第三節(前)
アーシェが家へやっと辿り着いた頃には、辺りはもうどっぷりと暗くなっていた。一人だった頃ならもう夕食を取り終えて、あとはもう少し本でも読むだけといった頃合いだ。
「アーシェ、寝室で着替えるでしょ? お湯を沸かして持って行くから、脱ぐのはちょっと待ってて」
家に入るなり、エルゥはまた甲斐甲斐しく立ち働こうとする。アーシェは慌てて彼の腕を掴んだ。
「そこまでしなくて大丈夫! まだ暑いくらいだし、水で拭くから。それよりエルゥは……あ、エルゥはそのまま酒場に行った方が良かったんじゃないですか。二階が宿なんだし、着替えもそこに置いてあったでしょう?」
「え? ないよ」
引き留めたエルゥは、不思議そうにこてん、と首を傾げている。ややあって、ああ! と声を上げてからまたにこり、いつもの笑みを浮かべた。
「そうだね、酒場も宿屋もあの一軒だけだもんね。普通に考えればそうか……。でも僕は、あそこには泊まってないんだ」
「え? じゃあどこに?」
そうだ、この村には宿なんて一軒しかない。それも旅人なんてほとんど来ないから、一階の酒場を村の住人相手に開くことで、どうにかやっていっている。そんな場所だから、ほかに泊まるようなところなんてない。
驚くアーシェに、エルゥはうーん、と首を傾げたまま応える。
「……馬?」
「馬は建物じゃないです! 正気なの!? じゃああなた、今までずっと野宿!?」
ない、それはない。一日や二日の話ではないのだ。エルゥがこの村を訪れてから、そろそろ十日近くになろうとしている。目を剥いたアーシェに、エルゥはちょっと困ったように笑った。
「いや、野営というか。ちゃんと屋根はあったよ。幕舎とまではいかないけど、テントは張ってたから。まあ、ちょっと事情があって、宿とかに泊まるわけにはいかなかったんだよね……」
事情って。
「あ、大丈夫だよ汚くないよ! 毎日水浴びはしてるし、着替えだってちゃんと」
「そういう問題じゃない!!」
的外れな言い訳に、アーシェは思わず大声を出してしまった。雪が溶けたとは言え、まだ季節は春と呼ぶにも少し浅い。夜は霜が降りるほど冷え込むこともあるし、朝だって充分に寒いのだ。
「今日はもう、うちに泊まって。寝室はないけど、居間でも良ければ……少なくとも寒くはないから。あ、お付きの人? がいるんだっけ。その人も一緒に」
火を落としたとしても、灰のふっくら積もるストーブの周りなどは特に暖かい。外よりはいくらかましなはずだ。
エルゥは見るからに貴族で、そのはずなのに、どうしてか時折こんなふうに突拍子もない事をする。だけど知ったからには、もう野宿などさせられなかった。
しかし。
「それはだめだよ、アーシェ」
微笑みを消して、きっぱりと、エルゥは首を振った。
「え?」
「君が傷付く。女の子の独り暮らしが男を泊めたとあっては、不名誉な噂になっても仕方がなくなる。僕は君に、そんな傷を負わせたくない」
「……それは、」
だけど、村の人たちならちゃんと話せば判ってくれるはずだ。言葉を詰まらせたアーシェに、尚もエルゥは続けた。
「人はね、自分の中でこうだと決めたものを事実にしてしまう。たとえ本当はそうじゃなかったとしてもだ。だから、そんな隙や妄想の入る余地をつくってはいけない。君が傷付かないためだよ」
「……でも、まだ夜は寒いですよ。それにもし雨が降ったら」
「ああ、うん。判ってるよ、大丈夫。心配してくれてありがとう。気にしないで、本当にちゃんと屋根はあるんだ。行軍の時にも使うような頑丈なものだから、案外居心地も良いしね」
だから本当に、心配しないで。そう言って、エルゥはそっとアーシェの頬を包み込んだ。
硬い掌。―――骨張ってごつごつとした、指。エルゥはそのまま、ふと顔を寄せてきた。耳元にほんのささやかな吐息がかかる。
「――――――」
その囁きは、二人きりの家の中だというのに小さく、風の音にさえ紛れそうなほどだった。
「え、」
頬を包んだ親指の腹が、すり、と頬の皮膚を確かめるように撫でる。つ、と動いて、ぽかんと開いたままだった下唇を、ク、と押し下げながらじっとりと、なぞっていった。
汗ばんで火照った肌に、ほんの少しひんやりする、他人の指先。今、自分が何をされているのか、アーシェはよく解っていない。
エルゥはフ、と悪戯っぽく笑った。
「裏の井戸を借りるよ。僕も身体を拭いてくる。君も汗を拭いて、着替えておいで」
それきり、返事も待たずにあっさりと背を向けて、小さな居間から立ち去ってしまった。ぱたん、と静かに、ドアが閉まる。
「……え?」
何、今の? 何が起きたの?……え?
―――それに、僕は男なんだよ。他の誰よりも、君に対してのみ、危険だ。
耳元にそっと囁かれた言葉が、やっとちゃんとした意味を伴って、頭の中に蘇った。君に対してのみ。それが意味するところは、つまり。
「……………っ!!」
ボッ、と一気に顔が熱くなって、咄嗟にアーシェは両手で頬を押さえた。
いやでもだって今更よね? あの人、まだ夜が明けないうちから家に押しかけてるし初日なんか断りもなく寝室にまで入ってきてたよね!?
慌てて、内心でそう言い訳を並べ立ててみるが、それはいったい誰へ向けての言い訳なのかもよく解らない。
そうして、取り残された居間で、アーシェはひとり頬を赤らめたまま焦っていた。汗は一度引いたはずなのに、どうしてだろう、身体中が熱くて仕方なかった。
.
