたアーシェを、ウィルフは首を振って制した。
「あなたは主がただ一人とお認めになった御方。ならば私にとっては主と同じ礼を尽くすべき御方です」
やりにくい。どうにもやりにくい。あの、事あるごとにエルゥをからかう調子の軽いウィーさん、はどこに行ってしまったのだろう。
気詰まりな食事をどうにか飲み込み、それからやっとアーシェはウィーを伴ってその屋敷を出ることになった。今日は午後いっぱいを使って、王都へ入るための準備をするのだとウィルフは言う。
口元を拭き、食堂を出る。通りかかった居間からは、エルゥと誰か低い声の男性が話している様子が聞こえた。
「ああ、アーシェ。出かけるのかな」
そのまま通り過ぎるつもりだったアーシェに気付いて、呼び止めたのはエルゥのほうだ。わざわざソファから立ち上がって、取り次ぎの小部屋に向かうエルゥに微笑みかけた。
「丁度いい。紹介するよ。僕の幼馴染みで、ここの持ち主のユーグ。ユーグ、彼女がアーシェだ。どうだい、びっくりするほど綺麗な子でしょう!」
エルゥの向かい側に座っていた男が、スッ、と立ち上がる。エルゥの自慢げな一言を否定するべきかどうかハラハラしながら、アーシェは片脚を引いて一礼した。勿論、母に教わった通りの淑女の礼だ。
「君が……そうか、……。俺はユージィン。お目にかかれて光栄だ、レディ」
背の高い人だった。エルゥもそう低い方ではないと思うけれど、それより頭ひとつ分ほど高い。つやつやと濃い茅色の髪を長く伸ばして、耳の脇でひとつに結んだものをぐるりと首に巻き付けている。深い緑の瞳には、静けさと穏やかさと力強さがあった。あれは真夏、強い陽差しを遮ってくれる優しい木立の葉の色だ。
「お初にお目に掛かります。ご紹介に預かりました、アーシェ・ゲニアと申します。ユージィンさまにおかれましては、ご機嫌麗しく……」
「ああ、いい、いいよ。畏まらないで。俺の事はユゥでいい。エルファだってエルゥと呼ばせているんだろう?」
まったく困った奴だ。そう言って苦笑するユージィンの口調は、言葉を裏切ってとても穏やかだ。
「エルファは我が儘だから、君に迷惑を掛けていないか」
「エルファ……?」
聞いたことのない名前だ。首を傾げるアーシェに、ユージィンはちょっとだけ眉をしかめた。
「エルファお前、まともに名乗ってもいなかったのか。何をやっているんだ」
「いやだな、ちゃんと名乗ったよ。エルゥって。充分でしょう」
「どこが充分なものか。お前がどれだけこの子を振り回してここまで来たのか、俺は何だか解ったような気がするぞ……」
はー……、と深々溜息をつきつつ、やれやれと首を振る。そうしてからアーシェに向き直ったユージィンの目は、その色と同じにやさしくアーシェを見下ろした。
「こいつはエルファレットと言うんだ。この調子じゃ、きっと君にも色々と無茶をさせたろう。……代わって謝罪する。すまない」
迷惑を掛けたね。そう言ってユージィンはちょっと微笑み、アーシェの頭にぽん、と手を置いた。堅く引き締まってとても大きな、暖かい手をしていた。
「いえ、あの、エルゥには本当にとても良くして貰っていて」
「……そうだな。色々と面倒な奴だが、君に悪いようなことは絶対にしないと……それだけは俺も、確信を持って言えるよ」
「ユーグ。君は僕を信用してるのかしてないのか、いったいどっちなんだ」
「勿論、心からしているとも。良くも悪くも、あらゆる意味でな」
二人のやりとりには、ウィルフともまた違った気安さがあった。幼馴染み、という存在がアーシェにはいない。その親しさが、何だか羨ましいような気がする。
ユージィンがちら、と視線をアーシェの後ろにやった。そこには、ウィルフが片膝をついた姿勢でじっと跪いていた。
「お前か」
「は。閣下には長の無沙汰、申し訳なく」
「いや、いい。お前こそエルファに一番振り回されているんだしな。……これからも宜しく頼む」
「我が忠誠は御一方、ただ我が君に捧げておりますれば。元よりこの身の全てを賭して、お仕えする所存です」
ウィルフの返答に、ユージィンがまた苦笑する。これはアーシェにも解った。ウィルムの返答は恭しいが、直訳すれば、お前に言われるまでもない―――だ。
「まったく君たちは、どうして仲良く出来ないんだい。アーシェ、無視していいからね。……引き留めてごめん。そろそろ出かけないと、遅くなってしまうよ。女性の買い物には時間を掛けなきゃ」
さあ、ウィー。アーシェを頼むよ。そう続けたエルゥに頷いて、音もなくウィルフは立ち上がった。そのまま無言で一礼すると、ふ、とアーシェを目で促す。
「お話中にお邪魔を致しました。これにて失礼させて頂きます」
「いってらっしゃい。気を付けてね」
一礼したアーシェに、エルゥが手をひらひらと振る。もう一度、軽く会釈するウィルフのうしろに続いて居間を出、やっとそこからアーシェの午後が始まったのだった。
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アーシェの去った居間は、しばらくの間、重い沈黙に包まれていた。
エルゥはそのままソファに座り直したが、ユージィンは違う。片手で顔を覆ったまま俯き、そのまましばらく、何かを堪えるように唇を引き結んでいた。
「……泣いてもいいんだよ」
少しして、ぽつり、エルゥが呟いた。それはユージィンへ言っているようでありながら、独り言のようにも聞こえた。
ユージィンは僅かに笑う。
「お前は泣いたのか」
「……泣く資格は、僕にはないよ」
「馬鹿なことを。……何度も言っただろう、お前のせいじゃない」
「カータレットの気持ちはありがたい。だけど、これだけは僕も譲れないよ。……これは僕が背負うべき、僕だけの罪だ」
「それが思い違いだと言ってるんだ。頑固者め」
ユージィンはそんな応酬の間も、顔を覆った手を外すことはなかった。ハー……、と深く嘆息する。そうして、堪りかねたようにそのまま、天を仰いだ。
「……俺はお前に、お前個人に、心から永遠の忠誠を誓う」
「馬鹿は君だな、トリストラム・カータレット。贖罪に礼なんかするものじゃない」
「それが考え違いだと言ってるんだ、いい加減憶えろ。馬鹿め」
「これから話す事を聞いても、君がまだ忠誠だどうだと言えるのか楽しみにしているよ。……さあ、お話し合いといこう」
でも、もう暫くは。
そのままでいてもいいよ、と口には出さずに、エルゥはソファに身体を沈めたまま、ゆっくりと目を閉じた。
ユージィンの、顔を覆う手が震えている。それに気付かないふりをするぐらいは、幼馴染みとして、してやってもいいだろうと薄く微笑む。
ユージィンも、それ以上は何も言わなかった。ただ鍛え上げた身体の脇、だらりと下ろしたもう一方の手をきつく握り締めて、込み上げるそれに耐えるのみだった。
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