第二節(後)
そうだ、夢ではなかったのだ。悲しい事に現実だった。綺麗な髪だね、とうっとりした口調で褒められたのも、君に出会うために生きてきた、などと口説かれたのも。
「まったく、冗談じゃないってのよ……! 本当に勘弁して!!」
ぱたん、と笑いながら閉じられた扉に全力で枕をぶん投げつつ、汗を浮かせてアーシェは独りごちた。たった今までベッドの脇で右手を握っていた青年は、レディの身だしなみには時間がかかるものだからね、大丈夫、待ってるよ―――などと言いつつ、にこにこした笑顔のまま寝室から出て行った。それとも、手伝おうか? と付け足したものだからアーシェが枕を投げるに至った訳だけれども。
「うわ、いつのまに運び込んだのこれ!?」
そうして、手元に目をやって愕然とする。使い古した粗末な毛布一枚で寝ていたはずが、その上からふかふかの羽布団が掛けられていた。どうりで暖かいはずだ。……いったいどこから持って来た。
「頭が痛い……うう、夢なら良かったのに……」
額を抑えて、うーうーと呻く。そうだ、残念ながらこれが現実だった。あのエルゥという青年は昨日、あろうことか出会ったばかりのアーシェに運命だの何だのとのたまった挙げ句、そのままべったりとひっついてきたのだ。
おろおろする村長に笑顔で礼を言い、たっぷりと謝礼だかお土産だかを渡した若様は、そのままアーシェの顔を覗き込んで質問攻めを始めた。
君はここの人? 名前をもう一度教えて。どこに住んでいるの? 仕事は? 付いていってもいい? 歳はいくつ。兄弟姉妹はいる? お父さまとお母さまはどちらに?
ひとつひとつを丁寧に答える暇もない、矢継ぎ早の質問だった。どうしてこんなに根掘り葉掘り聞かれているのか、もしかしてこれは尋問か何かか。強張った顔で口調も固く尋ねるアーシェに、エルゥはそれは良い笑顔で言ったものだった。
「いやだな、そんな他人行儀な話し方をしないで、アーシェ。お願いだよ。君に畏まった言葉なんて使われたくもないし、そんな水くさく距離を空けられてしまったら、僕は泣いてしまうよ!」
と。
……正直、あの時が分岐点だったのではないか、と思う。彼の言う通り「水くさく」「距離を空けて」「畏まった言葉遣い」で通せば良かったのだ、きっと。
だけどアーシェはそうは出来なかった。どう扱えばいいのか解らなかった貴族の若様、が浮かれた様子でにこにこと村の娘を質問攻めにする、といった非常事態に、村長はおろおろして次の態度を決めかねていた。伸ばしかけては下ろされる老いた手が、ぎゅ、と何かを覚悟したかのように握り込まれる。
これでいて、村長は「この村を守る」―――ひいてはそこに住む村人を守る、という責任感が強い。きっと見かねて、お手討ち覚悟で若様とアーシェの間に割って入るつもりだったのだろう。
しかしアーシェは、そんなことで村長が理不尽に怒られたり、あまつさえ本当に手討ちになどされるのはまっぴらだった。
だから。
「あーもーわかりました。だったら言わせて頂きますけど、ちょっと落ち着いて下さい! だいたいどうしたんですか、ここには何かご用事でいらっしゃったんじゃないんですか!? わたしのことなんかにかまけてる場合ですか!!」
そんなふうに、まあ、言ってしまえば半ばキレてまくし立ててしまった。
正直なところ、言った瞬間にちょっと後悔した。あ、やってしまった。とうとうやらかした。そう思いもした。
が、しかし。
「……いや、何なんですかその顔。どうしたって言うんですか本気で」
次の瞬間、エルゥは―――それはそれは嬉しそうに、どこからどう見ても満面へ、にっこー、と輝かんばかりの笑みを浮かべたのだ。予想外もここに極まる。
そこからはもう、なし崩しだった。
「……もうホント何なのあの人……うう……わけわかんない……」