.
.
―――ここは、とてもいいところだ。
井戸の前に立ち、桶にひとつ分の水を汲み上げたところで一息を入れて、エルゥはゆっくりと辺りを見回した。
既に陽は暮れて、夜闇が辺りを覆い隠している。それでも、一面を覆うような緑が風に吹かれてさやさやと葉擦れの音をたてるのは聞こえた。鮮やかに萌える春の緑。その中で、まるで人形の家のような集落に暮らす穏やかな人々。
そうだ、ここはとても穏やかなのだ。自警団を組織しているようだが、目立った事件や事故は起きていないという。村長は学はなくとも人物としては立派で、保護者を失ったアーシェが十四という幼さでも一人で暮らしてこられたことからも、それが解る。
……自警団の面々にも、きっと可愛がられてきたのだろう。この国では、女性が剣を持つなど禁忌だと思われている。それなのに、ああやって集まってわいわいと楽しそうにしていた。アーシェを女性とは見ず、身寄りのない子供だと思っていたからかも知れない。それでも、きっとあの場所は、ああやって彼女を受け入れ守ってくれていた。
「……それでも、僕は、もう君を手放せるはずがないんだよ」
エルゥはぽつり、と呟いた。続けて、ごめんね、と。その声には、自嘲ともつかない苦いものがはっきりと滲んでいた。
シャツの上からかぶっていたコットを、ばさりと脱ぐ。億劫そうに落ちかかる前髪を掻き上げて、複雑に結ばれた襟元のリボンをするすると解いた。
その下から覗いたのは、ふくよかな体型に見えていた彼のものとは思えない、ぱつん、と皮膚の張ったすっきりとした喉元だった。
ボタンを外していく。どうやらシャツには、内側に、そうと悟られぬよう肌の色によく似た生地で仕立てた、綿入りの何かが縫い込まれていた。すっかりくつろげた前身頃の隙間から覗くのは、細身ではあるが鍛えられ、引き締まった胸元と腹だ。それはまさに、彼の見せた剣の冴えに相応しい身体付きであるように見えた。
「……ああ、一度外すか」
呟いて、口元に手を寄せる。その上へプッ、と吐き出されたのは、小さく形を整えた綿だった。それをふたつ。丁寧に唾液を拭ってから、見つからぬよう足下の、土の中に埋める。
それから。
「―――ご報告がございます」
それ、を外したところに、背中から声が掛かった。
「どうした」
「連中、思ったよりも足が速い。明日の午過ぎには着いてもおかしくないところまで来ています」
「……もう、か。ここだと確定された訳ではなかったはずだな?」
「近隣を手当たり次第に」
「では、時間の問題か。……無理矢理になってしまうな」
脳裏に浮かぶのは、この村でいきいきと暮らすアーシェの笑顔だ。
自警団の男たちに囲まれて、子鹿のように溌剌と跳ねる。その目が、きらきら輝いていた。仕立屋ではおかみにとても懐いていた。気安い口調が甘えた子供のようで、それは愛らしい。掃除をするぞ、と口元を覆った姿は微笑ましく、しゃんとした背中が勇ましかった。
そのどれもが、彼女がこの村でしっかりとした暮らしを築いてきたことを雄弁に物語っていた。明るく、一点の曇りもなく、とても健やかに。
それを今、自分は壊そうとしている。有無を言わさず、奪おうとしているのだ。
「……僕はあの子から、奪ってばかりだ」
エルゥは両手で顔を覆った。その声は、紛れもない絶望に暗く沈んでいた。
「我が君」
「言うな。それでも、こうするしか他に手段もない」
気遣わしげな呼び掛けを、しかし、顔を伏せたままエルゥは遮った。はー……、と深い溜息を肺の底から吐き出して、思い切るように顔を上げる。
「それは僕が背負うべき、僕だけの罪だ。誰にも渡す気はない」
「……御意」
「明朝だ。ここを出る。馬車は用意出来るか」
「間に合いません。街までは馬で駆けるがよろしいかと」
「追い付かれるか」
「おそらくは」
「……ああ、本当に、思う通りにはいかないな」
忌々しげに舌打ちする。それでもふるり、と頭を振って激情を抑え込むと、エルゥは組み上げた水桶に手を伸ばした。
「委細任せる」
「承りましょう」
かさっ、と少しの葉擦れ音をたてさせて男が消えるのと、エルゥがばしゃんと水桶に手を突っ込んだのはほとんど同時だった。両手に水を汲み上げて、それで顔を洗う。髪が濡れても構わず、何かを洗い流そうとするかのようにエルゥはばしゃばしゃと水で流した。
それから、外していたそれ、を付け直す。手巾を絞って首筋、胸元と汗を拭い、また元通りにシャツを着込む。その上からコットを。
最後に、形を整えた綿を口に詰めた。歯と頬の隙間にぐいぐいと押し込んで、位置を整える。すっかりいつも通りの姿に戻ったエルゥは、ふ、とひとつ息を吐き出すことで、アーシェの前に立つに相応しい自分を取り戻した。
彼女には、やさしいもの、やわらかいもの、あたたかいものだけを見せていたい。
それがいつか出来なくなることは解っているから、せめて出来るだけ、長く。
「大丈夫。―――やり通す」
自分に言い聞かせるように呟くと、エルゥは元来た道を戻っていった。
丘の上の小さな家、窓からは、質の悪い蝋燭のやわらかな灯りがうっすらと漏れてくる。エルゥにとって、彼女を照らすその光こそが、暖かいものの全てだった。
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