第三章
貴族の若さまにとんでもないところに連れて来られた件
第一節(前)
アーシェの暮らしていた村から一番近い、少し大きな街までは馬に乗ってだいたい一日。
早朝に村を出たアーシェとエルゥは一頭の馬に二人乗りをして、負担が掛からないようにゆっくりと走らせながら、それでもどうにか夕刻に街へ滑り込んだ。
「ごめんねアーシェ、君も一日駆け通しで疲れてると思うんだけど……」
だが、そこで宿を取るのではなく、馬車に乗り換えて更に道を急ぐ手筈になっているようだった。手配を任されていたらしい、エルゥより少し年上の男がそこで合流した。
「彼の事は気にしないで。……とは言っても気になるだろうから、一応紹介はしておくね。僕のおもり役のウィーだよ。よろしくしなくていいからね」
「うわぁ我が君ドン引きです。何ですその独占欲」
引き合わされた男は、驚くほど田舎の街に溶け込んでいた。中途半端に伸びた灰色の髪を首の後ろでひとつに結び、粗末な綿のシャツを着て、裾のすり切れたズボンを履いている。違和感がまったくない。本当に貴族であるエルゥのお付きなんだろうか、と思ってしまうくらい領民と馴染んでいる。
「初めまして、あの」
せめて挨拶くらいはしよう。口を開いたアーシェに、ウィーは笑ってひらひらと手を振ってみせる。
「ああ、いいよいいよ嬢ちゃん。もう解ってるから。俺、我が君が傍を離れる時とか、こっそり君の護衛もしてたんだよね。まあこれからも宜しくってことで」
「えぇ!? ご、護衛って、あの村で何で私にそんなもの、」
「目の届くとこにいてほしかったんでショ。男心っていうかな。まあ俺ですらドン引きの独占欲と保護欲ですけどね!」
「―――ウィルフ・ケンナード」
にっこり。
と、笑いながらエルゥが男の肩に手を置いた。
「遺言状はもう用意してあったかな?」
「痛い痛い我が君痛い爪! 爪が食い込んでます爪ぇ!!」
何やらギリギリと、エルゥの指先がシャツの肩へと食い込んでいる。見るからに痛そうで、アーシェは慌ててエルゥの腕に飛び付いた。
「エルゥ、やめて、もういいから!」
「何も少しもちっとも良くないよね。おかしいな、僕の護衛はこんなに口が軽かったのかなぁ。知らなかったな、ちょっと色々考えないといけないな」
「時と場合でしょう我が君! これは嬢ちゃんを和ませるためのちょっとした軽口ってやつでして!」
「君が言って良いことと悪いことの区別もつかない愚か者だとは知らなかったよ。あとで報告しておこう」
「ちょっ……待って下さいよ我が君、誰に報告しようってんです!?」
……何だか、この短い時間で知らなかったエルゥの一面を目の当たりにしてしまったような気がする。なるほど、穏やかなだけの人ではないみたいだ……。
「とにかく、急がなきゃなりません。これで夜通し走ります。そうすれば、明日の夜には中西部で一番でかい街に着きますからね。そこで一泊しましょう」
用意されていたのは、領民たちや行商人などがよく使う幌付きの荷馬車だった。うしろに、と言われて回り込んだ荷台を見て、アーシェはまたも目を瞠ることになった。
「うわぁ……凄い……!」
外側は何の変哲もない荷馬車なのに、内装はまるで違う。毛足の長いふかふかとした絨毯の敷き詰められた荷台は、見たこともない異国風にしつらえられていた。
円柱形の、房飾りのついたクッションが居心地良さそうにいくつも置いてある。荷物は軽く纏め、邪魔にならない隅の方へ括り付けられてあった。
「また君は……こういう余計なところに力を入れて……」
エルゥは額を押さえて溜息などをついている。御者台に座ったウィー、先刻の話からするとウィルフというのだろうか、彼は後ろを覗き込むようにして快活に笑った。
「今回は特別ですよ。我が君のお姫様がご一緒でしょう。慣れない長旅になるんだ、少しでも不自由のないようにと頑張ったんです。盛大に褒めてくれてもいいんですよ我が君!」
「そういうことなら、褒めるにやぶさかじゃないかな。そうか、アーシェのためならこれだってまだ足りないくらいだね」
「えっ、あの、」
そこで引き合いに出さないで欲しい。
「でしょうー!? でもまあこんな田舎で限られた時間じゃ、これが精一杯ってとこでしてね。まあ物足りないと思いますけど、勘弁して下さい。我が君」
「許そう。……さあアーシェ、おいで。乗せてあげるね」
それでも、荷台に上るまでのステップまでは考えが及ばなかったらしい。アーシェはやけに嬉しそうなエルゥに両脇の下を抱え上げられて、ひょい、と荷台へ乗せられた。時々エルゥは、そう歳も変わらないはずなのにこうしてアーシェを子供扱いする。
「それじゃ、出発しますよ! 少し走ったら夕食にしましょう、ちょうど星が綺麗に見えるところを通りますんでね!」
そうして、馬車は走り出した。アーシェの村から王都までは、馬で六日前後かかるという。今回はそれを、四日から五日に縮めたいとエルゥは最初に話していた。
「かなりの強行軍になるけど、ごめんね。本当なら道々、街や村に寄ってゆっくり宿に泊まったり、おいしいものを食べたりもして欲しかったんだけど……」
すまなさそうに言うエルゥへ、アーシェは笑ったものだ。
「そんなに贅沢させて貰う理由がありません。これでいいのよ」
アーシェにとっては、これが初めての旅だった。馬車に長く揺られた経験などなかったが、ゆっくり落ち着けるよう用意された荷台のおかげか、道中はとても快適なものとなった。
