第一節(後)
ようやっと寒い冬が過ぎ去ろうとしている、春浅い日の午下がり。
少しずつ黄色みを帯び始めた陽光がぽかぽかと頭の上を照らしてくるけれど、さあっ、と吹いていく風はまだ、芯が冷えている。アーシェはその中を、籠を背負った格好で足取りも軽くタッ、タッ、と進んで行った。
動いて滲んだ汗に、風が気持ちいい。踏み固められた道の両脇で、ひょこり、と顔を出し始めた野の花がやわらかく萌えている。若葉の色は、それを見つめるアーシェの瞳と同じ色をしていた。やわくあたたかな色味なのに、溢れるような生命力を感じさせる色だ。
布靴の裏をふっくらと受け止める土の上を、どんどん歩いて行く。陽光を受けて、アーシェの瞳がきらきらと光る。何かを楽しがっているような、好奇心に満ちた目をしていた。
代わり映えのない面々、代わり映えのしない道のり、代わり映えのない村。それでも、アーシェには次に何が起こるのだろう、という期待が満ちている。
先生がああ言うからには、きっと村長の家で何かがあるのだ。アーシェが呼ばれたとすると、領主のところから何かのお触れでも来たものか。村で文字の読み書きが出来るのは、アーシェとアンセルムの二人だけだ。そして、アンセルムは面倒がって呼び出しには応えない。
だから何かの書状が来る度、村長はアーシェを頼っていた。返事を代筆するのもアーシェの仕事だ。村長からの呼び出しといえば、十中八九の用件がそうだった。
ずんずんと道を進む。迷いたくとも迷えない一本道を真っ直ぐに歩くと、村唯一の広場である聖堂前が見えてきた。半円を描くように、その回りを数少ない店や宿屋が並ぶ。ここにあるのが村の商いの全てだ。酒場兼宿屋が一軒、アーシェも世話になっている仕立屋が一軒、髪結い所が一軒、調味料から靴まで何でも扱う雑貨屋が一軒。
宿屋の前で、見かけた事のない栗毛と濡れたようにつやつやした漆黒の馬が一頭ずつ、馬止まりに繋がれているのを見た。滅多に見ない光景だ。どうやらやっぱり、村の外からお客さんが来ているらしい。何が起きるんだろう。ますますアーシェの足取りは軽くなった。
聖堂をぐるりと回って、その斜め後ろ側へ。ゆるい坂道を上っていくと、他の家よりもほんのちょっと大きいだけの村長宅が見えてくる。
玄関先で、小間使いの少年がおろおろと不審な動きをしているのが見えた。
「あっ! アーシェ!!」
「こんにちはー。先生に言われて来てみたよ、どなたかお客さま?」
「そうなんだよいいところに来てくれたぁ! 良かった、探しに行くところだったんだ……!」
「今から呼びに来たとなれば、かなりお客さまをお待たせすることになったわね」
半泣きになってべしょ、と顔を歪める少年の頭を、アーシェはよしよしと撫でてやった。アーシェの家は、村の囲いの中にはない。少し離れた小高い丘の上で、ぽつんと一軒だけ建っているのだ。昔は炭焼き職人が暮らしていたらしいその家までは、子供の足なら村から半刻ほどかかってしまう。
「間が良かったわ。先生に感謝ね」
「と、とにかく、物凄く急いでって村長さんが仰ってたから……! 早く入って! 早く!!」
「ちょ、行く、行くから押さないで」
この慌てようは久々だ。よっぽど上の人が来ているのだろうか。確かに、あまり待たせるわけにもいかないだろうが―――
「おおアーシェ! 良かった早く!!」
「村長!?」
―――ばん、と勢いよく扉を開けて飛び出してきた初老の男に、アーシェは目を瞠った。まさか村長自らまでがこんなふうに、慌てて飛び出してくるなんて。
「いや助かった、本当に助かった。儂じゃどうしたらいいのか解らん。ほら預かるから籠は下ろして、ああ髪がぐちゃぐちゃだ。また練兵場に行っていたな? とにかくなりを調えて、急いで客間に」
「ちょ、ちょっと待って村長さん、いったい何がどうしたって言うんです!?」
滔々とまくしたてながらするりと背負い籠を奪い、それを小間使いに押しつけて、足を止めたアーシェの背中をぐいぐいと家の中へ押し込む。流れるようにその一連の動きをやってのけた村長は、見るからにあからさまに焦っていた。
