第一節(中)
深更、星と月だけが囁くように瞬く闇の中を、荷馬車は軽快に駆け抜けていた。
この辺りは森の深い地域だ。山裾を飲み込むように木々が広がっている。それでも、街と街とを繋ぐ街道が一本、ちゃんと整備されて通っている。
本当は目立つこの道を使いたくなかったが、そうなるとどうしても大回りになって時間がかかる。今は少しでも距離を稼がなければならない時だ。どちらかを選ばなければならないとしたら、多少のリスクは仕方がないというものだろう。
「……ふふ」
アーシェは眠っている。敷き詰めたふかふかの絨毯の上、クッションに埋もれるようにして。穏やかな寝顔だった。ここには自分もいるというのに、少しも警戒している様子がない。信頼されている―――その事実は、どうしようもなくエルゥの心を温かくしてくれた。
そっ、と、手を伸ばしてみる。はみ出た肩に、静かに毛布を引き上げた。その手がほんの少し、迷って、流れる彼女の髪に触れた。少し荒れて乾いた髪。ランタンの頼りない灯りの中で、金糸のようにきらきらと光る。
それはエルゥにとって、本物の黄金などよりもずっと貴重な、価値のあるものだった。
「我が君。一度馬を休めます」
「ああ、……もうそんな時間か」
早駆けはさせずに、並足を保って一刻ほど走らせる。四分の一刻ほど休ませて汗を拭い、また並足で走らせるのが一番距離を稼げる馬の使い方だ。焦ってもろくなことにならない。
荷馬車はゆっくりと速度を下げていき、木々の間へ分け入った。街道沿いにそのまま止めるようなことはしない。出来るだけ人目は避けたい。……もっとも、こんな夜中に街道を駆ける者など、余程の事情があるか後ろ暗いかのどちらかだろう。
名残惜しげにもう一度、そっとアーシェの髪を撫でると、エルゥは足を止めた馬車の荷台から身軽に飛び降りた。
「少しお待ちください、我が君。お茶でもご用意致します」
「いや、いい。馬の手入れを手伝おう。お前も少し休め」
応えてふ、と顔を見る。十五才の時からずっと、傍を離れず付いてきた護衛の男の顔は、アーシェに見せた陽気さをすっかり失っていた。
「元に戻ったな。そっちのほうが落ち着くよ」
「あれは諜報活動用ですよ。ご存知でしょう。お望みでしたらいつでも切り替えますが」
「いや、いい。少なくとも僕の前では。アーシェにも少しずつ慣れて貰おう。どのみち、お前は僕の傍に必ず居るんだから」
それから、二人は手分けして馬の汗を拭った。彼らは自分で汗を拭えない。丁寧に拭き取ってやらないと、すぐに体調を崩す。蹄鉄の手入れと同じ位に大切な作業だ。
「……これからのことだが」
「はい」
「明日、宿に着いたら手紙を運んでくれ。いつもの手筈でユーグに届く」
「はい」
「オントーに着いたら僕は先に出る。お前はアーシェを連れてゆっくり来てくれ。……せめてユーグには直接、話しておかなければならないだろう」
「承れません」
あまりにもきっぱりと、ウィルフは首を横に振った。
「我が君。あなたをお一人にすることは出来ない。ましてや王都近辺は、あの平和な村ではありません」
「オントーは王都から一刻の街だぞ」
「余計にでしょう。私はあのお嬢さんの護衛ではない。あなたの護衛です、我が君」
「……お前は案外、頭が固い」
エルゥは溜息とともに頭をガリガリと掻いた。それから、顎先に手を当ててほんの少し、考える。
「では、こうしよう。オントーで一泊だ。その間に、ユーグを呼び出す。お前はアーシェと洋服でも日用品でも、彼女に相応しいものを揃えていてくれ」
「それは……」
「僕は部屋から一歩も出ない。ユーグが来てからお前を出すし、お前が帰ってきてからユーグを帰す。これが妥協点だ。カータレットの息子が共に居て、僕に危険などあるはずがないからな」
「……畏まりました」
「それでいい。……」
さあっ、と、夜風が二人の間を通り抜けていった。森独特の、湿った土と木々や葉の入り混じった匂いがする。エルゥにとっては、それは嗅ぎ慣れた匂いだった。僅かに眉をひそめる。
「……ウィー、帰ったら」
「お静かに、我が君。……何か聞こえます」
「なに?」
風に吹かれて、さやさやと夜の森の葉擦れが響く。エルゥは耳を澄ました。
「……これは」
低い苦鳴。喘ぐようなその音は、二人のすぐ傍から聞こえていた。
「荷台からだ。―――アーシェ」
アーシェが泣いている。それとも、苦しんでいる?
「後は頼む」
御意、とウィルフが頷くのを背中で聞く。そうしてエルゥは急いで、アーシェの一人眠る馬車へと駆け戻っていったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます