第二節(前)
結局、アーシェがアンセルムの家の片付けを終えたのは、そろそろ陽も沈み始めるかという夕方頃になってしまった。
ごみと水と傷んだ食糧の片付けは早い内に終わっていたものの、そこから本と書き付けの整理に手間取ったのが敗因だ。きちんと分類して、本は元通り書棚に、書き付けは内容ごとに束ねてしまおうと思っていたものが、とてもそんなことが数時間で出来る量ではなかった。
とはいえ、埃を払って仕上げに風を通せば、そこはいつもアーシェの訪ねていた部屋になる。……つまりこの家は、普段から書物と紙に溢れた家だったのであった。これはもう仕方がない。
「やりきった……!」
汗の滲んだ額をぐい、と手の甲で拭い、満足そうにアーシェは呟いた。あとはもう、腐るようなものは何もない。きちんと片付けきれなかった、とはいえ、書き付けも書物もそれなりにまとめてはある。これでアンセルムがいつ帰ってきても、少なくとも不快な思いだけはせずに済むはずだ。
しかし。
「うーん……どうしようかな」
目一杯に開け放していた窓をひとつひとつ閉めながら、アーシェはぽつりと呟いた。あれから、もうだいぶ時間が経ったと思うのだが、エルゥがまだ帰って来ない。
このまま、もう少し待っていようか。だけどこの家は村でもかなり辺鄙なところにあるので、ひとけというものがまったくない。このまま暗くなってしまうのはあんまり宜しくない。
せめてどこかに移動して、そう考えながらばたん、と最後の窓を閉める。きっちりと鍵を掛けてから振り返ると、あとはもう捨てるだけ、とばかりにくしゃくしゃに丸められた紙の山が目に入った。
「そうだ!」
紙なんて高級品を、こうも使い捨てにするのは勿体ない。いつも好きにしろ、と片付けの度に言っているのだから、一枚くらい頂いてもかまわないだろう。
ペンとインクも拝借する。あとは捨てるだけの紙は、表も裏もびっしりと何かが書き付けられていた。がさがさと漁って、余白の大きいものを探す。
エルゥは貴族だ。だとしたら、きっと文字の読み書きだって当たり前に出来る。アーシェはわくわくとペンを走らせた。誰かに宛ててメッセージを書き残すなんて初めてだ。
「んーと、何処にしようかなあ……」
少し考えて、すぐにぱあっ、と顔を明るくする。あそこなら危険なことは何もないし、場所も判り易いし、そういえばエルゥが来てからというもの顔を出していなかった。
「うん。……ふふっ」
肩をすくめるようにして、アーシェはちょっと笑った。エルゥへ。そう書き出した紙にはここから移動すること、だけどある程度の時間までは村の入口近くにある練兵場で待っていることが簡潔に記されてあった。
アーシェは籠を背負ってしっかり帰り支度を終えると、その紙を出入り口の前に適当な石を重石にして置くと、足取りも軽くてくてくと歩き出した。ああ、そうだ、随分怠けてしまっていた。普段は一週間に一度は必ず、ちゃんと鍛錬をしに行くのに。
そういえば、家で棒きれを使って素振りするのも、最近はやっていなかったな。……
剣を取るのは、強くなりたいという目的のための手段だ。だけどそれだけじゃなく、多分素直に、剣を使う、ということそのものが好きなのだと思う。
「おう、何だアーシェ。今日はあの若様は一緒じゃないのか」
練兵場には、今日も自警団の面々が集まっていた。これは訓練のため、というより習慣のようなもので、午過ぎまでに畑仕事を終えた団員は大抵ここに集まってくる。そうして適度に身体を動かした後、全員で酒場へ出かけて行って軽く一杯引っかけてから帰宅する、といった寸法だ。
ようは待ち合わせに丁度良く使われている。
「うん、ちょっと出かけてる。だから、久々に手合わせして貰っていいかな!」
既に西の空は赤く染まり始めていた。鮮やかな朱が、連綿と続く緑を染める。合わさった色が黒に近く濃くなり、大きな影のように茜色を支えている。男たちはそろそろ帰り支度を始めるところだったが、アーシェの一言にわっ、と沸き上がった。
「望むところだ!」
「ようし、今日は俺が一番手だぜ」
「バカ言うなよ、お前なんか一瞬でやられちまわあ。俺だ俺!」
ああ、懐かしい喧噪と活気だ。丘の上の家はとても静かで、それはとても落ち着くものだけれど、この血がふつふつと熱を上げていくような時間も堪らない。籠を下ろし、腕を捲って髪を結わえたアーシェに、一人の男がいい笑顔で掘っ建て小屋から持ってきた物を差し出した。
「ほらアーシェ! お前さんの相棒だ」
「わあっ、ありがとう!」
それは、アーシェがここに預けている彼女の剣だった。男たちが使う物より、ほんの少し細身に作られている。アーシェはずっと、この剣を振って稽古をつけてきた。
柄の握りを、しっかりと手の中に収める。それはとてもよく掌に馴染んだ。ヒュ、と一度振り下ろしてみる。空を切るような鋭い音は、耳を心地よく撫でていった。
―――ああ。私は、ここが好きだ。これ、が好きなんだ。
「誰からでも構いませんよ。いつでもどうぞ」
すたすたと練兵場の中央へと進みながら、振り向きざまに告げる。うぉおおお、と野太い雄叫びが上がった。
十五を過ぎた辺りから、この自警団の男たちに後れを取ったことはない。アーシェはスラリと剣を正眼にかまえると、そこでピタリと動きを止めた。
夕日を受けて、剣先がキラ、と朱に輝く。
「よし、行くぞアーシェ! 俺からだ!!」
「三合もつか賭けてもいいですよ! おいで!!」
