第一節(後)
夢を見る。
繰り返し繰り返し、何度でも。
『返して! 返してよ!!』
子供が泣いている。ほんの小さな、細い子供だ。銀色の髪がさらさらと揺れて、まるで妖精の羽のように子供を輝かせている。
『返して―――!!』
子供の泣き声は、何度でも聞く機会があった。だけどそのうちの誰も、あの銀色の子供ほど心に迫る泣き方をした子はいなかった。
銀色の子供は、絶叫する。返して。喉が潰れんばかりに絶叫して、繰り返す。返して、返してよ。声の最後は、いつも決まって掠れていた。それでも尚、銀色の子供は叫ぶのをやめなかった。
まるで世界が終わりそうなほどの、絶望。目にする度、心が痛んだ。ああ泣かないで、もう泣かないで。あなたが泣いていると、私も悲しくなる。つらくなる。泣かせたいわけじゃないのに、銀色の子供の涙は止まらない。
彼はもうずっと、泣き続けている。返して、返して。返してよ。
―――ああ、私がもっと強かったら、こんなに泣かせずに済んだんだろうな。ごめん。ごめんね。
強くなるから。絶対に諦めないから。そうして。
強くなって、今度こそあなたを守るから―――。
「……シェ。アー……ェ」
これは夢だ。
夢だと解って見ている、夢だ。それでも。
「アー……。……ェ」
あの叫び声を聞く度、心が引き裂かれそうに苦しくなる。ごめん。ごめんね。その涙を止めてあげることが出来なくてごめんね。抱き締めてあげることができなくて、ごめんね。
それはほとんど衝動、に似た強い気持ちだった。守らなきゃ。あの子は私が守らなきゃ。あの銀色の子供がどこに居る誰かも解らないのに、ずっとずっとそう思ってきた。
母に尋ねたことがある。いつもこの夢を見た夜には、特に幼い頃などには、自分も泣いて飛び起きたから。
母は言った。今は誰か解らなくても、それはきっといつか会える人だと。だからその時までに、望む自分になりなさい。ただ、あまり人には言わない方がいいわね。夢の話だから、きっと解ってもらえない。大切なものを笑われたりはしたくないでしょう?
―――大切なもの。
そうだ、こんなに心が引き千切られるように悲しいのに、痛いのに、それでもアーシェにとってこの夢は、銀色の子供は「大切なもの」だったのだ。
「アーシェ!」
は、と目を開ける。
顔が濡れていた。眦から流れた涙がじっとりとこめかみから耳へ伝い、髪を僅かに濡らしている。ハーっ、ハーっ、と呼吸が浅く切れていた。ああ、そうか、またあの夢を見たんだ。
「アーシェどうしたの、大丈夫!?」
「……エルゥ……」
すぐ傍に、自分を抱き起こそうとしているエルゥの顔があった。乱れた前髪の隙間から、あの澄んだ夜空の色の瞳が覗いている。その目を見ていると、何故か気持ちがすうっ、と落ち着いていった。大丈夫。大丈夫。……これはただの夢。だから大丈夫。
「具合が悪いの、それとも何か持病でもあったのかな。苦しい?」
「驚かせてごめんなさい、大丈夫。……夢見がわるかったのね」
悪夢にうなされる、というには激しい反応だったのかも知れない。焦った様子で見下ろしてくるエルゥに、アーシェはちょっとだけ微笑んで見せた。まだばくばくと心臓は早鐘を打っているけれど、これもじきに治まるだろう。
「夢って……でも、それにしては随分苦しそうだったけど」
「うん。でも、夢なの。ふふ。やだな、みっともないところ見せちゃったな」
「……みっともなくなんかないよ。君はいつも、綺麗だよ」
「エルゥったらこんな時まで、冗談ばっかり」
「言ったでしょ、僕は君には本当のことしか言わないよ」
エルゥの支えを借りながら、ゆっくりと身体を起こした。酷い汗だ。いつもこの夢を見たあとはこんなふうになる。何度も何度も、繰り返し見ているものなのに、一向に慣れない。
ハー……、と大きく、息を吐き出す。それから、ふと気付いて辺りを見回した。
「あれ? 馬車、止まってるんですか」
「ああ、……うん。馬を休ませてたところだよ。そうだ、丁度いい。熱いお茶でも飲もうか」
「エルゥは私を甘やかしすぎだと思うの。お茶なんて、三年に一度飲めるかどうかの高級品なのに」
「ふふ。いいじゃないか、甘やかされてよ。……用意してくるよ、ここで待ってて」
ありがとう。微笑むアーシェのまだ涙の残る頬をそっと撫でて、エルゥは荷台を降りていった。途端に、しん、とした静けさが荷台を覆う。
「……………」
アーシェは背中に毛布をかぶり直し、両膝を抱えた。眠っていたせいか、冷え冷えとしているように感じる。毛足の長い絨毯も、かぶった毛布も充分に暖かいのに、芯が凍えている。
―――返して。返してよ。
