第三節(後)

 コン、コンとノックが鳴る。力任せに叩くのではない、手の甲で、そっと表面を打つようなやさしい音。

「アーシェ、用意は出来た?」

「はっ、はい!」

 新しいシャツとコットに着替えたアーシェは、飛び上がりそうになりながらドアの外のエルゥに応えた。すぐにカチャ、とドアノブが回って、開いた隙間から青年が顔を出す。

「お待たせ。ちょっと時間がかかっちゃった」

「ううん。私も今、終わったところだから」

 ああ、どうしよう。どうやって彼に接していたのか、ちょっと思い出せない。

 何を話したらいいのか解らずコットを握ったアーシェに、エルゥはふっ、と笑うと、ベッドの上に掛けてあったショールでふわりと彼女を包んだ。

 落ち着いた深緋色をした、毛織りのショール。エルゥが一番最初に、アーシェへ贈ってくれた物だ。

「夜は冷えるよ。暖かくして」

「うん。……ありがとう」

 アーシェはそっとショールを押さえた。結局は、最初からそういうことだったのだ。エルゥはいつも、こうしてやわらかく自分を包み込んでくれている。

「アーシェ。……」

 照れくさいような、くすぐったいような、不思議な気持ちだ。次の言葉を探すエルゥに、アーシェはそっと呼び掛けた。だけど。

「なあに? どうしたんです?」

「…………、……」

 エルゥは何故か、戸惑っていた。口を開きかけては閉じ、また開いて、そして迷って口元を手で覆う。

「エルゥ?」

 一体どうしたというのだろう。井戸へ行く前はいつも通りだったのに。……井戸へ行く前。

 また、低く囁かれたその台詞、を思い出して、じわりと耳朶が熱を持った。ああ、違う違う、今それを思い出さなくても別にいいのに。

「アーシェ。……アーシェ、ごめん」

「どうしたの」

 一体何を、謝ることがあるというのだろう。

「本当は、もっとゆっくり準備をして貰うはずだった」

「うん?」

「だけど時間がなくなってしまって―――その、急用が出来てね。僕は明日、王都へ戻らなくてはならなくなった」

「え、」

 それは、アーシェにとっては思いがけない告白だった。虚を突かれたような気分になる。どうしてだろう、そうだ、解りきっていたことじゃないか。エルゥは街の人だ、貴族だ、自分とは住む世界の違う人だ。いつまでもここにいられるはずがない。

 それなのに、そんな日がこんなに突然来るなんて、少しも思わなかった。そんなはずもないのに、この毎日がずっと続くような気がしていたのだ。

「あ……そ、そっか。そっかぁ……。じゃあもう、お別れになっちゃうんですね。そうか……」

 寂しく、なるなぁ。ぽつり、と続いたその一言こそが、アーシェの一番奥から出てきた、混じりけのない本心だ。

 そうだ、寂しかった。母を失ってからの、この一年半が。

 冷え込む目覚めが。温まらない家が。しん、と静まり返った家が。村へ降りなければ誰とも話せない、話したって村の人たちは家族ではない。一時楽しくともすぐに手を振ってさよならと別れる。そうして帰ってきた家はやっぱり冷たく、すこしばかりの熱量を取り戻してもすぐにまた凍えてしまうのだ。その上、針子の仕事があるから毎日はとても村へ降りていくことも出来ない。

 その全部を、埋めてくれたのがエルゥだった。

 朝はまだ暗いうちからやってきて、アーシェが寝室を出るまでにはすっかり家を暖めてくれていた。水汲みや掃き掃除、作っておいた薪を一日分運び込むような力仕事もやってしまって、その上で、アーシェにはとても用意出来ないような豪勢な朝食をテーブルに並べて置いてくれる。

針仕事をする時は椅子に腰掛けてぽつぽつと話しながら、だけどいつまでも飽きずに手元をじっと眺めていた。村へ降りる時には籠を取り上げて重い荷物を背負い、アーシェに付き合って歩きながらゆっくりと色んな話をした。色んな。……本当にいろんな、他愛ない話を。

 アーシェの生活の全て、眠る以外の全部の時間に、エルゥの笑顔が寄り添っていた。今更それがなくなってしまうなんて、どれほどぽっかりと、穴が空いたようになるだろう。

 アーシェは俯いた。君の運命の王子だよ、なんてふざけたことを言う、何なら寝室に無断で入って来たり、それどころか鍵の掛かっていたはずの家にまで気付いたらするっと入り込んでいる人。とんでもない人が来たと思ったし、付きまとわれるなんてとんだ迷惑だ、とまで思ったこともあった。

