第一節(後)
「―――ところで、次はどこに向かってるの?」
少しだけ生まれた沈黙を大急ぎで埋めるように、エルゥがアーシェに問いかけた。
「うん。お世話になってる先生の家」
あれ以降、どうやらアンセルムは本当に家へ帰ってきていないようだ。たまには窓やドアを開けて風通しをしてやらないと、本や書き付けの多い彼の家は、あっという間に埃だらけになってしまう。一度は行かなければと思っていたところだった。
「先生?」
「そう。私、そこで読み書きや他の勉強も見て貰っていたんです。変わり者の、学者の先生よ」
「へえ。学者の人たちって、学舎に籠もりきりだと思ってたんだけどな」
「言ったでしょう、変わり者なの。人付き合いが面倒だから、学者なんて一人もいないところに来たかったんですって」
「なるほど。それは面白そうな人だね」
くすくすと笑う。仕立屋からアンセルムの家までは、聖堂前広場までの大通りをぐるっと回って裏手に入り込まなければならなかった。畑からも放牧地からも遠く、家も少ない、村の中でも僻地と言えるような場所だ。少し歩かなければならない。
「なるほど、じゃあアーシェは読み書きが出来るんだ」
「うん。母さんが通わせてくれてね……、家計も苦しかったのに。出来て損するものじゃないから、って。読み書きが出来るようになってからも、何だかずるずるずっと勉強させて貰っているんです。何だかどんどん難しくなっていってて、最近じゃこれ必要なのかな、ってちょっと不思議なんだけど」
「たとえばどんな?」
「えーと、税に関する事とか。あ、先生の提言で、この村は一人一人じゃなくて、村全体で税をとりまとめて払うようになったんですよ。そうしないと、全員が小麦作りに追われてしまって、他の産業や仕事に分業できないからって」
「……へえ。凄いね。どうやってるのかな」
「基本的にこの辺りは麦で税を納めてるんですけど……、たとえば私は、自分の税分の小麦を針子の仕事で稼いだお金で買うんです。でも、その分、小麦を作ってる人たちは服を縫ったりする手間がなくなるから、その分麦を沢山作れる、みたいな感じで」
こういった田舎では本来なら、服を仕立てたりといった雑事はそれぞれの家庭で行うことだ。仕立屋など、晴れ着などをあつらえる時にしか使わない。それを、この村では普段着からそうしていた。そうして、手が余った分で畑を広げるのだ。
それは服だけに限らず、髪結いや、雑貨屋がそれで生計を立てられている事にもつながった。アンセルムが来るまで、この村にはそれすらなかったのだ。時折訪れる行商を待つしかなかった。それだけ、皆、ただ小麦を作るので精一杯だった。
「村長さんがとりまとめをしてくれているんですよ。だから私が直接小麦をお願いしにいくこともないし。たまに不作があっても、このやり方にしてから余裕が出来たので貯蓄分があるんです。だからそれで何とか出来るの」
「……本当に、凄いな。合理的だ……そうか、そうすれば余裕が出来る。商業的な発展も、……いや、……」
エルゥの口元から笑みが消えた。ぶつぶつと口の中で何やら呟きながら、しきりにうんうんと頷いている。彼も領地を持つ貴族なんだろうか。だとしたら、これはきっと彼にとっても興味深い話に違いない。
ざくざくと小さな石の転がる裏通りを歩く。うーん、と小さく唸って口元に手を当て、考え込みながら歩くエルゥをアーシェはこっそりと眺めた。
おっとりとした口調によく似合う、ふっくらとした身体付きをしている。頬の下がまるく膨らんでいて、全体的にふくふくとした印象だ。それなのに、時折触れる手だけが随分と骨張っていてごつごつしている。
いつもきちんとした身なりをしているのに、髪だけが手入れをさぼってしまったような伸ばしっぱなしだ。特に前髪は、目元をほとんど覆ってしまってあまりよく見えない。でもそこから覗く瞳の色はとてもよく澄んだ夜空の色で、その深い紺色はとても綺麗だと思う。落ち着いていて、穏やかで、何となくやさしい。
まだ、ほんの十日にも満たない日々。
それでも、毎朝家を暖かく温めてくれるこの人は、きっと悪い人じゃない。そう思いたいとアーシェは思っていた。
「見えてきた。あの家だよ」
「その先生は、ご在宅なのかな」
「あ、ううん。ちょうどエルゥが来た日だったかな、暫く留守にするって出かけて行ったの。留守中を頼まれたから、今日は家の手入れをしに行くんですよ」
「……なるほど」
エルゥは呟いて、にやり、と笑った。その表情も、アーシェが初めて見る彼の顔だった。
そうこうしているうちに、すぐに目的地へ辿り着く。
久々に訪れたアンセルムの家は、たった数日でもうかなり空気のこもった、誇りっぽい空間になってしまっていた。
