第二節(前)

 それは、昔々から語り継がれている、罪のないおとぎ話だ。


 似たような話はいくらでもある。貧しい少女が、苦しさに喘ぐ中でどうにか明日を繋ぐために夢想する、憧れの話。


―――いつか王子さまが見初めて、このつらい生活からわたしを連れ去ってくれるわ。

―――今とは何もかも変わるのよ。きれいなドレスに食べきれないほどのご馳走、甘いお菓子にふわふわのベッド。きらきら光る沢山の宝石に飾られて、誰もが羨む王子さまに手を引かれて踊るのよ。そうして、誰よりも愛される。大切にして貰える。―――


 全ての夢を集めたようなそのおとぎ話は、いくつもいくつも存在した。そのどれもが、苦境にある少女が貴公子の愛を得る物語だ。多分、一番に有名なのはかの「灰被りの少女」の話だろう。意地悪な継母や姉妹から虐げられるも、王子に愛されて、ただ愛されて、そこから抜け出していく。


……冗談じゃない、と思った。

(いや愛されること自体は別に、文句も何もないんだけど)


 わたしだったら、そんなのはごめんだ。その物語の主人公たちは、いったい、王子に何を返せるのだろう。愛? だけどそれは、王子だって与えてくれているはずだから、それでおあいこだ。


 綺麗なドレスに輝く宝石、いっぱいのご馳走に何の心配もない暮らし。その全てをただ与えられて、何も返せるものがないなんて。私だったら、それはとても、惨めに感じる。


 王子、という絶対者に寄りかかって、ただ愛されて可愛がられて。頭を空っぽにしてそれを受け取るだけだなんて。

 そんなの、砂で作った城と同じだ。きっと、あっという間に波に攫われて消える。綺麗さっぱりと。


 そうしたら、そこからどうやってまた立ち上がればいい? それまでずっと、口を開けて与えられるのをただ待つだけだったものを。


『なんて美しい髪だろう……。僕が今までに見てきたどんな人よりも、君は美しいね、アーシェ』


 やめて。何の冗談なの。


『冗談だなんて。酷いな。腹の底から本心だよ。アーシェ、僕は君とこうして出会うために生きてきたんだ』


 いや、ないでしょ。ないわ。何なのその理由も何もかもすっ飛ばした話は。

 まさか一目惚れだとか言い出したりしないでしょうね。その手のお遊びに付き合えるほど、私暇じゃないです。おとぎ話なんて知らない。私はちゃんと、私で生きていく。針子の仕事だって、山ほど抱えてるんだから!


「……うう……」


 ぎゅ、と食い縛った唇から、いかにも苦しげな呻き声が漏れた。真っ暗な寝室に、寝返りを打つ衣擦れがガサガサと響く。


「アーシェ。アーシェ、大丈夫だよ。心配しないで。もう、何も怖いことはないからね」


 いや無理。何が怖いってあなたが怖いわ。やめてください。いや確かに何かが起こるかなーってわくわくしてたけど、完全にこれは予想外です。こういう驚きは求めてなかった!!


「ほら、大丈夫。安心して、ゆっくりおやすみ」

「―――いや、ないわ。ないない。ないです」


 ぱち、とアーシェは目を開いた。粗末な毛布一枚しか掛けていなかったのに、やけに暑い。身体がほかほかしている。


 見上げた天井は、見慣れた自宅の寝室のものだった。ああ、良かった、夢か。何だかとても怖い夢を見た気がする。貴族のお坊ちゃまが自分を運命だとか何だとか、空恐ろしい台詞でいきなり跪いてきて―――


「……ああ、起きちゃったのか。でもうなされてたみたいだから、その方が良かったかな」


 ベッドの脇から、穏やかな甘い声がした。少し低くて、だけど歌うように囁く、やさしい声だ。


「さあ、もう一度おやすみ。まだ外は暗いよ。たっぷり眠れる。心配しないで。僕がずっと、君を守ってあげるからね」


 いつの間にか右手が、きゅ、と暖かな手に握られていた。まるで壊れ物を扱うような丁寧さで、掌に包まれている。アーシェは寝起きのぼんやりした頭をこてん、と右側に倒した。薄地のカーテンを透かして差し込む月明かりに、ぼんやりと、夜空色の瞳が瞬く。


「……いやいやいや。ない。ないわ。ないから」


 アーシェはもう一度、先刻と似たような台詞を繰り返した。視線の先では、エルゥと名乗った青年がふわっ、と不思議そうに首を傾げていた。


「いや、何で『どうしたの?』みたいな顔してるんですか。当たり前です! 知らない男がいきなり寝室で自分を見下ろしてたら、そりゃ眠ってられる訳がないじゃないですか!」


 いや本当にやめて頂きたい、心臓が止まるかと思った。目の前に誰かがいる、手を握られている、つまり不法侵入されていると気付いた瞬間に全身が凍った。抜剣しようと一瞬、自由だった左手が動いた。


「やだなあアーシェ、その『知らない男』ってもしかして僕のこと? つれないことを言わないで。昨日、自己紹介だってしたでしょう」

「名前以外どこの誰かも解らない人のことを、世間では知らない人って言うんだと思います」


 あー、心臓がまだバクバク言ってる……。


 荒くなりそうな呼吸をどうにか抑えつつ、平静を装って続けるアーシェに、エルゥはにっこりと口元で笑って握った手を持ち上げた。


「酷いな。僕はちゃんと言ったでしょう。僕は君の、運命の王子だよ。アーシェ」

 

そうして、あろうことかその手の甲に、ちゅ、と押し当てるだけの唇を寄せる。


「だから安心して、ゆっくり休んでいいからね。そうだ、子守歌でも歌おうか? きっとよく眠れるはずだよ」

 

そうして、そんなことをのうのうとのたまうものだから、さすがにアーシェも我慢の限界に達した。貴族がなんだ。無礼でお手討ち? 知ったことか!! 乙女の寝室に入り込むなど万死にあたいする!!


 がばっ、とそれは見事に腹筋だけで起き上がって、アーシェはくわっ、と目を剥いた。左手がバッ、と寝室のドアを差す。

 その形相のままスゥ、と息を吸い込んだアーシェに、エルゥはにこにこと微笑んだまますかさず両耳を塞いだ。


「出てけばか―――!!」


 そうして放たれたその一言は、エルゥ本人が喰らうことなく、ただわんわんと虚しく丘の上の小さな家に響き渡るのみなのだった。……




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