「君の先生も、本当はお招きしたかったな。優秀な学者は喉から手が出るほど欲しい……しかも君に教えていたものからして、経済や流通に詳しいみたいだし。直接国政に関わって貰えたら良いのになあ」
「ふふ。どうかなあ。先生、多分そういうのがお嫌いで逃げてきたんじゃないかと思うから……」
ゆったりと腰を下ろして、移動のほか何もできない時間を楽しむ。出発前に、ウィルフは水筒に暖かいお茶と軽くつまめる焼き菓子を用意してくれていた。さすがにお茶は冷めかかってしまっているけれど、何とも手際の良いことだ。
「残念だな。その先生の推薦状があれば、君が学舎へ行くにも色々と楽だったんだけど。せめて入れ違わなければ僕から頼みに行けたのに」
「あ、」
推薦状。―――その時が来たら。
今の今まで忘れていた。そうだ、あの時アンセルムが寄越したのは、宿題の本と一通の手紙。彼はこう言っていなかっただろうか。
『俺の勘が当たっていたら必要になる物だ。手紙のほうはその時まで、中を見ないでおくように』
―――まあ、見てもどうせ今はまだ、意味なんか解んねえからな、と付け足して。
「宿題だから、あの本は持って来ておいたはず……!」
手紙は、預かった本に挟んで入れてある。アーシェは急いで手荷物を探った。元々、アーシェが家から持って出た荷物は非常に少ない。麻袋の中をごそごそ漁ると、すぐに底のほうに入れてあるのが見つかった。
「あった、これだ!」
借りた本のタイトルは、帝国における領地運営の失敗。そうして、挟んであった一通の手紙を取り出す。
「アーシェ、どうしたの? それは何?」
「先生……から。その時が来れば解るから、俺の勘だと必要になるかも知れないから、って」
閉じていないままだった封筒には、更に紙の包みがひとつ、入っていた。中身も紙らしいが、こちらは丁寧に織り込んだ上に封がしてある。中を開けてみていいものか迷うアーシェの手元を、エルゥが覗き込んできた。
やけに眉をひそめている。
「……随分、思わせぶりな言い方だね」
「いつもそうなの。先生は多分、天才とか、そういうたぐいの人じゃないかと思う。見えているものが遠すぎて、私達には目の前になるまで解らないのよ」
「それが口癖だった男を、一人だけ、知っているよ」
「……え?」
「ごめんね、先に見せて貰ってもいいかな」
「あ、うん……」
アーシェから受け取った封筒、紙に包まれた紙、の封を、エルゥは何の躊躇もなく切った。出てきたのは折りたたまれた二枚の紙。その一枚を開いて、エルゥは瞠目した。
「な、何!?」
「……ここにいたのか、アンセルム・メイベン」
「えっ、知り合い?」
「少しだけね。……そうか、君の学力が高いわけだ。それに……」
何を言うつもりだったのか、けれどエルゥはそこでふと口を閉ざした。ランタンの頼りない灯りの中、紙に落とした視線だけが左右に動いていく。
「……本当に、あの男ときたら」
ふ、と短く嘆息して、エルゥは二枚目の紙を開いた。一瞥して、苦笑しながらアーシェに向けて見せる。
「どこまで見通しているんだか。君の推薦状だよ。……まったく、恐ろしい男だ」
「え、先生、まさか」
「そう思うよね。そのまさかなんだよねー……。ああもう、本当に」
敵にだけは回したくないな。エルゥはそうぽつり、と呟いて、二枚の紙を元通り封筒にしまった。
「これは僕が預かっていてもいい?」
「うん。私が持っていても何にもならないものだから」
「ありがとう。……ところで、そっちの本のほう。何か恐ろしいタイトルが見えるんだけど」
「え? これ? 旧帝国の研究をした本だよね。先生、よくこの手の本を宿題に出してくるの。先人の失敗から学べないなら私達に頭がついている意味がない、って言って」
「ハハ……」
エルゥは短く笑ったが、その笑みはどこか力なく、笑うしかないといったたぐいのものであるように見えた。
「それを何の疑問もなく答えられる君も凄いよね……。あのねアーシェ、君の受けている授業は、正直なところ政務官じゃなくて執政官レベルの内容だよ……」
「えっ」
何ソレ意味が解らない。
「……まったく、どこまで見通しているんだか。ちょっと……いやだいぶ、悔しいな」
エルゥのこんな憎々しげな口調は、初めて聞いた気がする。
そう思って気付いた。
エルゥはいつもアーシェには、穏やかな顔しか見せてこなかった。それはきっと、彼の気持ちの方向の問題なんだろう。やさしくされている。それが解っても、もっと色んな顔が見たい、とアーシェは思った。
こうして傍にいれば、いつかもっと、エルゥのことが解るようになるんだろうか。
「我が君、お嬢さん。そろそろ一度馬を休ませますんで、夕食にしませんか」
「そうだね。アーシェもお腹空いた?」
まあ、出て来るのはこいつの用意した料理だから申し訳ないんだけど、と呟くエルゥに、御者台から陽気な声が掛かる。
「味は保証しますよ。いつも我が君が持って行ってた朝食、あれ作ってたの俺ですからね」
「うわぁ知らないうちに餌付けされてた!」
天を仰ぐアーシェのおどけた仕草に、あはははは、と笑い声があがる。どうやら楽しい旅になりそうだ、と、エルゥの笑う横顔につられてアーシェも笑った。
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