第二節(前)

 旅は大過なく続いた。


 一日目は揺れる荷台で眠って、起きた朝はもう、二日目。

夜の間に、馬車は深い森を抜けていた。そのまま走って夕方には大きな街へ。聞けば中西部で一番大きな街だという。


 自分の住む村以外の集落を見た事がなかったアーシェは、一日目に立ち寄った村近くの街だけでも人の多さに驚いたものだったが、ここはまるで王都かと思うほど賑わっていた。行き交う人々の姿も洗練されていて、見るからにもうなんか違う。


 それを聞いて、エルゥは微笑ましげに笑ったものだ。


「そうだねえ、ここは賑やかだけど、王都とはまたちょっと違うかな。雑然としてるね。王都はもっと整頓されてる感じだよ」


 整頓? 街に整頓って何だろう。アーシェは首を傾げるしかない。エルゥはふふっ、と笑って、「もうじき解るよ」とだけ言った。


 三日目はまた車中泊。一日おきにウィルフは徹夜して馬を走らせる。大丈夫なのかと聞いたら、これも仕事の内ですし慣れてますんで、と片目を瞑ってみせたものだから、エルゥに耳を引っ張られていた。主人をからかって遊ぶのは彼の癖なんだろうか。


 そうして、四日目。

 その日、アーシェたち一行は王都の手前にあるという街、オントーへ辿り着いた。


「ここが王都……ですか……?」


 それは、アーシェには想像もしたことのないような煌びやかな街だった。


 見える所全ての地面に、びっしりと石畳が敷き詰められている。その上に建つ家や店はどれも磨き上げられているかのようにきれいで、どの窓にもカーテンや花が飾り置かれていた。窓。そうだ窓だ。ガラスがしっかり填め込まれている。そんなの村では、村長の家ですら使われていなかった。


 道行く人々も華やかだ。誰もコットなんか着ていない。一番質素そうに見える女性でさえ足首まで隠れるような丈のスカートを履いているのは、ここでは裾が土に触れて汚れる心配などないからだろう。アーシェが今まで普通だと思っていたものは、ここでは何一つ「普通」ではなかった。


「ううん。ここは……そうだね、王都の玄関口とでも言おうかな。元々が、王都から溢れた人たちの作った街なんだ」


 王都は城壁で囲まれているから、建てられる家や店の数が決まっている。土地が増やせない。だから一定数を超えてしまった人々は、当然、落ち着く場所にあぶれることとなる。


「今はね、そういう人たちの受け皿になっているんだよ。物価も王都よりは少し安いし、王都まで往復する乗合馬車も一日に何便も出てる。人によっては、最初から王都じゃなくてこっちに居を求めたりもするね。そういう街。王都へは、ここから馬で一刻もないくらいかな」


 受け皿? これで? ここはこんなに綺麗で華やかなのに?

 馬車を降りてぐるりと辺りを見回しただけで、アーシェは圧倒されてしまいそうだった。


 アーシェの暮らしてきた村は、灰色と茶色と黒だけが辺りを支配している。白、はすぐに土で汚れてしまうから、誰もどこにも使わなかった。


 だけど、ここには、全ての色がある。


 窓に飾られるピンク、グリーン、スカイブルーのリボン、そしてちりちりと淡雪のようにその上に乗る眩しいほどのレースの純白。ハッと息を飲むような真紅に気品ある紫、まさに色とりどりとはこういうことを言うのだろう。アーシェの考え得る限りの色が、街を彩っていた。


「さあ、ちょうど昼時だ。昼食にしようよ、アーシェ」


 ぽかんと口を開けて辺りを見回してしまうアーシェにちょっと笑って、エルゥは柔らかに彼女の手を取った。


村を出てからはエルゥも、あの珍妙なドレスシャツにコット、という服装はやめて以前通りの貴公子然とした格好に戻っている。ふと見ると、御者を務めていたウィルフも手早く上着を羽織り、シャツに付け襟を重ねていた。そうして、首の後ろで無造作に結わえていた髪を解いて、手櫛でさっと整える。あれほど田舎の街に馴染んでいたのに、たったそれだけで貴公子然としたエルゥの従者に相応しい、洗練された街の男に変わってしまっていた。


「我が君。私は一旦ここで」

「ああ、頼む。連れてきてくれ」


 事前に話し合っていたのだろうか。ウィルフは短くそう言うと、馬車を駆って行ってしまった。エルゥはにこにこして、何やら嬉しそうにアーシェの手を引く。そうして、目の前に建つやたら立派なお屋敷のような建物へと足を踏み入れた。


