第二節(後)
アーシェの剣は、誰に師事したものでもない。
そもそも、田舎の小さなこの村には、剣を教えられるような者などいなかった。自警団はある。だがそれも、村の住人たちが自発的に剣を取り組織して、どうにか村を守れるだけの体裁を整えたものだ。
その中で、アーシェは、一人黙々と基礎の基礎を繰り返していた。正しいかまえ。姿勢。足の運び方。型の演武。誰に教わった記憶もない。それでも、練兵場に通い始めた小さなアーシェは、その最初から、それらの事を知っていた。
まだ小さすぎて、自警団の男たちが相手をすることも出来ない。そんな年頃から、ひたすら愚直に、アーシェは鍛錬を積み重ねた。剣を構える。振り上げる。下ろす。突き出す。足さばき。一歩踏み出す。一歩あとじさる。そんな基本の訓練を、ただずっと、飽きもせず繰り返してきたのだった。
やがて、大人たちに交じって打ち合いが出来るようになった頃。
アーシェの剣は、我流で剣を振り回す男たちを圧倒した。彼女の剣技には隙がなかった。また、その剣筋は柔軟で、力任せに突撃してくる男たちをいなしたり受け流したりして、けして自分には近寄らせなかった。そのうちに、いつしか、彼女と打ち合いで勝てる者は誰もいなくなった。
―――そして、今。
「ハァっ……!」
初めて、打ち込んでも打ち込んでも倒れない相手が、目の前にいる。
「おっと。うわぁ、いいとこ突いてくるなあ」
裂帛の気合いと共に繰り出した鋭い突きを、エルゥは自分の剣で受けつつあっさりといなしてしまった。体勢が崩れかけるのを防ぐ為に、そのままの勢いを保って突き進む。背後に回り込んで、くるり、と踊るようにターンする。
そうして剣先を閃かせた時には、既に自分も振り返っていたエルゥの一閃が振り下ろされようとしていた。切り込むはずだった剣身で受け止める。流す。そうして一旦、距離を取るために後ろへ飛びすさる。
もう十合以上も、こうして打ち合っては離れ手を繰り返した。だけど未だ、決着はつかない。拭う暇もない汗がつう、とこめかみを流れて、顎の下で点を結び、そこからぽた、と垂れて足下に小さな染みを作った。
「……良い腕だ」
エルゥは笑っている。それが彼の余裕そのものに見えて、アーシェはギリ、と奥歯を噛んだ。だけど気付いている。そんな自分も、口元は吊り上がって笑っていることに。
だって、楽しい。
「あなたもね!」
叫びざま、重心を低くして飛び込んでいく。けれどのその一撃も、しもてに剣を下ろしたエルゥに防がれた。ギャリっ、とあの、鉄の擦れる音が鳴る。ああ、楽しい。楽しい。楽しい。
こんなに楽しいことは、今までになかった!
「おっと、じゃあこれはどうかな?」
流した剣先がきれいな弧を描く。そのまま、逆手に振り上げた剣をエルゥが下から掬い取ろうとした。だけどさせない。大きく踏み込んだ一歩で受け止める。そしてまた、パッ、と飛びすさって距離を取る。ぽたぽたと汗がまた、落ちた。
楽しい。本当に楽しい。勝負のつかない勝負、がこんなに楽しいなんて思わなかった。気持ちがかつてないほど高揚しているのが判る。楽しい、と叫び出したいくらいだった。
だけど。
(……そろそろ決着を着けないと、厳しい)
もっと打ち合っていたい。ずっとやりあっていたい。だがアーシェは一人を相手に、これほどの長い打ち合いをするのは初めてだった。ただでさえ何人かの相手をしたあとで、しかもそれ以前に掃除やら何やらで体力を使ってしまっている。このままではきっと、技よりも力が先に尽きてしまうだろう。
(もってあと……何合、かな)
エルゥの剣は、剛剣だ。一撃一撃が重い。出来るだけ受けずに流したいけれど、切り込みが鋭くてそうさせてくれない。きっと自分は負けるだろう。それでも、少しでも長く。
「お楽しみはこれから、でしょ……!」
続けていたい。楽しみたい。このひとときを。高らかに告げてグッ、と深く踏み込む。ひらり、コットの裾が流れてひるがえった。
「うわぁ、やりにくい!」
声を上げて笑いながら、しかしエルゥはそれを難なくいなした。本当だ。やりにくい。膂力の違いを除けば、恐らく似たような動きをしているのだ。受け止め、いなし、躱す。力に頼って押し通すのでも、受けきるのでもなく、しなやかに相手の力をも利用して勝機をうかがう。そんなやりかたをしている。本当にやりにくい。
―――でも、だからこそ、面白い。
「あなたこそ! 力任せに突っ込んで来てもいいんですよ!」
「いやだね! 逆にやられるのが判りきってる!!」
二人は満面に笑みを浮かべながら切り結んでいた。キンッ、キィン、と鋼の打ち合わされる音が、幾重にも重なって空へ吸い込まれていく。
夕暮れの始まりだった空は、いつしか段々とその色を深く、濃くし始めていた。煮詰めたような紺、藍、涼やかな青に残照の入り混じったピンクのグラデーション。うっすらと視界が暗くなり始めている。
「はぁっ、……」
汗がぽたぽたと地面に落ちた。息が上がる。疲労はずしりと身体を重くしていくのに、気持ちは反対にどんどん研ぎ澄まされていく。
「うわっ!」
「……っ、惜しい」
振り抜いた剣先がエルゥの髪を掠った。あと一瞬、ほんの一瞬早ければ勝ちを拾えたのに。肩で息をしながらもう一歩、とアーシェは爪先に力を込める。
けれど、その時。
「あっ……!」
くんっ、と、踏み出すはずだった足がもつれて躓いた。転ぶ。ああ折角、あと少し、あと一瞬の差だったのに!
アーシェはぎゅ、と目を瞑って次に来る衝撃に備えた。このままでは、きっと顔から見事に突っ込んで転んでしまうだろう。
「おっと。……ごめん、楽しくて調子に乗ってしまったね。ここまでにしておこうよ、アーシェ」
だけど、そうはならなかった。やわらかな腕が、ふかっ、とアーシェを抱き留める。
エルゥだった。顔を上げると、彼の後ろに広がる空と同じ色をした瞳が、きらきらと輝くようにアーシェをじっと見つめていた。
「……エルゥ?」
「アーシェ……」
きらきら、きらきら。星を浮かべたようにエルゥの目は輝く。夜の闇のような長い前髪の隙間から、ああこれは、本当に夜空を見上げてるみたいだ。
「君はすごい。本当にすごい。……どうしよう、言葉に出来ないよ。アーシェ、君は最高だ!」
ハハッ、という歓喜の笑い声と共に、エルゥは抱き留めたアーシェの身体をぐいっ、と持ち上げた。子供にする高い高い、のように掲げ持って、くるくると回る。
「ち、ちょっとエルゥ!? やめて目が回る!」
「あ、ああ。ごめん、レディにする振る舞いじゃなかった。……」
それで我に返ったのか、やっとアーシェを下ろしてくれた。までは良かったが、その刹那。
「アーシェ」
エルゥはまた、アーシェの足下に片膝をついて跪いた。そうだ、出会ったあの時のように。
「……僕は君に、限りない敬意を表する」
「え、あ、ちょっとエルゥ、どうしたの。急に何なんですか」
「本当だよ。心からだ。……僕は今、どうしようもなく感動しているよ」
するりと取ったアーシェの手に、彼はそっと唇を寄せた。騎士の礼。だけどそれは、まるで大切な何かに―――そうだ、たとえばとてもやわらかくもろい、いっそ儚いような宝物に、唇で祈るような行為に思えた。
「エルゥ?……」
先刻までの敵意も、殺意も、本物だった。エルゥとの手合わせは手加減なんか少しも感じさせない、対等のものだった。それなのに、どうしてだろう。
エルゥが今、じっとアーシェを見上げてくる瞳は、まるで何かを乞うているように見える。
「いやー、さすが若様だなあ! アーシェとやり合えるなんざ凄いもんだ!!」
「ぽちゃぽちゃしてんのに、何であんなに動けるんだ!?」
「二人とも凄すぎて、何やってんだか全然解んねえ!」
戸惑うアーシェをよそに、エルゥはニコ、と笑うと、その手を取ったまますらりと立ち上がった。こうして見ると、誰かが言ったように彼は身体つきのわりに動作のいちいちが軽い。
わあっ、と歓声を上げて駆け寄ってきた団員たちに、エルゥはにこにこといつもの様子に戻って応えていた。
「よし今日は飲もうぜ! いいもん見せて貰えたお礼だ、俺が奢る!」
「おっ、剛毅なもんだな。ご相伴に預かるとするか」
「バカヤロウ誰がお前って言ったよ、アーシェと若様の二人だけに決まってんだろうが!」
「あはは、それは申し訳ないね。気持ちだけありがたく頂くよ。代わりに今日は、僕が皆さんにご馳走しようかな」
笑い声が其処此処から上がる練兵場に、ひときわ大きい歓声が上がる。おおっ。エルゥの一言に男たちはいっそう沸き上がり、夜の帳が折りかけた薄暗い練兵場をひとしきり騒がせた。
「……だけど、かなり汗を掻いたから、ちょっと着替えたい。ね、アーシェも汗を拭きたくない?」
「えっ、あっ、私!?……うん。出来れば」
戸惑うアーシェをくるりと振り向き、エルゥはコットの内側をごそごそと探って手巾を取り出した。
「はい。これは君が使って」
「あ、ありがとう……」
そうして自分は、ぐい、とドレスシャツのドレープ袖で額を拭った。
「だから一度、家に帰ろう。皆さんは良かったら、このまま酒場へどうぞ。あとから僕たちも行きますから」
おう、そうさせて貰うぜ! ここの片付けは任せな。
気の良い村人たちは口々に二人を褒めそやして笑うと、そう言って練兵場の片付けを始めた。そのまま酒場に流れ込むのだろう。きっと今夜は騒がしくなる。
「さ、アーシェ。行こう」
「……うん」
練兵場から丘の上のアーシェの家までは、いつもなら歩いて半刻以上かかる。一度戻ると、とてもじゃないがもう一度降りてくる気にはなれない。エルゥは馬を使うつもりなのだろう。この所は、いつもそうやって村で食事を取り、そのままアーシェを家まで送ってくれていた。
「勝手に決めちゃったけど、大丈夫かな。それとも、君はこのまま休みたい? 今日は疲れたでしょ」
「ううん。大丈夫、身体を動かすのは好きだし。それに、……」
母を亡くしてからずっと、アーシェにとって食事は一人で取るものだった。とても静かに、しん、と耳に痛いような沈黙の中、ただ食器のカチャカチャという微かな音だけを聞きながら。一時間かけて作ったスープを、パンと一緒にほんの少しで流し込む。
だけど毎晩エルゥに招かれる食卓は、とてもとても楽しかった。静かなのは嫌いじゃない。それでも。
「……それに、皆と一緒の方が楽しいよ」
「そう。良かった。じゃあ今夜は目一杯、楽しもう!」
エルゥはキュ、と取ったままだったアーシェの手を握った。そうして、そのまま歩き出す。
「さあ、急いで支度をしなきゃ。行こうアーシェ」
「うん!」
初めての体験だった手合わせのせいで、まだ足がちょっと、震えそうに疲れている。それでも、それでも、アーシェは少しも気にならなかった。楽しい。楽しい。エルゥのいる毎日は、新しいことの連続でめまぐるしい。びっくり箱、と言われたけれど、アーシェにとってそれはまさにエルゥそのものだった。次に何が起こるのか、てんで想像もつかない。
浮かれて歩き出したアーシェだったが、その二歩目を踏み出したところでずきん、と背中に痛みが走った。
「っ、!」
一瞬、息が止まる。ああそうだ、忘れていた。こんなに一度に激しく動くようなことは、今までなかったから。
動きを止めたアーシェに、手を引いていたエルゥの足も止まった。眉を寄せた青年に、アーシェはちょっと眉をしかめて微笑む。
「どうしたの」
「ごめん、ちょっと……背中の古傷が、痛んで。最近おとなしくしてたから、突然動いてびっくりしたみたい」
「古傷、って……背中?」
エルゥの目が、ハッ、と見開かれる。そうしてゆっくりと、いたましげに歪んでいった。
「そう。でも、小さい頃のですよ。ほんとうに、こーんなちっちゃい頃の。私自身はもう憶えてないくらい。母さんが言ってたけど、私ほら、こんなでしょう? ちょろちょろしていて、崖から落ちちゃったんですって。背中をざっくり……生きているのが不思議なくらい、って言われました」
だから、落ちるところのないこの丘の村に引っ越してきたんだ、って母さん、言ってましたけど。そう続けて、アーシェはちょっと笑った。
「もう完全に塞がってるし、普段は何ともないんですよ。身体を冷やしすぎたり、無理に動かし続けたりすると痛むくらいで。それだって、すぐに治まるんです。あー、そういえばあったな、そんな傷……ってくらいなの」
だけどこの時代、背中にそんな大きな傷を負っている女など、どこにも嫁のもらい手はない。人柄や容貌がどれほど優れていても、「傷物」という一言で終わってしまう。
だからアーシェは、手に職を付けた。針子の技術は、どこに行ったって必ず必要とされるものだ。それに、身体が老いても技術は衰えず、長く続けられる。一人でも生きていけるようにと、母は一生懸命仕込んでくれた。
「……つらかったね」
囁いて、そっと背中に手を当ててくるエルゥのほうがよほどつらそうな顔をしていた。この傷は、だけどアーシェにとっては終わったものだ。生きている限り、ずっとそこにあって変わらないもの。だから大丈夫。
これも、自分の一部でしかない。
「ううん、怪我した時のことだって憶えてないくらいだもの。私は大丈夫。気を遣わせちゃってごめんなさい!」
晴れ晴れとして笑うアーシェに、エルゥは何故か眩しそうに眼を細めた。そうして、今度は彼女から差し出した手をそっと握る。
「さあ、遅くなっちゃいますよ。行きましょう」
「うん……」
エルゥはちょっと笑って俯いた。そうして二人、歩き出す。
「……本当に、敵わないなぁ」
エルゥの呟いた泣き出しそうな一言は、軽やかに歩くアーシェの今はもうぴん、と伸びた背中にぶつかって、彼女の耳には届くことなく消えていった。
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