どうやら団員たちの間で話がついたらしい。手に手に剣を取ってぐるり、練兵場にまばらな輪を作る中で、一人が勢いよく飛び出して来た。アーシェは笑ってザリ、とすり足での一歩を進める。
「うぉおおおおおお!」
怒号と共に、剣先が踊った。その切っ先でまたきらり、と夕日が煌めくのを、抑えきれない高揚に目を細めながら見つめる。
そうして、夕暮れの始まる練兵場に、懐かしいキィン、という澄んだ高い音が響き渡った。
「―――ハッ!」
短い気合いと共に、振り下ろされた剣へ向かって両手で構えた剣をぶつけていく。ギャリギャリっ、と歯の浮きそうな金属音をたてながら、剣身を跳ね上げるようにして相手の軌道を逸らしていく。
踏み込もうとしてくる男に逆らわず、アーシェはトッ、と飛びすさるようにして三歩分の距離を一気にあとじさった。空振りにも似た抵抗のなさに、男の態勢が前のめりに僅か、崩れる。
「隙だらけだ!」
アーシェはそれを見逃さなかった。ダンッ、と爪先が土を抉るほどに強く踏み込み、下手から剣を跳ね上げる。ギィンッ、と鋭い音が響いて男の手から剣が離れた。―――まずは一人。
「次は俺だ!」
情けねえな! しっかりしろよ! 沸き立つ野次に重なるようにして、次の相手が名乗りを上げた。そのまま、まっすぐに突進してくる。うぉおおお。また野太い裂帛の怒号。
アーシェは男が駆けて来るのを、避けもせずただ待った。口元が笑っている。うっすらと笑みを刷いて、燃えるような瞳で自分へ向かって剣を振りかぶるその男を、じっと見ている。
「―――隙が大きすぎる、って言ったでしょ」
そうして、男の腕が伸び上がった直後、アーシェは自分も剣を振り上げた。くるり、切っ先がきれいな弧を描く。回転する力を利用した動きで、いとも簡単に男の剣を弾き飛ばした。
「さあ、次は」
誰?
―――しかし、そう問おうとした時だった。ぞっ、と背中を竦ませるような悪寒が、どこかから針のように突き刺さったような気がした。
(これは何!?)
次は俺だ、と叫ぶ男からではない。油断なく剣を構えたまま、視線だけでぐるりと自分を取り囲む輪をなぞる。違う。ここじゃない。この外側だ。ぞくぞくと寒気がするような、何か。恐ろしい気配。
「……驚いたな、君は本当にびっくり箱みたいだ。アーシェ」
その気配、が、近付いてくる。進み出てくる。様子の変わったアーシェを訝しんでざわつく自警団の男たち、その間から、見慣れた姿をまとって目の前に現れた。
「……エルゥ……?」
それ、は、足が竦みそうなほど恐ろしい気配だった。剣を握る手にじわり、と汗が滲んで、だけど縋るようにきつくぎゅっと握り締めさせてしまうような、そんな。自警団の男たちからは、何度剣を交えても感じたことがない。
だけど、判る。剣をふるう時、目で追うよりも早く相手に対応出来るのは、この言葉に出来ない何となくの「気配」に反応するからだ。だけどこんなに、圧倒してくるような気配には今まで接したことがない。……いや? 違う。知っている、のは、これを向けられたことがあるからだ。だけど思い出せない。いったいいつ? 誰に? 判らない。嫌な汗が背中に流れるのを感じた。
「まさか、君が剣を使うなんて。思ってもみなかった。嬉しいな」
アーシェを取り囲んだ男たちも、エルゥに圧倒されていた。いつもにこにこしていて、親しげで、人懐っこいエルゥ。今もその口元には微笑みが浮かんでいるのに、どうしたって近寄りたくない。
何事か、とざわめく男たちの間から、エルゥは悠然とアーシェに向かって歩を進めた。その右手が、ゆっくりと腰の左側に伸びる。そうして彼は、とても慣れた仕草ですらり、とそこに差していた白銀の剣を抜いた。暮れ始めた空の、やけに深い赤を反射して、剣身が不吉な朱に光る。
「嬉しいよ。……本当に、嬉しい。ひとつ、お手合わせを願おうか」
「エルゥ」
「判るかな。これは殺気だよ。殺気と敵意。……君の剣はお遊びじゃないんだね。これに気付くとは思わなかった。僕は今、君と本気で打ち合おうと思っているから。……ああ、でも」
ふっ、と、エルゥは笑った。唇の端だけが、ニヤリと吊り上がる。
「怖いなら、消すよ。手合わせを楽しむだけにする」
ふ、と、アーシェの脳裏をあの光景、が横切った。ずきんと背中が痛む。
泣き叫ぶ小さな男の子。返して、返してよ。繰り返し繰り返し、何度も見る夢。この手に剣を取った理由。
「……ううん」
アーシェは静かに首を振った。
「そのままでいいです。……お受けしましょう」
キッ、と睨み付ける眼差しは、いつものやわらかに萌えるような若葉の色ではない。それよりももっと深く、鮮やかに、燃えるような緑の炎の色をしていた。
フフ、とエルゥがほんの少しだけ肩を揺らして笑う。
「いいね」
短く言って、鞘から引き抜いたその剣を、ス、と正眼に構える。
いつしか、練兵場は奇妙な静けさに包まれていた。咳払いさえはばかられるような緊張に満ちている。自警団の男たちは、それまでの騒がしさが嘘のように固唾を飲んで二人のやりとりを見守っていた。
「楽しもう、アーシェ。―――じゃあ、いくよ」
張り詰めた空気には、まるでそぐわない気軽な宣言。そうしてエルゥは、ふわり、と雲の上でも歩くような軽い足取りで、ト、と短く、その一歩を踏み出した。
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