エルゥは懐いた。それはもう懐いた。挙げ句村長にアーシェを案内役として貸して欲しい、とか何とか言って、アーシェを一日中連れ回した。その際に、ちゃんと村をぐるっと一周して見て回っている。普段なら旅人だって足を延ばさないようなところまで、こまごまと案内をさせられた。律儀か。
しまいには村に一軒しかない酒場兼宿屋で、この辺りとしては精一杯の豪勢なディナーをたっぷりとご馳走になったあと、馬に二人乗りしてこの丘の家まで送られて来た。
そうだ、家まで。
昨夜、いつもならとうに寝ているはずの夜もとっぷりと更けたあの時間に、エルゥは確かにアーシェを家まで送り届けると、じゃあまた明日、と言って丘を下っていった。一応、その馬影が見えなくなるまで、アーシェはちゃんと彼を見送っている。
……それなのに何で今朝、いやまだ朝すら来てない、真っ暗だ。そんな今、この時間、ここに、家の中にいるのか。鍵とかそういうものはいったいどうしてしまったのか。
それがまず、一番の問題だろう。
「……あとでタイミングを見計らって、問い詰めなきゃ」
はぁ、とまた溜息をついて、アーシェはのろのろとベッドから降りた。春もまだ浅いこの時期、早朝は冬と変わらないくらいに寒い。丘の上に竜子の家は、尚更冷える。
ふかふかの羽布団は、うっとりするほど暖かかった。だけどいつまでも、火も入れていない居間でエルゥを待たせておくわけにもいかない。きっと王都のお屋敷は使用人たちにいつでも暖められていて、こんな寒さなど知らないだろう。風邪をひかせてしまう。
落ちかかる髪を払って、着替えの置いてある木箱へ向かった。じく……、と背中が鈍く痛んだ。腹から下は布団の中だったとはいえ、上半身はずっとこの寒い中に寝間着一枚で晒されていたから、きっと冷え切ってしまったんだろう。
「やっぱり朝のうちは、まだまだ寒いなぁ」
身に付けるのは、毎日代わり映えのしない三枚だ。飾り気のない綿のブラウスと、足首のちょっと上くらいまでくるスカート。その上に、膝あたりまでの長さのコットを重ねる。身体が温まるまでは、ウールで出来た厚手の物にしよう。そう考えて、暗い赤のコットを選んだ。
ちょっとお洒落を気にする者は、この上からサッシュを巻いたりベルトをしたり、よそゆきの時はリボンで腰を締めたりする。だけどアーシェは、一度もやったことがない。ベルトをすると布が引き攣れて、大きく腕を動かせないのがいやだった。
だから今日も、ばさりと頭からかぶったら裾を引っ張って、それで終わりだ。夜のうちに用意しておいた水で顔を洗い、髪を梳く。たったそれだけで身支度は終わった。これのどこに手伝いが必要なのか。……きっと、王都の淑女なら着替えひとつでも手が掛かるのだろうけれど。
「お待たせしました。すぐに火を」
入れますね。そう続けるはずの唇は、けれどドアを開けた瞬間にふわ、と頬を撫でた温かな空気に、中途半端に開いたまま止まってしまった。
玄関を開けるとすぐの小さな居間は、食堂と台所も兼ねている。置いてあるのは、小さな二人掛けのテーブルと椅子、調理も暖気もひとまとめに出来る暖炉代わりの薪ストーブ。それだけだった。
「あ、アーシェ。勝手にやってしまったけど、これで良かったかな」
その薪ストーブに、火が入っている。ぱちっ、と薪を小さく爆ぜさせながら、赤々とした炎をゆらゆらと立ち上らせている。
「え、あの、だって火なんて」
アーシェが朝、一番にする仕事は、このストーブに火を入れることだった。寒い部屋の中で、かじかむ指先に息を吹きかけながら火の世話をする。そうしないと、小さな家はいつでもしん、と静かに冷え込んでいて、とても寒い。
……母、が。
病を得て寝つくまでは、いつもこの家は暖かかった。アーシェが起きるといつも、ストーブには火が入っていてとても暖かかったのだ。そのことを、不意に思い出した。
「僕はいいけど、女の子は身体を冷やしちゃだめって言うからね。まだ陽も昇らないし、あったかくしなきゃ。アーシェ」