「お貴族さまだ、都のお貴族さまがいらっしゃった。領主の所の代官なんてもんじゃない、本物のお貴族さまだ」
「えっ?」
脂汗をじわじわ滲ませた村長はやっと説明をし始めてくれたが、それでもアーシェを押す手は緩めない。あっという間に内側へ押し込まれて、小さな玄関ロビーから廊下へ進まされる。
「もう見るからに身分が高いお人だと解る。何やら用があるらしいが……、都のお貴族さま相手に、何をどうしたらいいのやら儂にはさっぱり解らん。下手に誰かに頼んで、お手討ちにされてもかなわんしな。だがお前さんなら何とかなるだろう、アーシェ?」
「いや何ですその根拠のない信頼!? 私だって解りませんよ、この村しか知らないんですから!」
「だがヴィニーは良いところのお嬢さんだっただろう。まあ、こんな村に流れてくるんだ。訳ありだったんだろうが……まあ、だからその娘であるお前さんなら多分」
「多分て!? 確証ないですよね、そんなあやふやな理由であたら若い命賭けさせないでくださいよ!!」
言い返しながらも、アーシェは背中がヒュッと冷えるのを感じた。ヴィニーは良いところの。ヴィニー。それは十四の歳に亡くなった母のことだ。母は一度も語ったことがなかったが、アーシェにもうすうす解っていた。母が良いところの―――おそらくは上流階級、それも王都から逃げてきた人らしいという事は。
指先を真っ赤に腫れさせて針仕事をしていても、粗末なコットに身を包んで籠を背負っていても、母ははっきりと解るほどに異質だった。
アーシェには、この村で暮らしてきた記憶しかない。それほどに長い間、ずっとここで生活していたというのに、母は最期の最後までここに馴染まないまま、圧倒的に異質であり続けたのだ。
……だけど、でも。
「とにかく、ヴィニーなら何とか出来たはずだ。だからアーシェ、頼む!! 儂は村から犠牲者を出す訳にはいかんのだ!!」
「私ならいいって言うんですか!? 村長酷い!!」
アーシェには、王都の記憶なんかない。物心ついてからずっと、ここで暮らしてきた。勿論、母からは田舎娘にはちょっと役者不足な躾を受けてきてはいる。だが、それが正しいのかどうかも、この田舎の村では確かめようがないのだ。
「ヴィニーの娘がそんなはずないだろう!」
「それお母さんに対する信頼であって私じゃないですよね!?」
勢いよく、だがそれでも声を潜めてぎゃあぎゃあと言い合いながらも、着々とアーシェの身体は廊下を押し進められていた。田舎の家には、寝室以外にドアなどついていない。玄関の小さなロビーから続く短い廊下を抜ければ、すぐに出入りの自由な客間だ。
「とにかく、もうお前さんしかしないんだ! 頼むアーシェ!!」
説得は無駄だ、と村長も解りきっていたのだろう。問答無用にどん、と背中を押され、アーシェは客間へまろび出た。もう為す術はない。
突然現れた田舎娘にびくっ、と肩を揺らしたいかにも裕福そうな青年の前で、すっ転ばないように爪先を踏ん張らなければならなかった。
「……君は?」
たっぷりと絹を使った贅沢なシャツと、一目見ただけで解る仕立ての良い、上等な上着。ぴかぴかに磨かれた革のブーツ。
体型はどちらかというとふっくらしているのに立ち姿はスッとしている、つまり立っているだけでも解るほどに洗練されている。そして、腰の左側に吊り下げているのは白銀に輝くよく手入れされた剣。
貴族だ。明らかにお貴族さまだ。ここまで判り易いと、逆に肝も据わる。アーシェはつんのめって中途半端に身体を折り曲げた姿勢から、スッ、と流れるように軽く膝を折った。
「―――このような田舎まで、ようこそおいでくださいました」
そうして、肩と眼差しとを僅かに下げる。片手は長いコットの脇をそっと摘まみ、もう片手はゆるく折って胸元に。
それが母から教わった、淑女の正式な礼の取り方だ。もっとも、実践するのはこれが初めてなので、上手く出来ているかどうかは自信がない。
「わたくしはこの村の者で、アーシェ・ゲニアと申します。お許しもなく御前をお目汚し致しまして、大変申し訳ございません。わたくしがご用をお伺いしても宜しいでしょうか」