 だけどエルゥはアーシェがどんなにきつい言葉を言っても、一度も怒ったことがない。にこにこと笑って、ただじっとそこにいて―――気が付けば、これほどアーシェの気持ちの中にするりと入り込んでしまった。

 彼がくれたものは、豪華なドレスや宝石じゃない。穏やかな笑顔と、アーシェを暖かく包んでくれるもの、そして健康になるための食事。そんなものばかりだ。それが彼という人だった。だからこそ、こうして心が揺れる。

 ああ、いやだ。泣いてしまいそうだ……。

「今まで、ありがとうございました。羽布団も、このショールも、そうだ毎日朝食も夕食もご馳走になってしまって。どうお礼をしたらいいでしょうか」

 けれど、だから、アーシェは無理矢理にでも微笑みを浮かべてパッ、と顔を上げた。最後が涙になってしまうなんて、そんなのは悲しい。だから今は、笑わなければ。

「アーシェ」

 エルゥは、笑っていなかった。何か、思い詰めたような顔をしている。

「君も一緒に行くんだ」

「―――え?」

この人は、いったい何を言っているんだろう。

「私が……? どうして?」

 私に王都へ行く理由なんてない。この村で、針子の仕事をしながら慎ましく暮らしていくんだ。きっと一生。だって、領民の移動は禁止されている。ううん、でも、そうしたら。

(強く、強くなって、いつか)

 何度も、繰り返し見る夢。銀色の男の子、妖精のようなあの子。返して、返してよ。まるで世界が終わるような顔で、喉が潰れそうに叫んでいた、あの子を。

(守りたい、守らなきゃ、って)

 でも、それは、この村に居たままでは絶対に叶わない。……

「アーシェ。もう本当は解っているね? 君はただの村娘なんかじゃ、絶対にない」

 エルゥの声は固い。

「読み書きが出来、税制に至るまでの知識を与えられ、剣を使う。何故周りが君をそう育てたのか、考えた事は本当に一度もなかった?」

 そんなこと。……そんな、事。

 考えた事もなかった。母さんはどこか良いところのお嬢様だったらしい。理由があってここに落ち、だけど、だから私に自分が受けたものと同じ教育を、と思ったんだろう。そのせいだって。

……でも、本当に?

「君の受けた教育は、仮に貴族の令嬢だったとしてもその域を超えている。むしろ、……王族や執政官に通じるものだ」

 じゃあ、どうして? どうしてそんなものを? 母の出自はどうであれ、私自身はただの村娘でしかないのに。そうやって一生、暮らしていくしかないはずなのに。

 銀色の子供。返して。ああ、守らなきゃ。やだなあ母さん、村娘にそんなお作法は使いどころがないよ。先生、勉強ってどこまでしたらいいんですか。針子にここまで必要かなあ。解らない。考えようとすればするほど、ぐるぐるといくつもの思い出だけが回る。

 一度に襲ってくる、答えの返らない沢山の問い。混乱するアーシェは、ただじっと見つめてくるエルゥを縋るように見上げた。

「……私の運命の王子って言ったのは、嘘だったの……?」

 ああ違う、違う、王子さまなんて待っていたわけじゃなかった。私は今、目の前に突きつけられたことから逃げようとしている。ずっと目を逸らしていたのかも知れない、そんなことから。

 エルゥはちょっと笑った。それは、いつも彼の浮かべている穏やかなものとは違う、とても苦いものが滲んだ笑みだった。

「嘘じゃないよ。僕は君に、一度だって、嘘なんか言ったことはない。全部本当のことばかりだよ」

……そうだね。

「アーシェ。君にただ、傍に居て欲しいから一緒に来てと言えたら……どんなに良かったかな」

「……………」

 アーシェは混乱したまま、エルゥはそんなアーシェから苦々しく目を逸らしたまま、少しの沈黙がその部屋を支配した。

「……だけど、君は違うだろう」

 引き絞るように、エルゥが呟く。

「僕はそうしてしまいたいよ。アーシェ、僕の傍に居て。だから僕と一緒に来て。……だけど、君はたった一人、楽な暮らしじゃないこの小さな農村にあっても、ちゃんと自分の両足で立って生きてきた人だ。その君が、ただ僕の感情なんていうものだけを頼りにここを出て行ける? それでこの先も生きていこうなんて思えるかな」