「ここまで強行軍だったから、アーシェも疲れたでしょう」

「ううん。私より、エルゥやウィーさんのほうが」

「僕たちは慣れてるし、何より僕たちの都合で急がせちゃったからね。でも、もう王都は目の前だ」


 お屋敷は、アーシェが中に入ることさえ躊躇ってしまいそうな豪奢なものだった。


「じゃあ、ご飯を食べたらすぐに出かけるのね」


 至る所に飾られた、見た事もないような大輪の花々。そのせいだろうか、建物に入ってからずっと良い匂いがしている。

 金や銀で装飾された燭台、村中の全員が一度に集まってしまえそうな広いロビー。飾られた絵、どころかそれを包む額縁でさえ、ひとつひとつが芸術品と言ってもいいほど素晴らしい。


「ううん。今日はここに一泊するよ。―――ああ、ご苦労。世話になるね」


 首を振ったエルゥへアーシェがえ、と目を瞠った時、向こうから黒一色の地味な一式に身を包んだ人がやって来た。壮年の男だ。エルゥを見て、深々と一礼する。


「お越しをお待ちしておりました。お部屋はいつも通り、整えてございます」

「ありがとう。さ、行こうかアーシェ」

「え、エルゥ。あの」

「大丈夫。場所は解っているし。―――ああ、そうだ」


 するり、と片手をアーシェの腰に回し、エルゥはより親密な態度でのエスコートを仕掛けてくる。焦るアーシェにうっとりと微笑みかけ、頭を下げたままの男に首だけで振り返るエルゥの姿は悠然としていた。


「昼食を部屋に。頼めるかな」

「畏まりましてございます。お品は、常のものでよろしゅうございますか」

「ああ、そうだね。男二人じゃないからなあ……。レディの喜びそうなものを。今日はお酒はいらないよ」

「承りました」


 それきり、頭を下げたままの男には一瞥もくれず歩き出す。母よりも年代が上だろう男性に、こうまで恭しく扱われるのはどうにも居心地が悪い。戸惑うアーシェの抱いた腰を促して進むエルゥの横顔を、ちらり、と横目で見た。エルゥの態度は、自分が丁重に扱われるのを当然と思っている人のものだ。


……随分親しくなったつもりでいたけれど、彼はやっぱり、暮らしてきた世界の違う人だった。だから親しくなれない、なんてことはきっとないと思うけれど、そこには厳然とした違いがある。


 そうだ、自分だって。

 初対面の時は、あれほど恐れたじゃないか。彼の「貴族」という、その身分を。


「……エルゥ」

「うん」


 足下を受け止めるのは、あの荷台に敷かれていたものと同じくらいにふっくらとした厚手の絨毯。その贅沢さに、自分だけがそぐわない。


「……ちょっとだけ、怖かった」

「ああ、―――……」


 どうにか口にした、たったそれだけでも、エルゥは解ってくれたようだった。

 僅かに苦笑する。


「……僕は、身分で人の優劣が決まっているとも、上だからって無礼であっていいとも思わないけど」


 ロビーをゆったりとした速度で進んで行きながら、エルゥはまるで幼い子供へ言い聞かせるかのように続ける。


「それでも、求められる役を否定しようとは思わないよ。彼は使用人で、僕はそうじゃない。あの村では僕は何者でもなかったけれど、ここではそうもいかないんだ」

「そういうもの、なのかな……」

「そう。決められた役割通りに動くこと、振る舞うことは、案外社会を円滑にするよね。自分の役割や振る舞いに迷わなくて済む」

「……そうね」


 じゃあ、自分はいったい、ここでどう振る舞えば良いのだろう。ただの田舎娘でしかない自分は。

 顔を曇らせたアーシェを、腰に置いたままの手でぽん、とひとつ励ますように叩くと、エルゥはいつもの顔で笑って見せた。


「君はね、君のままでいていいんだよ。……いて欲しい」


 僕の為にね。悪戯っぽくそう付け加えて片目を瞑ったのは、慣れない場所に戸惑うアーシェを気遣ってのものだろう。アーシェは薄く微笑むと、俯いてしまいそうだった背中にグ、と力を入れた。


 まさかこんな場所に足を踏み入れることがある、なんて思わなかったけれど。

「――――――」


 憶えている。母が教えてくれたことの全て。だから背筋を真っ直ぐに伸ばして、爪先は雲の上を踏むように軽やかに。指先に至るまでをしなやかに整えて、臆さずに歩こう。


 隣では、エルゥがそんなアーシェを目を細めて見つめていた。視線が合うと、嬉しそうにまた、にっこりと笑う。


「ほらね」

―――君はどこにいても、誰よりも綺麗なんだ。


 自慢げに囁くエルゥの脇腹を、ほんの少し強く肘で突く。ぐっ、と息を詰まらせて信じられないものを見る顔をしたエルゥに、ちょっとだけ笑って舌を出した。




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