目覚めても尚、銀色の子供が泣き叫ぶ声は耳の奥にこびりついて、残響のようにわんわんと鳴り続けていた。胸がきゅうきゅうと締め付けられる。ごめんね。ごめんね。解っていたのに、ずっとあの村でただ過ごしていた。本当ならもっと早く、そうだ、母を亡くしたあの時にこそ、探しに出る機会だったのかも知れないのに。
さや……、と、外から葉擦れの音が聞こえて来た。夜風に吹かれて鳴るそのささやかな音は、どうにももの悲しい。
「アーシェ」
アーシェがぎゅっ、と膝を抱え直した時、出入り口を覆っていた幌がぱさ、と捲り上げられた。見ればエルゥが片手にカップを持って、荷台に上がろうとしている。
ふわん、と甘い匂いが漂ってきた。あの日の朝に、エルゥが飲ませてくれたものと同じ匂いだ。
―――ほうっ、と、いつの間にか詰めていた息を吐く。
「お待たせ。温まるから飲んで」
「ありがとう……」
両手で受け取ったカップの木の肌を通して、じんわりとしたぬくもりが掌を温める。
口元へ寄せると、あまい匂いはいっそう濃く漂った。花のような、果物のような瑞々しい匂い。一口含んで、そのやわらかい風味にほっとする。
喉を抜け、腹の内側からじわっ、と熱が灯った気がした。
「落ち着いた?」
自分もカップを片手に、戻って来たエルゥがそっと隣に腰を下ろした。うん、と小さくアーシェは頷く。
「怖い夢を見たんだね」
「ううん。怖くはないの。……悔しい夢、かな」
「悔しい?」
「何もできないのが、悔しくて……」
そっか。その短い一言で、エルゥは何も聞かずに頷いてくれた。大きな手のひらがぽん、と頭の上に乗る。
「つらいね」
「……うん」
ぽん、ぽん、と何度か手のひらはアーシェの髪を撫でて、そしてすっと離れていった。パシン、と外から小さく、手綱を打つ音が聞こえる。ささやかにいななきを上げて、すぐにまたカツッ、と蹄の音を打ち鳴らしながら、馬がゆっくりと馬車を引き始めた。
森を抜けて、街道に戻る。闇にすっかり覆われて、先の見えない向こう側へ向かって。
「もし眠れそうなら、それを飲んでもう一度おやすみ。明日も一日中移動だから、気付かなくても身体は疲れているからね」
「あなたは?」
「うん?」
「あなたも動きっぱなしでしょう、エルゥ」
「……君は本当にやさしいな」
エルゥはふわり、と笑った。
「僕は慣れているからね。長旅にも、馬車にも、馬に乗るのも。だから君よりずっと、身体も楽なんだよ」
「そういうもの?」
「そういうもの。……眠るのが怖い?」
やさしい問いかけに、アーシェはふるりと首を振った。眠るのは怖くない。あの夢を見るのも。切なくても、苦しくても、痛くても、あの夢を見なければ銀色の子供には会えない。
……そうだ、会いたいんだ。私はあの子に。
「そうか。……良かった」
ひそやかに微笑むアーシェに、エルゥはまた笑ってもう一度、ぽん、と頭を撫でた。
「お茶、おいしいね。暖かいね。エルゥ」
今、ここにこの人がいてくれることが嬉しい。何も聞かずに、そっと寄り添ってくれる気持ちが嬉しい。汲み取ってくれるような手が嬉しい。
「君が気に入ってくれて良かった」
「うん。……」
ガタコトと馬車は進んで行く。静かな夜の中を。
アーシェは幌に覆われて今は見えない、その外側へ目をやった。
ここから広がる知らない街、知らない世界で、いつかあの子を見付けられるのだろうか。見付けたい。……見付けなきゃならない。
出会いを待っているだけでは、きっとだめなのだ。でも、どうやって探したらいい? その手段さえ、今は何も解らない。
『その為に学ぶんだ』
いつか、師が存外に真面目な顔をして言っていたことを思い出す。
『学ぶということは、知ることだ。知るということは、可能性を広げるということだよ。知らない事は無いのと同じだ。選ぼうにも、無いものは選べないからね。選択肢を増やすために、それを知るために、学ぶんだよ』
……エルゥは、アーシェを学舎に連れて行くと言った。
それなら、そこで知ることが出来るだろうか。自分に出来る事。どんな手段があるのかを。
「……………」
考え込みながらもう一口、お茶をこくんと飲んだアーシェの横顔を、エルゥはじっと見つめていた。けれどすぐに、何を思ったのか目を伏せる。
揺れる馬車の荷台の中、二人はそれ以上は何も喋らなかった。
やがて穏やかな眠気がもう一度アーシェに訪れるまで、そのやさしい沈黙は途切れることなく、荷台の中を包み込んでいたのだった。
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