エルゥはドアの前に立ち尽くすアーシェに、少し笑って両手を広げた。ふわ、とアーシェの肩にもうひとつのぬくもりが宿る。エルゥが毛織りのショールで肩を包んでくれたのだと、気付くまでにちょっとかかった。
「さあ、君は座ってて。あとは何をすれば良いのかな? 朝の仕事があるんだよね。えーと……水汲みとかかな」
呆然とするアーシェの手を、まるで子供にするように引いて椅子に座らせる。そうしてエルゥは、またニコ、と小さく笑った。
「ここの水瓶をいっぱいにすればいいんだよね。井戸は……、ああそうだ、裏手にあったね。行ってくる」
「え、いや、あの。そんな仕事をさせる訳には」
慌てて引き留めようとしたアーシェを、けれどエルゥはめっ、と本当に子供にそうするようにして咎める。
「僕はただ、お客様になりに来たんじゃないんだよ。やりたいんだ。だから気にしないで、僕にやらせて」
そうだ、君はお茶でも飲んでいるといいよ。寝起きは身体が冷えやすいから。
そう言ってエルゥは手際よく、お茶を入れ始めた。だけど茶器、なんて高価なものはこの家にはないし、そもそもお茶そのものがとんでもない高級品だ。この辺りではまず手に入らない。
「……それ、あの、どこから」
「うん? ああ、僕の旅道具だよ。割れないように木と鉄で作ってあってね……、お茶ならお湯を沸かせばすぐに飲めるから、野営する時に便利なんだ。いつも持ち歩いてる」
野宿なんてする時に、高級品であるお茶を。そのちぐはぐな取り合わせに、アーシェは改めて実感した。エルゥは本当に、自分とはかけ離れて裕福な人なのだ。
「はい、どうぞ。きっと君も気に入る。飲んでみて」
そうしてテーブルにことり、と置かれた木のカップには、淡いオレンジ色をした液体がたぷん、と表面を揺らしていた。ふわ、と果物のような香りが漂う。
「でも、私こんな、」
「お裾分けだよ。いいでしょ?」
「……頂きます」
こんな高価な物、とても貰えたものではない。けれどにこにこと嬉しそうに微笑んで勧めてくるエルゥの顔を見ていると、頑なに拒否することも出来なかった。
諦めて、そっとカップを手に取る。薄く削られた木の器越しに、じわ、とぬくもりが染みてきた。ふ、とせわしなく立ち上る湯気を吹いて、そっとひとくち。
「……あまい……」
初めて飲むはずのお茶は、どこか懐かしい味がした。匂いと同じ、瑞々しく蜜をたっぷり含んだ果物の味が微かに残る。ほっとする甘さに、ほう、とアーシェは嘆息した。
「気に入った?」
「おいしいです。とっても」
「良かった! これ、余計に持って来た分だからあげるよ。毎朝飲むといいよ、温まるからね」
「いえ、あの、そこまでは」
「遠慮しないで。余らせても仕方がないから」
「……はい」
運命の王子、だとか。
そんなのはあり得ない話だ。要は貴族の若様にとって村の娘は物珍しく、だからこうしてかまいつけてくるんだろう、と。
それはたとえば、灰かぶりのおとぎ話のように。
「じゃあ、僕は水を汲んで来ちゃうから、君はそれを飲んでいて。薬にもなるお茶だから、残さないで、ゆっくり飲むんだよ」
彼の渡してくるものが、花やドレスや宝石や、そんなものだったらいりません、と突っ返すこともできた。だけど、こんなふうに。
「……はい」
「うん、いい子!」
身体を温めてくれるもの、やわらかく包んでくれるもの。アーシェをそっと大切にしてくれるものばかりを差し出されてしまったら、どうしたらいいのか解らない。それはまるで、彼の心を手渡されたようなものだからだ。
張り切ってこの寒いのに、腕まくりまでして外へ出て行った青年の背中を、ぼんやりと見送る。
あったかい、ってこんな、目が滲んでくるようなものだったんだなあ。
ぐずっ、とほんのちょっとだけ鼻を啜って、アーシェはゆっくりと、カップの中のお茶を飲み干したのだった。
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