言葉遣い。口調。いつも喋っている時のように、大声ではきはきと話してはいけない。ゆっくりと、歌うように丁寧に、穏やかに。
たった一言にも山のように気を遣い、そこまでをどうにか言い終えてから、アーシェはハッと気付いた。そうだ、目上のかたにはまず発言の許可を頂くまで口を開いてはいけないのだった。
しまったー! やらかしたー!! これはいきなりの無礼者、からのお手討ちコースかも知れない。
どうしよう。だらだらと冷や汗を掻きながらも、アーシェは身じろぎひとつせずにいた。許しがあるまでは、この中腰の姿勢のままでいなければならないのも作法のひとつだ。
「……アーシェ……ゲニア……?……」
貴族の若様、は、アーシェの名前を繰り返したあと、口の中で何事かをもごもごと呟いていた。アーシェ、ゲニア。……そうか、だから、……。だけどその声はあまりにも小さく、且つアーシェ自身も緊張していたもので、彼女の耳にはちっとも届かなかった。
―――えーやっぱりこれ失敗したんじゃないですか村長だから無理だって言ったじゃないですかどうしよういきなり抜剣とかされても避けきれるかどうかでもまだこんなことで死にたくもないしどうしたらどうしよう剣持って来るべきだったかないやそれ口開く前にお手討ちコースだわ、どっちにせよ詰んだ。
ぐるぐると考えるアーシェの肩に、そっ、とやわらかな手が置かれる。びく、と跳ねてはいけない肩が跳ねた。
「……顔を上げて。そんなに畏まらないで欲しい。突然お邪魔したのはこちらなんだし」
だが、頭上から降ってきた声はそんな穏やかなものだった。顔を俯けたまま、は、と目を見開く。それでも尚、礼を取ったままのアーシェに、若様はそれは鷹揚に微笑みかけて見せた。
「君たちにも都合があるだろうに、不躾にすまない」
「……とんでもございません。ご寛恕に感謝致します」
「ふふ。そんなに堅くならないでいいよ。大丈夫」
それよりももう、顔を上げて。もの柔らかな声で、もう一度、若君はそう言った。これ以上は、礼をとり続けているのも失礼になる。
「……お言葉に甘えさせて頂きます」
ゆっくりとアーシェは折っていた膝と腰を、それから丁寧に首と頭とを正した。いつものきびきびとした軽やかな動作が、嘘のようにしとやかな調子だった。
動いた拍子に、結いもせずに流しっぱなしだった髪が落ちる。さらり。首の脇でたわんで、肩から胸元へ、浅い亜麻色の髪がさらさらと流れ落ちた。姿勢を正してもまだ、肩に置かれたままだった若様の手の甲を撫でながら。
「……ああ、……」
溜息とも、感嘆とも、それとも呻きともつかない小さな声が、若様の口元で僅かに響く。何か理由でもあるのだろうか、長く伸ばしたままの前髪の隙間からは、まるで夜空のような煮詰めた紺色の瞳が覗いていた。
そうして不意に、くしゃり、と柔和だった面立ちが歪んだ。
「まさか、こんなに突然、出会うなんて」
「え?」
今、この若様はいったい何を言ったのだろう。出会うって何だ。
若様は戸惑うアーシェがコットを抑える手を、とても自然にするりと取って、そのふっくらとした身体付きにはそぐわない骨張った自分の手の中へ納めた。そうして、足下に跪く。
「えっ!?」
何コレ何してんのこの人何考えてんのそれとも何かやらかした!? あっ目眩!? 立ちくらみ!? 大変お医者さま―――なんてうちの村に居る訳がなかった! 隣村まで呼びに行かないと、やばいやばい村長急いで!
一瞬でそれだけのことをぐるぐると考えたが、若様は片膝をついた態勢で、背中を力強くまっすぐに伸ばしていた。前髪の隙間から、紺色の瞳がひたりとアーシェを射貫いている。
「……どうか僕に、名乗り上げることを許して欲しい」
「はい!?」
いやこれは諾じゃなくていったいなんですかのはい? でですね。
アーシェの混乱に気付いているのか、いないのか。
若様はどこか絞り出すような声で、掲げるように持ったアーシェの手へ額ずきながら、そっと告げた。
「僕はエルゥ。……君の、運命の王子だよ」
―――と、なんとも突拍子のないことを、至って大真面目に。
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