第二章
貴族の若さまが村暮らしに順応しすぎてる件
第一節(前)
着古した粗末なコットの袖から、不釣り合いなドレープたっぷりの、ひらひらしたシャツの袖飾りが溢れている。
「それじゃあ、お渡しする荷物はこっちで良かったかな。アーシェ」
「あっハイ」
「では、こちらです。ご確認下さい」
「はあ……こりゃまたどうも」
いかにも品の良い、フリルやドレープたっぷりのドレスシャツの上から、譲って貰ったぼろぼろのコットを重ねる。その上から、腰にしっかりとした皮の剣帯を回して白銀に輝く剣を吊している。
そんな珍妙な格好をしてにこにこと愛想良く微笑んでいるエルゥに、仕立屋のおかみは目を丸くしていた。気持ちは解る。解りすぎるほどに解る、とアーシェは頬の内側を噛んで笑い出すのを堪えていた。
その上、エルゥはアーシェがいつもかついでいる籠まで背負っているのだ。これで笑うなというほうが無茶だ。
「あー……じゃあ、確認させて貰うよ」
「どうぞ」
エルゥが籠の中から取りだしておかみに渡したのは、アーシェの仕上げたシャツが三枚、普段着用のコットが二枚の完成品だった。アーシェはここの仕立屋から、いつも仕事を貰っている。
おかみは微妙な顔をしつつ縫い上げられたシャツを広げ、不自然なほどじっ、と縫い目を見つめていた。解る。今だってアーシェはエルゥの姿を正視できない。
「あの、それ……どうしたんですか」
「それって?」
堪りかねて尋ねると、エルゥは何の事か解らない、といったふうに首をこてんと傾げた。ややあって、ああ! と嬉しそうな声を上げる。
「これ、いいでしょう! 昨日、君の家から帰ったあとに交換して貰ったんだよ。どうも僕の服は、ここでは浮いてしまうみたいだから……。皆と同じ物を着てみたかったんだよね。ふふっ、これでお揃いだよ、アーシェ」
くすぐったそうにはにかんで笑い、コットの裾を摘まんで見せる。エルゥは本当に嬉しそうだった。そんな顔を見てしまっては、さすがにアーシェもいやそれ酷いですよ、とは言えない。……世の中には、言わなくても良いことのほうがきっと圧倒的に多いんだろう。
「ちなみに、何と交換したんですか?」
だからちょっとだけ、話題の方向を変えた。エルゥは相変わらず嬉しそうにニコニコしている。
「うん。最初はね、僕の上着と交換しようと思ったんだけど……何だか凄い勢いでやめてくださいって言われちゃって」
ああ、それは気の毒に。アーシェはこっそりと、誰かも解らない村人に同情した。
エルゥの着ていた上着はそれは良い物で、絹で仕立てた上に手の込んだ刺繍やら何やらがびっしり施されていて、とてもじゃないが手元になんか置いておけない。どこか大きな町で売ってくるとしても、どこで盗んだと大騒ぎになるのが目に見えている。
「だから、じゃあ何がいいかなって思ってたら、着古してるしタダいいって、持って
行っていいって言うから。それじゃだめだよ、って銀貨三枚で交換して貰った」
「……それ、買い上げたって言うんじゃないですか?」
「あ、それもそうか。うーん、あれで足りたのかな」
足りたも何も。普段使いのコットなら、小銀貨三枚もあれば新品を買える。これだけ着古して、袖や裾がすり切れているものなら銅貨五枚でお釣りが来るはずだ。
「充分足りてると思います」
「そうか。それなら良かった」
エルゥはにこにこと笑っている。いつもの顔。それを見て、この人はいつも笑っているなあ、とアーシェはぼんやり考えた。
―――あれから数日。エルゥはこの調子で、ずっとアーシェのうしろを付いて回っている。
比喩ではない。雛鳥のごとく、常に背中に張り付いてアーシェの行くところ、行くところを付いて回っているのだ。
初日と同じように、朝、まだ暗いうちからアーシェの家を訪れることから始まり(さすがに寝室には入らないようにさせたが、これも苦労したものだった)、夜、酒場で食事を取ってから家まで送られてそこで別れる、といった調子だった。
それなのに、何故かアーシェはうんざりときていない。それはきっと、エルゥのこの人柄によるものが大きいのだろう。
「僕も随分、ここの生活に馴染んできたと思わない? これでもっと、君の手伝いも出来るよ」
不思議な人だ。お貴族さまのお坊ちゃま、なのに、エルゥは少しも働き惜しみをしない。