―――そして貧しい少女は、王子さまに愛されて幸せに暮らしました。語られるおとぎ話、皆が憧れる灰被りの少女。

 だけど、そんなのは違う。違うってずっと、思ってた。

「僕は思わないよ。だから、僕は君に手段で告げる。義務と責任の話をする」

 そう告げて、今度こそまっすぐに、エルゥがアーシェの瞳を捕らえた。

 挑むように、見据える。

「僕たち貴族や王族といった者の責務は、国を護り富ませることだ。国家をつつがなく運営していくことだ。そのために一番必要なものは、人材の育成と確保」

 だから。

「読み書きだけならまだしも、一通りの学問を修め、税制などにまで通じている君を農村の針子にはしておけない。政務官は常に人手不足だ。……勿論、いきなり国務に携われという話じゃない」

 君を学舎に招聘する。

「君の学習熟度と知識量を、そこで検分したい」

 アーシェは目を瞠って、じっとエルゥを見つめた。

思いがけない申し出だった。妾や愛人にでもしたいから連れて行くと、そう言われた方がまだしも驚かない。そんな話だった。

何度も目にしたおとぎ話―――そして少女は、王子さまに愛されてしあわせに暮らしました。そこにあるのは贅沢な食事と綺麗なドレス、きらきらした宝石と立派なお城だった。

 だけど今、エルゥが差し出したのは。

「―――可能性……」

 アーシェ自身が、ここからどこに行けるかという未来の話だ。

「来てくれるね、アーシェ。申し訳ないけど、君に否を許すことは出来ない。それでも、出来うるなら僕は、君に望んで来て欲しい」

 やっと少しだけ微笑んで、エルゥはふわりと手を差し出した。強引に取るのでもない、掴むのでもない。否は許せない、と言ったくせに、アーシェがその手を取るのを待っている。

―――返して。返してよ。

 泣いているあの子の顔が、脳裏をよぎった。そうだ、私はあの子を見付けなきゃならない。そうして、この手で守らなきゃ。その為に、強くなろうとしたんだから。

 その為には、この村を出て、もっと広い世界へ飛び出さなければならない。そうだ、最初から解りきっていたことだったのだ。

「行きます」

 アーシェは短くそう答えると、自分を待つ暖かな手にその手を重ねた。

「あなたと行くわ、エルゥ」

 この村は、やさしく包み込んでくれる殻だった。だけど、どんな雛でもかならず、いつかは殻の外へ羽ばたいていかなければならない。自分にとっては、きっと今がその時なのだろう。

「―――……アーシェ」

 ありがとう。呟いて、エルゥはアーシェの手を押し戴いた。

「君の勇気と英断に、心からの敬意を」

「そうなるように話したくせに。狡いわ、エルゥ」

 ちょっと頬を膨らませて、拗ねるふりぐらいはしても許されるだろう。

「うん。それでも君は、泣いて取り乱して嫌がることだって出来たんだ」

「そんなかっこ悪いこと出来ません」

「それが君の矜恃と気高さだ。だからこそ、僕は君を敬愛する」

「もうそういうのはいいです。ねえ、言ってて恥ずかしくない?」

「何一つ。何せ僕は君には、本心しか言ってないからね!」

 エルゥは何だかやけに誇らしげに、えへん、と胸を張った。その自慢げな顔が何だかおかしくて、アーシェは思わず笑い出した。

「ふふ……あはははは!」

「あっ、ちょっと何、酷いな、今の笑うところじゃないでしょ!?」

 エルゥが慌てている。きっとアーシェの反応が予想外だったんだろう。その姿が更におかしくて、余計にアーシェは笑えて仕方がなかった。あはははは。声を上げて大きく笑う。

 目の端にほんのちょっとだけ涙が滲んだのは、きっと笑いすぎたせいだろう。

「……いけない、時間だね。酒場で自警団の人たちが待ってるよ」

「行って良いの?」

「出かける準備が、一晩で出来るなら」

 お別れをしておいで。エルゥの微笑みは、何だかそう言っているようにアーシェには聞こえた。

「……村長さんやおかみさんにも、挨拶できるかな。もう遅い時間だけど……」

「うーん、どうかなあ。あ、でも、一応、君を連れて行こうと思うってことはもう話してあるよ。だから上手くやってくれると思う」

「え!? いつ!?」

「今日。……君が掃除をしている間にね」

「あなたそんなことしてたの!?」

 まったく、エルゥは何をしでかすか解らない。正真正銘のびっくり箱だ。おかしくなって、アーシェはまた笑った。

 最後の夜が更けていく。

「じゃあ、まずは君を待っている人たちのところに行かなきゃ」

「待っているのはあなたのお財布じゃないかな」

「ハハ! きっと両方だよ」

 そうして二人は小さな家を出て、もう一度村へと降りていった。見上げた空に、星が瞬く。明日は違う空を見上げることになるのだろうけど、そこに輝く星はきっと、今目に映るそれと同じ光を放っているのだろう。




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