預かっている鍵で玄関を開け、三ヶ所ある窓を順々にばたん、と大開きする。鍵は夜も昼も関係なく寝たい時に眠り、あとは体力が切れるまで研究をし続けるアンセウルムの世話のために預かっていた物だった。
「ああー! 先生やっぱり!! 何にも片付けないで出て行ってる!」
ドアを開けてアーシェは絶望した。うすうすそうではないか、と思っていたのだ。水は水瓶に溜めたままだから腐り始めているし、書き付けだの本だのも山積みのままだし、挙げ句には買い貯めておいたのだろう果物や燻製肉なども傷み始めている。腐臭がきつい。
「もっと早めに来るべきだった……!」
後悔してももう遅かった。とにかく、これを何とかしなければならない。
呆然としているエルゥをちら、と一瞥すると、アーシェはさっ、と手を差し出した。
「エルゥ、ごめんね。籠をちょうだい。そこに色々入ってるから」
「これは……うん……そうか……準備をしないで留守にすると、こうなるんだね……しらなかった……」
「エルゥも旅に出るならちゃんと後始末してから出てくださいね。こうなるから」
「肝に銘じた」
エルゥはドアの所から動けずにいる。その場で籠を受け取ると、アーシェはごそごそと中身を漁った。端布を取り出して顔に巻き、口元を覆って髪を結わえる。埃と戦う準備をしなければならない。
「ちょっと掛かると思うから、休んでいてくださいね。座るところもない……というより、まず中に入れないと思うんだけど」
「ああ、うん……これはそうだろうね……」
エルゥの呆然とした様子に、アーシェはちょっと笑ってしまった。
「暇なら、どこかで遊んできても大丈夫ですよ。ずっと私の傍に居なくても」
「それは僕が居たいから居るんだよ。言ったでしょ、僕は君と一秒だって離れていたくない」
軽く言ったつもりのひとことに、エルゥはやけにきっぱりとした態度で断ってきた。けれど。
「……でも、さすがにこれはちょっと……堪える……かな……。少し離れても大丈夫?」
やはりこの荒れようは厳しかったのだろう。しゅん、と肩を落としてそんなことを言ってきた。そのがっくりした姿に、ますますアーシェは笑ってしまう。
「ふふ、いいですよ。半刻以上掛かると思いますから」
「うん。それまでには戻ってくるね。大変そうなのに、手伝えなくてごめん」
「いえあの、さすがにここまではお願いできません」
なるほど、掃除まで手伝ってくれるつもりだったのか。慌てて手を振るアーシェに、エルゥは弱々しく微笑む。
「それじゃ、ごめん。……またあとで」
耐えかねたのだろう、口元を手で覆って顔を背けるようにしてエルゥは行ってしまった。
「……まあたしかにこれじゃ、気分も悪くなるわよね」
目の前に広がるのは、山のような紙と散らばったごみと出所の判らない腐臭。さあ、こいつは手強そうだ、とアーシェは腕まくりして、恐れることなくその中へ飛び込んでいった。
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―――人も少なく、建物も少ないこんな場所で、影のように身を潜めるというのはとても困難なことのように思う。
「居るか」
それでも、彼、はそこにいた。ひっそりと、気配さえ気取らせることなく。
「御前に」
アンセルムの家を離れて少し進んだ頃、聖堂の影になるようなひとけのない場所でぽつり、呟いたエルゥへ、当然のように応えが返った。すぐにもヒュ、と影が目の前を横切り、足下に蹲ったことで人間、一人の男がそうしたのだと判る。
「様子はどうだ」
ひややかな声で、短くエルゥが尋ねた。その口調も、顔つきも、アーシェの傍に居る時が嘘のような冷徹さだ。
「あまり時間はないかと。気付かれたかどうかははっきりとしませんが、向こうもそろそろ着く頃合いかと存じます。かち合わせたくはないんでしょう?」
「当然だ。……」
少しの沈黙。
考え込んだエルゥに、男は何も言わなかった。ただ黙って、青年の下知を待つ。
ややあって。
「……少し外す。彼女についていろ。お前のことだ、気付かれるようなことはないと思うが」
「承知しております。影のように」
「それでいい」
頷くと、エルゥはただ一言、行け、と短く命じた。
応えはない。男は、また一人の人間から影に戻ると、風を切るような速度でエルゥの前から立ち去った。
あとにはただ、青年一人が残される。
まるで別人のように鋭い視線で辺りを睥睨すると、ふ、とひとつ嘆息し、エルゥはどこかを目指して静かに歩き始めたのだった。
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