朝はアーシェが身支度を整えている間に水汲みをし、火を熾して、自分で用意して来た朝食をテーブルに並べておいてくれる。そこから始まって、裏庭の畑の手入れもとても楽しそうに手伝ってくれるし、古い家の補修までやってくれる。
さすがに針仕事の間は椅子に座って、アーシェの手元をじっと眺めているだけだけれど、それだって少しも退屈そうにはせずいつまでも飽きずに眺めていた。その上、こうして村へ降りてくるとなれば、荷物持ちまで買って出る。一度も、嫌そうな顔をしたことがない。
エルゥは、いつでも笑顔だった。心からこの生活を楽しんでいるように見えた。
「―――よし、大丈夫だ。あんたは本当に手が細かいね。丁寧な仕事だよ」
じっくりと納品した服を検分していたおかみが、満足そうにそう言った。どうやら、確認作業の間に笑いの衝動も過ぎ去ったらしい。
「ありがとうございます!」
「これで刺繍までやって貰えれば、もっと頼める仕事も増えるんだけどねえ……」
「すいません、それだけはどう頑張っても無理です」
嘆息するおかみに、アーシェはきっぱりと告げた。おかみが笑う。
「あたしだって、せっかくの上物をダメにしようとは思わないよ。あんたとうとう刺繍だけは身につかなかったねえ。ヴィニーの刺繍は、そりゃあ見事なもんだったのに」
「アーシェ、刺繍は出来ないの? こんなに縫い物が上手なのに?」
エルゥはひょい、と脇から不思議そうに、おかみの持つシャツを覗き込んだ。目の細かい、きっちりと揃った縫い目。縫った人間の気質が浮かび上がるようなそれをしげしげと見つめてから、どうして? と目で問いかける。
アーシェはちょっと苦笑した。
「どれだけ練習しても、ダメなの。何か、こう……不気味なまじないの紋様みたいなのが浮かび上がってきちゃって……」
よく刺繍が下手な人間は、猫を刺しても豚に見える、だとか色々言われているけれど、あれはウソだ、とアーシェは思う。
だって同じ四つ足の動物にちゃんと見えてるんじゃない。そんなの誤差だ。こっちはまじないだの呪いの紋様だの散々言われてきてるのに。
むごい。
「逆に凄いね? 見てみたいな。ねえ、今度僕にも何かひとつ、刺してみてよ」
「うわぁ案外残酷な人だった!」
うわあん、と天を仰いだアーシェに、笑い声が上がる。おかみまで一緒になっての大笑いに、アーシェはぷく、と頬を膨らませた。
「人が苦手な物を笑っちゃいけないんですよ」
「ふふ、ごめんね? だって君はびっくりするぐらい何でも出来るのに、苦手なものがあったなんて可愛らしくて」
「かわっ……」
「うん。君はとってもかわいいよ。アーシェ」
ちょっと拗ねてみせただけのはずのに、存外に甘い声でうっとりと言われてしまって、アーシェは絶句した。何か言ってやろう、と思うのに、言葉が出て来ない。
エルゥはその様子を面白そうに眺めると、とても自然な動作でぽん、とアーシェの頭に手を置いた。何か、とても大切なものにそうするような、眼差しと手つき。そんな扱いをされたら、どうにも気持ちがくすぐったい。
「……母さんの刺繍は凄かったんですよ」
「君のお母さま? その、ヴィニーさんって人のこと?」
「そう。ね、おかみさん。母さんの刺繍は、王都でだって高値がつくくらいの見事なものだって、皆言ってましたよね」
「ああ、ヴィニーの手は大したものだったよ。そうだ、ちょっと待っておいで」
とっておきの衣装に使うために、とっておいてあるんだよ。そう言うとおかみは一旦、店の奥へと戻っていき、すぐに両手で抱える程度の箱を持って現れた。
「ほら、ごらん」
そうして広げられたのは、真っ白な絹に刺された花々の数々。
「うわぁ……!」
真っ先に感嘆の声を上げたのは、アーシェ自身だった。ちょっとした手巾や、コットの裾、襟などに仕事で刺していたそれと目の前の作品は、もうまるで質が違うと一目で判った。
ふっくらと盛り上がる花弁―――それが糸で刺された物とは思えないほどに瑞々しく描かれた大輪の百合と、それを取り囲む小さな花々。生き生きと緻密に描かれたその純白に、息を飲むほどだ。
「なるほど……、これは凄いね」
「でしょう?」
「うん。淑女の皆さんが目の色を変えそうだ。……おかみさん、もしこれが欲しいと言ったら、僕に売ってくれますか」
目を瞠ったエルゥがそう言い出したのへ、アーシェはぎょっとして彼を振り返った。突然、何を言い出すんだろう、この人は。
「いいや。それはできないよ。申し訳ないけどね」
しかし、おかみは小さく笑って首を横に振った。
「もうこれの使い道は決まってるんだ。どれだけ大枚はたいて貰っても、これだけは譲れないよ」
「……そうかぁ。残念だけど、仕方がないね」
エルゥはあっさりと引き下がった。アーシェはほっ、と息をつく。良かった、母さんの刺繍はまだしばらく、ここで誰の物にもならずに置いておけるんだ。
もう使い道が決まっている、とおかみさんは言った。それはいったいどんな衣装になのか、誰の手に渡るのか。気にはなるところだけれど、これは仕事として母が納品した物だ。仕方がない。
「さて、今回もご苦労さん、アーシェ。こっちが代金だよ、確かめておおき」
話はこれで終わりだ、とばかりに、おかみは箱の蓋を閉めると小銀貨六枚を並べて寄越した。シャツ三枚、コット二枚でこれならだいぶ良い仕事だ。
「ありがとうございます」
「こっちこそ、いつも助かってるよ。また注文が入ったら頼むからね」
「よろしくお願いします!」
「あんたも、あんまりアーシェの邪魔をするんじゃないよ」
「はぁい。でもしてないよね?」
悪戯に顔を覗き込んでくるエルゥには答えず、くすくすと笑ってアーシェは仕立屋を出た。
……エルゥは、どこからどう見ても貴族の若様だ。だけどちっとも偉ぶったところがなくて、アーシェのあとをうろちょろと付いて回っているものだから、村中の皆がもう彼に慣れて親しんでいる。おかみさんにしたってそうだ。二、三回顔を出しただけで、もうすっかり馴染んでしまった。
「ねえちょっとアーシェったら、してないよね? 僕、君の邪魔じゃないよね?」
―――不思議な人だ、と思う。
いつもにこにこと楽しそうにしていて、動き惜しみをしない人。こんな小さな村の農民にさえ、平等に接してくれる人。この人から、身分だの言葉遣いだの、礼儀だのという言葉を聞いたことがない。誰とでも親しげに話して、笑って、そうしていつの間にか、するりと馴染んでいる。
たった数日前に現れたとは、とても思えないくらいだ。
「アーシェ。ねえってば」
そんなに気になるのか、答えないアーシェにエルゥはしつこく食い下がってくる。アーシェはふふっ、と肩をすくめて笑うと、首だけで振り返って片目を閉じて見せた。
「してないですよ。朝の仕事も、畑の世話も、いつも助かってます」
「―――そうか! 良かった!!」
いったいこの人は、どういう人なんだろう―――。
アーシェの日常にするりと入り込んできた、貴族の坊ちゃま。いったい何の為にここに来て、自分につきまとっているのだろう……。
「そういえば、エルゥ。あなたこの村には何か用事があって来たんじゃなかった?」
何の目的もなしに、こんなところに来るとは思えない。ただ、農民に交じって楽しそうにしているこの酔狂な若さまなら、ただ遊びに来たと言っても不思議ではないような気もする。
「ああ、うん。そうだね」
「こんなに毎日私のところに来ていて、そっちは大丈夫なんですか」
「心配してくれるの? やさしいなあ。嬉しいよアーシェ、ありがとう」
でもね、大丈夫。
「代わりに動いて貰ってる人がいるから。問題ないよ」
そういえば、エルゥと出会ったあの日。
宿屋の前の馬泊まりには、二頭の立派な馬が繋がれていたことを、アーシェは思い出した。
「それってお付きの人、とか? いたんですか」
そんなこと、すっかり忘れていた。だってエルゥはいつも一人で、ほいほいとアーシェの前に現れる。こうしている今だって、そんな人がいることは微塵も感じさせないのに。
「いるよ。僕は一人じゃどこにも出られないから」
そう呟いたエルゥの顔は、それまでにアーシェの見た事がないものだった。どことなくひやりとする。
「でも、君といる時間を邪魔されたくないからね。別に動いて貰ってるんだよ」
それでも、すぐにエルゥはまたいつもの顔に戻った。ニコ、と口元を緩めてアーシェに微笑みかける。
「……また、そうやってふざけて」
「酷いなあ。本心だよ。僕は一秒だって君と離れたくないし、一緒に居られる時間を無駄にしたくない」
「意味解んないです」
「つれないなあ」
エルゥはいつもにこにこしていて、親しげで、だけど。
こんなふうに、どこまでが本心かよくわからないことばかりを、いつもしている。
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